AKM
性能:

全長      898mm
銃身長     436mm
重量      3.29kg
使用弾薬 7.62mm×39
装弾数      30
連射速度  600発/分


左は有井製作所のAKMです。
外見で見える部品はビス以外
は全てプラスチックなんです
けども結構いい質感です(^^;)


撮影協力
ホビーショップコスモ
 AK47の登場は歩兵用ライフルの歴史を変えたといっても過言ではないだろう。頑丈な耐久性。それにくる信頼性の良さ。フルオート射撃が可能・・・などなど。ただ、欠点もあった。いくつかの欠点が指摘されているが、一番の欠点は生産性の悪さだった。AK47の機関部は650gであるが、材料は2650gのものを削り出して作っていた。ようは2000gを削り出す必要があり、材料的にも無駄であったし、その削り出す工程も120工程を必要としたため製作時間も問題があった。とはいえ優秀な突撃ライフルに違いはなく1949年から小改良を加えられながら量産されていき、また東欧諸国でも多少の改造を施されながらも大量に生産されていった。

 AK47が量産の軌道に乗った1950年代中頃当時の世界情勢といえば、冷戦真っ只中で世界中の人々は第三次世界大戦が明日にでも起こるのではないかと恐怖に慄いていた時期だった。東西両諸国も第三次世界大戦に備えるべく軍拡につぐ軍拡を繰り返していた。とはいえ、世界中の人々はベトナムもアフガニスタンも知らなかった頃で中東を除けば特に大規模な戦いが行われていたわけではなかった。
 第二次大戦までの戦いといえば、本国で生産したものを戦場に送って潰されたらまた本国で生産して戦場に送って・・・の繰り返しで、ようは工業生産力がモノをいう戦いだったが、第二次大戦後はトラックおよび戦車および装甲輸送車の発達、またヘリコプターという新兵器の実戦使用で戦闘のペースが早くなり、兵器類を”生産しては戦場に送って・・・”という悠長なことはできなくなった。ヨーロッパで正規軍同士が全戦力で真正面から戦った場合、1週間で何らかの決着がつくと見積もられたぐらいで(決着というのはどっかの国を完全占領とかではなく、お互いに侵攻が不可能なまで消耗して停戦協定が結ばれるとか)ともかく、現有戦力=全戦力という構図になっていった。これは今も変わらない。ようは平時にどれだけの兵器を所有しているか、どれだけの兵士を養っているかが重要だと言えた。無論、同じ数なら兵器が優秀な側が、また優秀な装備をしている方が完全に優勢だった。戦争が工業力から経済力+科学技術力が左右するようになったのは第二次大戦後からだったと言える。経済理論よりも政治理論が優先され経済発展の枷となった社会主義国家が相次いで破綻したのもこれが原因の1つだったと言える。

 上記の理由だけでは無論ないが、銃器に限らず兵器類は少しでも生産性が高いほうがいいに決まっている。また、ソビエトは特に兵器輸出は大きな収入源でもあったし、アメリカとの対抗上、アメリカ寄りの国と対抗している国家や親ソビエト国家に兵器を供与して自分たちの味方を増やすことも重要な国策だったためとにかく兵器を生産して輸出する必要があった。冷戦崩壊後に各地で地域紛争が勃発しているが、その理由は宗教上とか経済格差とかいろいろあるが、紛争を起こすことができた理由に、ソビエトがばら撒いた大量の武器・弾薬があったからというのが1つにあった。

 さて、AK47にはもう1つの些細な欠点があった。重量が4.3kg(銃本体+空弾倉)とやや重たいという点だった。当時のライフル事情からすれば平均レベルと言えたが、使用弾薬が増えるため、使用する兵士により多くの弾薬を供給しなければならずその分の負担も大きかったし、だいいち持つ兵士にしてみれば銃は少しでも軽いほうがいいに決まっているからだった。

 AK47の改良は1950年代中頃から行われた。際立った変更点といえば、加工に手間がかかった機関部を削り出しからプレス加工&溶接に変更した点だった。これで加工工程の手間は大きく省けることになったと同時に軽量化に役だった。結果1kgの軽量化に成功することとなった。
 同じ弾薬を使って軽量化したということは反動が強くなることを意味する。重量のあるAK47でさえフルオート射撃時のコントロールが難しいのだから、軽量化したらよりそれが顕著になるのは当然の理といえた。そこで、欠点の1つとされたストックを少し下にダレているのを直線にして真っ直ぐ肩に反動がくるようにした。また、マズル部分を、射手からみて右上部分を切りかいてそちらにガスを飛ばすようにした。これは右利きの射手が射撃をする際には反動が射手からみて右上にくるからそちらにガスを飛ばしてその反動を相殺しようとする考えだった。余談ながら、マズル部分は極初期のAKMはAK47と同一のものだった。
 ハンドガードにふくらみを設けて保持しやすいようにしている。
 機関部のカバーに補強リブが付けられたのも外見上の相違で、あと細かい点を挙げればガスピストンにある抜き穴がAK47ではガスピストンに左右4箇所ずつ計8箇所の小穴があったがAKMではガスブロックとガスシリンダーの継ぎ目に移され、数も左右2個ずつの計4個となっている。継ぎ目に移っているので見た目で分かりづらく、ガス抜き穴が無くなったのか?と誤解する人もいたかもしれない。また、グリップが木製から生産が楽な樹脂製に変えられた。
 目に見えない改良点がもう1つあって、それは機関部に緩衝器が付けられた。緩衝器をつけてボルト前後運動を多少和らげて発射速度を落とすためという理由だが、実際には連射を確実にするために付けられたという。たしかに発射速度が速いといろいろとトラブルを起こしやすい。

 この改良された突撃ライフルはAKMと命名され1959年に制式化されてソビエト軍に配備されていった。AKMとは”アブトマット・カラシニコバ・モデロジロバニイ”の略で、そのまま日本語に訳せば”カラシニコフ型突撃ライフル改良型”となる。ちなみに、この銃の登場まではAK47は普通にAKと呼ばれていたため、その改良型としか認識がなかった。後にAKは便宜上AK47と呼ばれるようになったが、AKMだけは”AK59”とか命名されることはついになかった。

 AKMはソビエト軍の他東欧諸国は無論の事、多くの国で作られそれ以上の国々で配備されていった。ただ、地域紛争などではAKMよりもAK47の方が多く登場している。理由としてはソビエトや東欧でAKMの生産・配備が進んでいくうちに余剰品のAK47の多くが第三諸国に流れたからだろうが、プレスの型を作る必要があるし、なにせ油圧プレス機械という大規模な設備が必要だったせいか他の国ではAKM登場後もAK47の生産が継続されていたという理由もあったろう。ソビエトでは百万丁単位で必要とするが第三諸国では何万丁かあれば済むのだからわざわざ大規模に設備を改修してまで生産の必要性が無かったからと言える。

 AKMは形状がAK47とほぼ同一で、銃弾は無論の事、弾倉も互換性があったし、弾倉入れ(マガジンポーチ)などの装備類も共用できた。また、分解方法もほぼ同一だったために、機種転換訓練はスムーズに行われたと想像され、短期間で済んだ分費用は浮いただろう。その意味でもAKMの功績は大きかったといえる。

 AKMは使用する弾倉は鉄板だったものの、プラスチック製も後に生産された。寒いソビエトではたとえば厳寒期に金属にうっかり触れると凍傷を起こす可能性が大きかったためだろうと考えられる。