97式自動砲
性能:

全長          2060mm
銃身長         1200mm
重量             59kg
使用弾薬     20mm×125
装弾数           7
初速         750m/s
発射速度      12発/分
貫通能力 700mで20mm貫通

左図は自作です(^^;)
DOAのあやねをモデルとしましたが、俺はDOAというゲームをやった事がないので同人誌を参考に作画しています(^^;)
そのため全く似ていないと思います(^^;)
身長を172cm程度と想定していますけども、ほんとデカい!(^^;)
 日本陸軍の分類上”砲”となっているが、各国にも同口径の対戦車ライフルは存在するし、銃器の分類に入れてもいいだろう(日本陸軍では12.7mm以上を砲、海軍では連射可能な火器はすべて銃と定義していた。余談ながらドイツでは30mm以上を砲と定義していた)。ただ、これを「これは対戦車ライフルではなく、あくまでも砲である!。使用用途は砲なのだ!」と熱心に主張する人もいるけども、実際には各国の対戦車ライフルの使用用途と変わらなかった。「対戦車ライフル」といっても別に戦車しか目標にしなかったわけでもなかった。たとえば同じ20mmでも、陸軍ではホ5 20mm機関砲とか、海軍では99式2号機銃とか分かれるのだが、これらの使用用途が、いったい何が違うというのだろう?。


↑97式自動砲の射撃姿勢。装填手は射撃の際は2脚を持って銃を安定させる。
ちなみに上図では顔を上げているが実際には顔は伏せる。そうしないと衝撃波の顔面パンチをモロに喰らう。
装填手の背中に弾薬箱が背負われているが実際には背負わなず後方に置くことになっている。

 第1次大戦で登場した戦車は膠着した戦線(塹壕と有刺鉄線と機関銃の組み合わせた野戦築城された戦線は容易に突破できなかった)を見事突破し、間接的ながら戦争終結へと導いた。突破された側のドイツ軍も、この頃のイギリス戦車はライフル弾しか防げないことを知ったために、砲の直接照準による射撃や、ライフル弾も普通の鉛弾ではなく、弾芯に鋼鉄やタングステンなどを用いた徹甲弾を使えば戦車の装甲を貫徹できた。イギリス側も対抗して装甲の厚い戦車を投入しようとした所で第1次大戦は終わってしまった。
 第1次大戦終了後、世界中に厭戦ムードが漂い、軍縮が叫ばれるようになったが戦車の開発自体は続行された。戦争の終了で兵士数が揃えられなくなって、その戦力増強のために戦車の導入をしようとしたのだろうし、たとえばルノーFT17が世界中の多くに輸出されたように、いい戦車を作って大々的に輸出して外貨を獲得しようという考えもあったろう。無論、そうした考えは各国とも同じで、それら戦車に対抗する歩兵用兵器が必要となった。戦間期(第1次大戦と第2次大戦の間)には豆戦車という、チョロQの大親分みたいな軽戦車が流行ったこともあった。戦場に出たら文字通り吹っ飛ばされそうな豆戦車だろうが歩兵には脅威だった。

 第1次大戦で対戦車用として使われた平射砲は対戦車砲として、徹甲ライフル弾使用の銃は対戦車ライフルとして進化することになる。両者を比較した場合、威力・射程の差はいかんともしがたく、対戦車兵器の主役は対戦車砲が担うことになった。ただ、上でも書いているように、当時の戦車の装甲はそう分厚いものではなく、対戦車ライフルでもそれ相応の活躍はできた。実際、1936年から始まったスペイン内戦では対戦車ライフルはそれなりの活躍をしている。対戦車砲は砲列を組むと動かすのが大変で、機動力のある戦車には対応が難しいことが危惧され、その穴埋めとして対戦車ライフルを装備した国も多かった。たとえばイギリスでは2ポンド砲(40mm砲)とボイス対戦車ライフルが、ソビエトでは47mm砲と12.7mm対戦車ライフルを装備していた。

 日本では対戦車兵器の導入は遅い部類に入るといえる。ただ、日本陸軍の仮想敵国であったソビエト陸軍の機械化は著しく、1930年代になると、質はともかく、トラックの生産台数は欧州では一番となっていた。戦車生産数も凄まじく、ソビエト以外の全ての国の戦車を足してもソビエト一国の戦車保有数には及ばないほどだった。当時の日本では戦車は歩兵の支援という概念でしかなく、敵戦車を仕留めるのは対戦車陣地というものだったから、遅れ馳せながらも対戦車兵器の開発を行った。もはや対戦車戦闘には役に立たない11年式平射歩兵砲をより強力にした94式速射砲が完成し、その補助兵器として97式自動砲は誕生することになった。

 昭和10年6月、陸軍技術本部は対戦車ライフルの研究を開始した。性能は概ね200mの距離で30mmの装甲板の貫通を目標とした。運用は歩兵中隊でも行えるように重量は40kg以下を目標とした。昭和10年12月には小倉工廠に20mm口径の対戦車ライフルを、名古屋工廠に13mmの対戦車ライフルの試製品を発注した。恐らくは20mm口径だと貫通力はあるだろうが、重量がなぁ・・・、13mm口径だと重量は軽くできそうだけど、貫通力がなぁ・・・と、陸軍技術本部でもよく分からなかったのだろう。13mm対戦車ライフルは作ったはいいが貫通力の達成がどうやっても不可能で(20mmの装甲板を撃ち抜くのがやっとだったという)早々に諦められた。この13mm口径の対戦車ライフルの写真が残っていないのは残念だが、残されたデータによると、13.2mm口径、装填は手動式、重量は14kg、銃身長は1535mm、発射時の初速は697m/sだった。

 さて、20mm口径の方は13mm型と違い、当初から自動装填方式で作られた。その意図は不明だが、20mm口径という大口径になると手動装填は難しいからだと判断されたのか、もしかしたら当初から、後で述べるスイスのソロータン社の対戦車ライフルを模倣したからだろうか。
 昭和12年2月には実用上問題なく完成し、実用実験を歩兵学校に託した。小さな指摘事項があったものの、性能面は大いに評価された。軽戦車(型式不明)に射撃をしたところ、問題なく装甲を撃ち抜いたという。命中精度は日本の兵器の例に漏れず良好だった。試験の結果、対戦車用だけではなく、銃眼(トーチカ等の)への射撃にも使えるという高評価だった。
 昭和12年の冬には北満試験(対寒試験)を経て、昭和13年10月に技術本部は陸軍省に「九七式自動砲」として制式化を上申したが認められなかった。理由は計画重量の40kgを大幅に超えた59kgのこの対戦車ライフルが中隊での運用ができるのかが疑問だった。理由をいうと、日本陸軍の歩兵中隊には馬が配備されておらず、つまり人力で運ぶしかないわけだが、戦闘地域ではともかく、行軍時も人力で運ばせるにはさすがの日本上層部も難しいと判断した。中隊に馬を配備すればいいという問題でもなかった。理由は馬を増やすと人員も増やさないといけないし、つまり余計に金と補給物資がかかることになった。
 だからといって、配備させないわけにもいかないので、とりあえずは仮制式として生産を開始させて、配備先も歩兵大体の機関銃中隊や歩兵砲小隊(馬が配備されているために運用が可能と考えられた)へと配備されていった。恐らくは任務を同じとする、歩兵連隊の速射砲中隊にも配備されたと考えられる。

 初陣は日中戦争時に中国軍相手だと考えられるが、大々的に使われたのは昭和14年に起こったノモンハン事件からだった。当時のソ連陸軍は戦車を歩兵と切り離して独自に行動していたのと装甲がとりたてて厚くはなかったので、日本陸軍の攻撃で炎上する車両が少なくなく実に150両以上の戦車・装甲車が94式速射砲や野砲などの攻撃で撃破されていた。戦史本をして「まさに八幡製鉄を思わせる」ほどに炎上したという。それに対して日本戦車の戦果は無かったと後の戦史記録は伝える。しかし生身の人間が戦車に勝てるはずもなく第23師団1万5140人中死傷者や行方不明者や捕虜は実に1万1958名に及んだ(8割の損害)。この時にこの97式自動砲が何丁配備されていたかは不明。ただ、ノモンハン戦時に112門の対戦車兵器があったとする資料がある。対戦車兵器といえばこの当時でいえば94式37mm速射砲とこの97式自動砲程度だろう。ノモンハン戦に投入された兵力は、第23師団、第26連隊(第7師団内)、第1戦車団(2個連隊)なので(地上兵力のみ)紙の上とおりに武器の編成がなされていたら94式37mm速射砲は32門となる。野砲も対戦車兵器の勘定に入れるならば、この数字からさらに48をさっぴいた数の32丁が配備数になる。無論、推定でのお話で実際に配備されていた数はわからない。肝心の97式自動砲の戦果であるが、公式記録といえる「戦史叢書」にもその記載が見えない。同書には各種の大砲の詳細な配備数が記載されているのだが、97式自動砲の配備数は見当たらない。ある意味、当時からして97式自動砲を砲と見なしていなかった可能性もなくはない。

 肝心の生産数は、昭和13年に50丁、昭和14年に250丁、昭和15年に450丁、昭和16年には300丁が生産された。昭和17年には生産されなかった。理由としては年々進化する戦車に(戦車は第二次大戦で急速に発達した兵器の1つである)対抗できないと考えられたのだろうか。ただし、昭和18年になって突如として97式自動砲は再生産される事になった。昭和17年初頭の米英軍の戦車の攻撃に苦戦されたのに触発されたのかは分からない。「対戦車兵器が全くないよりはマシ」という考えだったというのが定説となっている。昭和18年度中に約100丁が生産されて外地に送られた。ここで生産は止まっている。97式自動砲の生産数は1150丁+αで、実際の所は1200丁ほどが生産されたと考えられる。
 ただ、太平洋戦争中盤以降になると戦車の装甲は真後ろでも30mm以上は常識で、正面になるとその倍以上になったため、もはや対戦車兵器としての価値はなくなっていた。また、送られたインドネシアなどでは敵戦車の出現はなく、ただ敵航空機のみが爆撃する状況にあったために、多くの97式自動砲はディスコネクターをいじってフルオート射撃ができるように改造して対航空機機関砲として使われた。専用の照準器が無かった事と(現地で作られたいろいろな対空照準器があったらしい)7発弾倉ではさしたる戦果はなかったと考えられるが、やはり「無いよりマシ」ではあった。本来、フルオート射撃は考えていなかったので放熱面からも7発弾倉は現実的ではあったろう。

 戦後になって、アメリカ軍が日本に進駐していろいろな日本製兵器がテストされたが、97式自動砲はフルオート射撃オンリーの対戦車ライフルであると事実と異なる報告がなされている(97式自動砲は本来はセミオートのみである)。恐らくこの頃になると、47mm砲でも受けつけてくれないアメリカ戦車に20mm口径の97式自動砲が通用するとは思えなくなって、フルオート射撃可能にして対空兵器として使われた為にこのような誤解を生じさせたのだろう。



 97式自動砲は、スイスのソロータン社の対戦車ライフル”s18-1000”を参考にしたといわれる。しかし、フルコピーではなく97式自動砲独自の改修点もあった。まずは外見はs18-1000は航空機用機関砲のような形をしているが、97式自動砲はライフルの形をしている。また、車輪で転がす方式だったのを97式自動砲では人力搬送できるようになっている(重機関銃のように前棍(ぜんこん)と後桿(こうかん)がついていた。これで前後2人ずつで運ぶ)。そのため、バランスを取るために横からの弾倉入れを上からの装填に変えている。横にするとバランスが悪くなる。車輪で動かすなら問題ないが、人力で駕籠よろしくエッホエッホと運ぶには少々苦しい。ただ戦場でのこの写真を見る限りでは2人で運んでいる場合も少なくなかった。また、前脚だけではなく後脚も装備されていた。もっともこれはソロータンのにもあったのだが。あとは97式自動砲にはチークピース(頬当て)があった。しかし右利き専用である。細かい点をいえばs18-1000は5発弾倉と10発弾倉があったが97式自動砲は7発装填だった。

 97式自動砲は同時期銃器である96式軽機や99式軽機と同様に弾倉部と排莢口にフタがある。使わない時はフタをして極力砂塵が侵入しないようになっている。ただし、97式自動砲は排莢口が96式軽機等と違い下部にあるために射撃字はどうしても開かざるを得ない(96式・99式軽機は射撃時でも排莢口のフタは閉じている。射撃をしたら薬莢がフタを蹴ってフタが開いて外に出る)。砂塵対策で97式自動砲にも銃口蓋があったとは思うのだが、写真で見受けることがなく、どのような形状をしていたのかは不明。

 銃身が簡単に外せるのも特徴だった。銃身基部にある銃身止め(連結ねじ廻止)を起こしてロック部分(第三連結管)を回すと銃身は外せた。野砲と違い頻繁に撃つ類の兵器ではないためそうそう銃身交換はしなかったと考えられるのだが、銃身の寿命が短かったのだろうか。ちなみに、歩兵部隊の場合、97式自動砲1丁につき70発の弾薬が、騎兵部隊の場合104発の弾薬が配備されるのが定数だった。騎兵部隊の弾数が多いのは歩兵部隊の配備数が2丁が定数であり(騎兵は1丁)弾薬搬送馬が共に1匹だったことによる。戦闘規模にもよるだろうが、この弾数では乱射乱撃はできなかっただろう。弾薬とは別に銃自爆用の破甲爆雷が装備されていた。後退時に移動が不可能になった場合、大砲であれば砲尾の鎖栓を外すなりして大砲を使用不能にして後退するが、97式自動砲ではそれができないためである。

 装填機構は日本独自だった。ボルト閉鎖の解放はガス圧で行い、ボルトを動かすのは反動を利用した。また、少しでも反動を抑えるために、油圧による後退・複座装置がついていた。ようは大砲と同様の装置である。また銃床内には緩衝バネもあった。ここまで手のいった対戦車ライフルは他にはない。日本にしては贅沢な機構であるが、どうせ、大量に生産しない(できない?)のだから少しでも兵器性能を上げようとしたのか?それとも、日本人の性格である細かいところにまで凝るというものなのかはわからない。ちなみに、上の絵の前脚の間に黄色い垂球が垂れ下がっているけども、これは、夜間の射撃時に、この水球のしたに基準点を定めておいて、射撃後にブレて銃口がズレてしまっても、この垂球をまたその基準点にキッチリ合わせれば正確な射撃が行なえるようにと考えられたものである。この垂球の色を黄色く塗っているのはこの説明のためで、実際の色は黄色ではない。また、常時ぶら下がっているというわけではなく、取り外し可能だというのは無論である。そのため、1発1発狙って撃つものであり、半自動射撃(セミオート射撃)のみでフルオート射撃はできなかった。
 よく「97式自動砲は対戦車マシンガンである」という記載を見るが事実と異なる。たしかに、97式自動砲のマニュアルを見ると「撃て三発」等の記載がある。これは撃破を確実にするため(弾を命中させるため)だが、当然ながら引き金を3回引く必要がある。20mmのフルオートを、指きりで確実に3発撃つのは不可能だと言っていい。20mm機関砲の振動に耐えて指きり3発の射撃ができる人間がいるのならば、私はお目にかかりたい。

97式自動砲の前脚と後脚は調整ができた。前脚が65mmで後脚は85mm調整可能で、ある程度は仰角と俯角がとれた。後脚がついているのは99式軽機もそうなっている。99式軽機の場合は「単なるムダ」と酷評されているが、さすがに重量59kgの97式自動砲を肩と腕の力で照準させるのは無理があり、後脚は役立ったことだろうと推定される。もっとも対空機関砲として使われるようになると「単なるムダ」となった。


 歩兵部隊には97式自動砲は小隊規模であり1小隊に2丁が配備されていた。
 1丁の運用は11名1チームで行う。分隊長1名と兵隊10名の編制となっている。
・分隊長は97式自動砲の指揮に専念。銃の操作や弾薬は原則として行わない
・分隊長の傍らには兵隊が2名。1名は伝令として小隊長との連絡に終始する。射撃発起権限は小隊長にあるので
 場合によっては小隊長の傍らにいたと考えられる。もう1人は予備砲手。砲手が負傷したら即座に配置につく。
・実際に射撃に関わるのは2名。射撃に1名。弾薬装填と前脚を抑えるのに1名。前脚を抑える理由は当然ながら
 反動を抑えるため。射手は分隊長からの指示で自分で照準を行い射撃を行う。無論、勝手な発砲は厳禁だが
 ある程度は分隊長も射手に射撃を任せていたらしい。
・1名は数十メートル後方に位置して弾薬を弾倉に装填する(後方にある弾薬は初めから弾倉に入っていない)。
・1名はその装填した弾倉を弾薬装填係に渡すいわゆる弾薬搬送係
・あとの4名は後方にある弾薬馬と弾薬装填係まで往復して弾をもってくる係。

 当然ながら、この役回りは固定したものではなく、戦闘中に死傷するものもでてくるから、誰でもどの役目をこなさないといけないのは無論である。97式自動砲が使える限りは、使い走りでも射手を行ったろうし、場合によっては分隊長が弾薬搬送を行ったりもしただろう。


 97式自動砲は凝った作りのため、製作時間がやたらとかかった。小倉造兵廠の資料によると、1丁を作るのにかかる工作時間は5600時間を必要とした。ちなみに工作時間とは加工の時間であり、実際に製作にかかる時間ではない(たとえば銃身とか前脚とか銃床など別工程で作るから当然同時に作れるので時間が重なる。工作時間はこれら製作時間を単純にプラスした時間)。この時間は92式重機関銃の2倍以上の時間となる。当然それは値段にも反映した。中隊レベルで配備できなかったのは上で書いたように馬匹の問題だけではなく、値段の問題もあったと推定される。