FG42
性能:

全長        975mm
銃身長      508mm
重量        4.95kg
使用弾薬  7.92mm×57
装弾数       20
発射速度    750発/分
(上記資料は後期型)

左は自作絵です。
下写真はアンディさんからいただきました
ほんとありがとうございまず
≦(_ _)≧
 ドイツは世界ではじめて空挺部隊を実戦投入した国だった。オランダ・ノルウェーなどへの侵攻作戦の影にはドイツ空挺部隊の活躍があった。空挺部隊の長所は、敵の意表をつけるという点にある。ようは、敵前線後方に降下させて要所を占領。そして陸上部隊の増援を待って敵を撃滅するという作戦が使えた。奇襲とは夜間に襲うという意味ではない。意表を突くのが奇襲なのだった。
 ただ、上で書いているように「陸上部隊の増援を待って」というのがキーポイントだった。空挺部隊は飛行機から降下する関係上、装備をシンプルに纏める必要があった。兵士は拳銃・手榴弾以外の武器は装備せず、ほぼ手ぶらの状態で降下する必要があり、武器・弾薬類は別コンテナで落下させていた。そのコンテナも落下傘で降下させる以上、大きくできないためにどうしてもシンプルに・少量にせざるを得なかった。敵地に降下するのだから、後方からの補給は当然出来ず自前でなんとかするしかなかった。だから戦闘が拡大すると弾薬がすぐに底をつくため、陸上部隊の増援までの時間稼ぎの弾薬量でしかなかった。いくら精鋭の空挺部隊だろうが、徒手の兵士がなんの戦力になろうか。実際、ノルウェー戦の一部では陸上部隊の増援が間に合わず、降伏してしまった空挺部隊もあった。

 また、実戦を体験して分かったことだが、戦場で武器コンテナの発見はかなり難しく、敵の砲火の中から見つけるのは大変で、見つけられなかったらもはやそれまでだった。また、平坦な地形でも、たとえば敵と味方の対峙しているど真ん中にコンテナが落下していた場合、敵の銃撃に身を晒してでも取りに行くバカはいないだろう。
 そのため、空挺部隊にあらかじめ武器を持たせて降下できるように、既存のライフル(マウザーKar98k)を折りたたみ式にしたり、短くしたりした型が試作されたり作られたりした。折りたたみ式は、強度不足が解決せず試作で終わったし、短くした型(Gew33/40)は銃身が短く、圧力が強い時に発射されるため発射時の反動が強く、また軽いため余計に反動が強くあまり使い物にならなかった。ただ、そういったライフルは絶対に必要なのは違いがなかった。

 1940年。ドイツ空軍のLC-6兵器調達局はそうした事を踏まえて1つの仕様書を纏めた。

・既存のライフル弾(7.92mm×57弾)を使用可能な事
・重量は既存のライフル(マウザーKar98k)と同等かそれ以下
・白兵戦でも使用可能なぐらいの強度がある事
・フルオート射撃が可能な事
・全長は1m以下
・命中精度は狙撃にも使用できる事。またスコープも取付可能な事
・ライフル擲弾が発射可能な事

 ようは歩兵用ライフル・狙撃ライフル・機関銃をコンパクトに盛りこめというものだった。当初は陸軍に開発要請を行ったが、「そんなライフル作れるわきゃない」と笑われて断られたという。実際の所は空軍と陸軍の対立感情で断れたというのが本当の理由のようで「作れない」というのは口実だったのだろう。空軍は独自で開発してくれるメーカーに呼びかけた。8社に及んだと言われる。ただ、この難しい要求に、試作ライフルを提出した(できた)のはラインメタル社とクリークホフ社の2社だけだった。
 余談ながら、上の目標はほぼ達成できたものの、ライフル擲弾発射機能だけは、強度上の問題から達成ができず、ドイツ空軍側もそれを黙認した。

 ラインメタル社製の試作ライフルは同社の設計技師ルイス・スタンゲによって設計が行われた。木材とプラスチックは必要最小限にとどめ、硬質な金属(マンガン鋼)とプレス加工を用いて、軽量に、かつ、頑丈な自動ライフルを作り上げた。結局はこのスタンゲの試作ライフルが採用され、FG42(ファルシルムイェーガー・ゲヴェーア42・・・42型降下猟兵ライフルみたいな意味)と正式に命名された。ただ、ラインメタル社は大口径機関砲などの既存兵器の生産で手一杯でこのライフルの生産はクリークホフ社で行われる事になった。
 実際に生産に入ると、材質がマンガン鋼から別の材質に変わった。マンガン鋼は戦車で大量に使うために、銃器に使う分が確保できなかったのだろう。1943年初頭から生産が開始された。配備は同年初夏あたりから行われていたらしい。

 最初の実戦投入は、現存する記録写真を見る限りではムッソリーニ救出作戦で降下教導大隊の一部が投入された際に使用されている。もっとも、これはドイツの宣伝誌のシグナルという雑誌に掲載されたもので、この誌の注意書きに書いてあるもので実際に投入されたのかはよくわからない(ようは、再現写真の可能性もなくはない)。ともあれ、1943年9月頃に最前線に投入されていたのは間違いないと言える。

 戦局が熾烈を極めてくると、FG42自体も省力化の対象となった。後で述べるが、構造が複雑なFG42は製造単価が高く、この頃登場していた突撃ライフルのMP43と比べても相当に高価なものだった。ただ、不要というわけではなかったという理由なのだろうし、やはりこの手のライフルは空挺部隊では必需品だっからだろうし、一番の理由は前線部隊からの評判が悪くなかったからだとも言える。初期型での欠陥を是正する意味もあったろう。詳細は詳しく述べるが、外見的にも相当に変更がある。

上が前期型、下が後期型。
余談ながらスコープが装着されているが、これは標準装備ではない。
 結論から言えば、このFG42自体はあまり戦局に影響を与える事はなかった。生産数が前期型2000丁で後期型5000丁と極端に少ない事もあるが、一番の理由がFG42が配備されてから空挺作戦がほとんど行われなかったからだといえる。
 1941年5月20日に開始されたクレタ島侵攻作戦は空挺部隊のみで島を制圧するという後にも先にも実施されなかった奇想天外な作戦だった。同島を制圧できれば、エジプトに増援を送るイギリス軍ににらみを利かすことができたため、ドイツ・アフリカ軍団の助けにもなると考えられたし、イギリスに脅威も与えられたため、同島の攻略は戦略的にも大きなものだった。上で奇想天外な作戦と書いたが、地中海のイタリア海軍が1940年11月11日のイギリス海軍によるタラント港奇襲作戦でもはや役にはたたず、クレタ島周辺…いや、地中海全体がイギリスに押さえられていた以上、ドイツ軍に海上からの上陸作戦という選択肢は取れず、もはや空挺作戦しか道がなかったからだと言える。
 空挺作戦は事前に計画がイギリス軍に漏れていたこともあり、ドイツ軍空挺部隊が降下したと同時に猛烈な反撃を受け、後続の輸送機も多数が対空砲で撃墜されたために、後の作戦に支障を来たした。ドイツ軍としては飛行場を押さえてなんとか安定した増援を行えるべく、マルメ飛行場に戦力を集中したものの、容易に抜けなかった。ただ、苦しかったのはイギリス側も同様で、マルメ飛行場を守備していたニュージーランド軍が、同地を支えることができず、撤退を開始、ドイツ軍は飛行場を制圧し大量の増援を獲得できた。1940年5月30日に、イギリス軍はクレタ島を維持するのは不可能と判断。放棄を決定し、残存部隊を海路脱出させた。投入戦力の56%を死傷・行方不明にしたドイツ軍にもはや迫撃の余力などあろうはずもなかった。
 空挺部隊のみでの島占領は各国に大きな衝撃を与えたが、56%損害の報告を受けたヒトラーはその損失の大きさに激怒。以後の大規模な空挺作戦を禁止したほどだった。ただ、この作戦の翌月にはドイツはソビエトに侵攻。大量の輸送機が必要になってくると、大規模な空挺作戦を行えるほどの輸送機の確保ができなくなった。特に1942年末から1943年初頭にかけてのスターリングラードにおける空輸補給作戦で、ドイツ空軍輸送機隊は、戦後連合軍側記者のインタビューに答えたゲーリングの言葉をして「ドイツ空軍爆撃機勢力の生命は、ここに終えた」と率直に語ったぐらいの大損害を蒙ったため、物理的にも大規模な空挺作戦は不可能となっていた。
 しかし、ドイツ空軍空挺部隊の空挺降下は、細々とながらも行われており、戦史で確認できるドイツ軍最後の空挺降下は1944年12月15日のマルメディ攻防戦でマルメディ近辺にハイデ大佐指揮の空挺大隊の一部が降下している。ハイデ大佐の指揮部隊には多数の新型ライフルが配備されていたと言われ、FG42が装備されていた可能性は極めて高い。余談であるが、FG42を装備した空挺部隊兵士は弾倉を体に8個、銃に付けた1個を加えて、計9個。180発が標準装備弾数だった。この数字は当時の兵士標準配備弾数に比べれば相当多い方だと言える。

 戦後になって、アメリカ軍によるテストを受けたが、FG42の評価は極めて高い。特に作動機構はM60機関銃の模範となるほどだった。「かいかぶりすぎ」という意見もあるが、こんな無茶な要求を見事にクリアーしたこのFG42の設計はたしかに大きく評価すべきだろう。後々に与えた影響はいくつかあり、たとえば、折りたたみ照準は日本の64式小銃にも影響を与えたのではないかとも思える。ただ、このFG42自体は特にコスト高のせいか、機構自体をそのまま模倣さえることはなかった。

 最後に、FG42は落下傘降下の際に兵士が一緒に持っていけるようにコンパクトにしたと言われており、実際の作戦でも持って降下したとも言われる。と一部の人は熱心に主張しているが、実際にはFG42が携帯されることはなかった。ドイツ空挺部隊が使用したRZ型パラシュートは腰から吊るす方式のために、落下の際は前のめりで、着地の際にも前のめりになるので受身は必須だった。アメリカのように肩から吊るして足から降下して背中から倒れて衝撃吸収する方式とは全く逆だった。また空中での姿勢は体を大の字にする方法だったのでライフルを持って降下するのは事実上不可能だった。また、当時は落下速度が速く、わかりやすくいえば、1.5m〜2mぐらいの高さから飛び降りたぐらいの衝撃があったという。我々でも容易に想像ができるだろうが全長1m近いライフルを持ってこの高さから飛び降りたらどうなるかは想像ができるだろう。



 上で書いているようにFG42には前期型と後期型の2種類があった。上の写真でいえば上がFG42前期型、下がFG42後期型となっている。俗にFG42/TとFG42/Uと呼ばれる事もあるが、この呼称は戦後になって区別するためにつけられた名前で、当時は両方ともFG42と呼ばれていた。
 こまごました違いは下で述べるが、共通の項目といえば、全長が1m以内に抑えられたせいもあって、ブルパップ式を採用している点にある。弾倉がグリップの真上にあるので、厳密の意味ではブルパップ式とは言えないかもしれない。ただ、この上手い設計で銃身長は長く確保できた。長いとはいっても508mmでマウザーKar98kの600mmには及ばず、そのため未燃焼の装薬が銃口で火の玉となって燃えるため銃口にはフラッシュサプレッサー(消炎器)が付けられた。ただ、FG42の射撃を見る限りでは30cmぐらいの火の玉を出しているためあまり意味をなしてはいないように思える。

 作動機構は、セミオート発射時がクローズホールド、フルオート射撃ではオープンホールドとなる。「オープンボルト」とよく書かれるが、それではサブマシンガンのそれと同一にとられかねないので(FG42はボルト自体はちゃんと閉鎖して射撃するので)敢えて、オープンホールドと書く。ようは、発射スタンバイの時に、セミオートの時にはボルトが前進していて、フルオートの時にはボルトが後退していて弾が薬室にない状態となる。これは航空機用機関砲を設計・製作していたラインメタル社らしい選択肢だといえる。なぜなら、航空機用機関砲では榴弾を発射する必要があり、発射スタンバイの状態で榴弾が薬室にあると、その熱で自爆しかねないからそういう機構を採用しているからである。コックオフ(発射の熱で薬室が過熱されて、銃弾の装薬が自然発火して発射されること)の問題もある。FG42の弾ではないが、NRA(全米ライフル協会)の実験では.30-06(7.62mm×63弾)は158℃で自然発射されるという実験結果がある。
 FG42は銃身から銃床までが一直線のために照準器が高くならざるを得なくなり(低くすると頬当てで照準できない)また、空挺部隊ではあまり出っ張りがあるものは好ましくないため(狭い機内で引っかかるし、それでパラシュートを破いたらそれで一巻の終わり)折りたたみ式にしている。エレベーション(上下調整)は照門(後ろの照準器)で行い、回転させて上下調整を行う。ちなみにウィンテージ(左右調整)は行うことができなかった。

 FG42にはバイポット(2脚)とバヨネット(銃剣)が銃についていた。バイポットは銃自体の支えになって便利と言える。個人的な感想だが、多少姿勢が高くて長時間構えると背筋が痛い。大柄なドイツ兵ならそれでもいいのか。また私見であるが、この2脚は銃剣を保護するためにあるのではないかとも思えなくはない。銃剣はニードル式で、血ヌキのためかドライバーの先っぽをそのまま延長したような十文字をしている。通常は銃身の下に収納されているが、使う際は抜き取ってひっくり返してまたそこに差し込めば使えるようになっていた。実際にはほとんど使われることはなく、また兵士からの評判も悪かった。別に強度不備とかいうのではなく、この銃剣は人を刺す以外に使う用途がなく、缶きりや枝を切ったりすることができなかったことにある。余談ながら、こうして銃剣を打ち折る兵士が後を絶たなかったために、細くなる一方だった銃剣は冷戦末期からごっつくなっていった。
 標準装備ではなかったが、FG42はスコープが付けられるようになっていた。FG42は命中精度が高いために狙撃ライフルとしても十分つかえた。ただ、肝心のスコープはあまり性能がいいとはいえなかった。上の写真を見てもらえばわかるけども、対物レンズが小さいために光をあまり集められず暗くしか写らなかった。最大の欠点はレティクルがやたらとデカく400m離れた人間を照準するとレティクルで人間が隠れてしまうために狙えなかったのは想像ができる。

 上で何度かかいているが、FG42には初期型と後期型の2種類があった。


 FG42初期型(FG42/T)

 上の写真の上のほうの銃。
 特徴的なのはグリップ角度でやたらと急になっている。持ちにくい印象を受けるが、実際に持つとそうでもない。ただ、腰溜めの射撃姿勢だとかなり持ちやすい。なるほど。FG42は落下傘降下しながら下の敵兵を撃つようにしていると言われる所以だろう。上で書いたように実際に落下中に携帯されることはなかったが、設計者はそれが可能だとでも思っていたのだろうか?。
 軽機関銃代わりに使えるように銃床にはショルダーレストにもできるように設計されている。
 弾倉は銃左から装填する。弾倉は10発入と20発入があった。実際には20発弾倉の使用例が多く、実際に当時の記録写真をみても10発弾倉を見た事がない。弾倉には手で押し込める方法の他に、空の弾倉を銃に入れて、反対側の排莢口にライフルの5発クリップ状態の弾を入れられるガイドがあるため、そこに5発クリップ弾を詰めて指で押してジャララッと押し込む行為を4回行えば簡単に装填ができた。この方法は、詰め込む際の並び不良からおこるジャムを防ぐにも効果的だったといえる。
 セレクターは銃左側面にあるので、上の写真からは見えない。回転式で、真ん中がセフティ。銃口側に回すとセミオート、銃床側(自分の方)にまわすとフルオートになる。この方式はAR-10と同じ方式ではあるが、セミオートからフルオートに切り替える際に手間なので、今ではあまり使われない方式ではある。
 FG42初期型の欠点は2脚の支点が銃中央にあった事で、これは銃を少し動かした際にも銃口が結構動くという点があった。これは些細な欠点かもしれないが、一番の欠点はこの2脚はロックがなく、射撃の際に反動で折りたたまれてしまうのではないかという不安があった。


 FG42後期型(FG42/U)

 上の写真の下の方の銃。
 グリップ角度がピストル型になって、見た目にも持ちやすくなった。またグリップ材質も金属からプラスチックになったため、寒冷地でも安心して持てるようになった。
 初期型との違いは写真を見ればわかるように銃床(ストック)形状が違っており材質も違っている。あと、フラッシュサプレッサーの形状も、初期型の普通の筒状のものに小穴を空けたものから蛇腹のような形になっている。
 初期型と比べて改良された点は、照星(銃口付近の照準)にカバーが付けられて、太陽の下でも照準を狂わすことがなくなった事。弾倉入れ(マガジンハウジング)に蓋がつけられたことで、機関部の保護に相当に役に立った。また、弾倉はまっすぐ横に装着するのではなく、装着状態で弾倉底が前になっているためか、排莢された薬莢が自分の方に飛んでくることもあったということからか、排莢口にM16A2のようなディフレクターが付けられた。そのため排莢は前にすっ飛んでいく。残念なのは、これを付けたがために、クリップ受けが付けることができず、弾倉への装填は手で1発1発行うしか方法がなくなったのは残念といえる。2脚は銃口側に支点が移り、また、簡単なロックが設けられたので射撃中に折りたたまれることはなくなった。


 初期型・後期型に共通の欠点といえば、弾倉を銃の左に付ける方式のために、重心バランスが悪い事。ガスを機関部に導く穴がフォアグリップ付近にあるので、左手が熱いガスに晒されるという事。欠点といえるかはわからないが、銃剣が標準搭載なので、行軍・射撃中には余計な重量を兵士は手で持たないといけないというのも欠点と言える。一番の欠点は、構造が複雑で単価が高かった点にあったと言える。1万丁にも満たない数しか作られなかった理由はここにあるのではないだろうか?