U.S.M1カービン
性能:

全長        904mm
銃身長       457mm
重量        2.49kg
使用弾薬  7.62mm×33
        (.30カービン)
装弾数      15・30
初速       607m/s

 Carbineとは日本語にすれば「騎兵銃」となる。名前のように騎兵が使うための銃で、歩兵が使うRifleと呼び分ける必要があったからこういう別の名前が付いたのだろう。
 騎兵銃が誕生したのは火縄銃が誕生してすぐに出来上がった。ただ、歩兵用のままでは重すぎるし長すぎたから短くして軽量にしたのを歩兵用と区別してカービン銃と呼ばれた。やがて、火縄銃からホイールロック(歯車)式銃になり、フリントロック(火打ち石)式銃に進化して生火を使わなくても良くなると、全長が50センチほどの極端に短いカービン銃も製作されるようになった。火打ち石式銃は火縄をセットする必要が無くなったために片手での操作が可能になったために片手で撃てるようにそこまで極端に短くなったわけだが、歩兵用の火打ち石式銃は、銃剣を取り付けて槍として使う必要があったためにどうしても長くせざるを得なかった。そのために歩兵用火打ち石式銃は全長が150センチ前後はあった。この頃の騎兵銃は、再装填は馬上では不可能なので、射撃したらあとは銃袋に直してサーベルで戦闘するか、敵をぶん殴る棍棒になるので、短くても不便はなかった。

 やがて19世紀末ボルトアクションライフルが完成の域に達すると、騎兵銃は歩兵用ライフルとさほど変わらなくなった。理由は、薬莢が発明されてこれが常識になると、過去の火打ち石銃時代の常識は通じなくなった。火打ち石式のような前込め式銃では火薬は自分の好きな分量を入れられた。つまり騎兵銃のように銃身が短いと火薬を多く入れても無駄だから少なめに入れて使用していた。薬莢式銃弾は火薬が既に入った状態で戦闘員に支給されるので、火薬の増減はできないことはないにせよ、長いライフル銃で設計された銃弾を極端に短く切り詰めた銃で撃つと、激しい反動と酷い発射炎で使い物にならなかった。そのために、騎兵銃は歩兵銃よりも多少は短く切り詰めた程度となっていった。そのために、この頃になると、「短いライフル=カービン」と呼ばれだすようになった。

 時代が進むにつれ、戦車などの装甲車両が普及してくると騎兵自体がもはや時代遅れとなっていった。T-34戦車の例でいえば、1両作るのに5ヶ月弱で作れるが、馬は育てるのに5年かかる。戦車は銃弾は完全に防げるが馬は無理。戦車の車輪が壊れたら車輪だけ新品に替えれば済むが、馬はたとえば前脚に被弾したからといって前脚だけを交換なんてできない。あと、パワーだって機械のほうが圧倒的に強かった。もはや騎兵は装甲車両に取って代わるようになった。

 モータリゼーションが発達していたアメリカでは軍の機械化(輜重車両や大砲を引っ張るのを馬から車両に代えること)が早かった。騎兵という兵科自体は存在していたが、配備されたのは馬ではなく装甲車両やトラックであり「騎兵」というのは名目上のみとなった。ただ、違った用途でカービン銃は復活することになった。

 1938年頃、アメリカ陸軍は二線(最前線ではない後方地域)級の兵士が使用する兵器として、ライフルよりも軽く短い銃を要求した。後方部隊の任務といえば、飛行場警備や、完全占領地域の補給地の警備などがあるが、総じていえるのは基本的に撃たないのが前提で、見回るのが主体なのだから、軽いほうがいい。ホルスターに格納すれば両手が完全に開く拳銃がいいのだろうが、拳銃というのは軍用としては意外と役にはたたない。一流の射撃をするには一朝一夕ではマスターできない技術がいる。特殊部隊の教官の話を借りれば「トラックに満載できるほどの拳銃弾を撃ってやっとマスターできる」ぐらいに大変だといわれている。それゆえか、ライフル形状がいいとされたのだろうか。あと、警備任務であれば歩兵用ライフルのような長射程もいらない。400m先の怪しい人物を誰何(すいか)せずに撃つことはないだろうし、400m先から発見されるように侵入する敵兵などいないだろうから。結果的に拳銃でもなく、歩兵用ライフルでもなくという中間なライフルが要求された。
 この兵器は実際には、ドイツがフランスに侵攻した1940年から開発が加速化した。ウィンチェスター社の試作品をベースに開発が進められた。そのために完成が早く、太平洋戦争直前の1941年10月22日に「U.S.M1 Carbine」と命名された。ちなみに、M1というのは「Model 1」の略で、1番目のカービン銃ということになる。これが最初の制式カービン銃ではなく、これ以前にもあるにはあったが、1930年代中頃から全ての兵器を1から順に型番を付けるようになり、これ以降に初めて採用された初めてのカービン銃なのでこの名前がついた。ちなみに、カービンの名前がついているが、騎兵が使う用途で採用されたのではなかった。

 開発が開始された1940年、ドイツとイギリス・フランス連合軍の戦いの戦訓で、短機関銃が大活躍をした反面、拳銃がほとんど役に立たないことも分かった。実際戦場(野戦)における拳銃の死傷の割合はあまり多くはなく、それどころか小さく扱いやすく見える分危険も大きかった「拳銃の扱いの慣れていない兵士に拳銃を持たせるのは安全ピンを抜いた手榴弾を持たせるのと同じ」とまで言ったイギリス将校もいた。たしかに、平時においてもアメリカで「自分で自分を撃つ」拳銃事故がかなりの数に上っているし、咄嗟の行動を要求される戦場ではなおさらだったのだろう。
 将校は基本的に指揮に専念するので銃を持って戦うことはしないが、自衛のための兵器を所有するのは必要だった。普通のライフルは重いし、当時の短機関銃もライフルなみに重かった。威力はいらないから多少でも軽い兵器がいい。M1カービンはこうした要求にうってつけで、1941年の採用時から将校用の自衛用として、配備されていった。その他の配備先には、上で書いた第二線級の兵士にも配備はされているが、当時の写真を見ると、歩兵用ライフルで、旧式化して余剰となったスプリングフィールドM1903ボルトアクションライフルが配備されている場合も少なくなかった。
 余談ながら、わざわざ将校用のために今までの兵器体系にない銃弾を使用する銃を採用したのはアメリカだけで、ある意味アメリカの国力の凄さを思わせる一面とも言える。

 生産は日本・ドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告した後の1942年初めから大々的に行われた。生産は何社かで行われた。自動車メーカーのGeneral・Motors(GM社)や、International・Business・Machines社でも行われていた。インターナショナル・ビジネス・マシーンズと言われてもピンと来ない人もいるだろうが、パソコンのあのIBM社といえば分かるだろう。今のIBM社の現状を考えれば銃を作っていたなどと想像すらできないだろうが、まさに国家総動員で生産していたと言える。ちなみに総生産数は明らかではないが、1945年の生産中止までに約600万丁が生産されたと言われている。ちなみに、生産途中でフルオート射撃が可能なM2カービンや暗視装置月M2カービンであるM3カービンが制式化されていったが、どの型式がどの数生産されたかは良くわからない。

 配備先は上でも書いたように将校の自衛用に支給された他、警備部隊にも配備された。第二次大戦後も朝鮮戦争で大々的に使われた他、第二次大戦の終結で余剰になったM1カービンおよびM2カービンはアメリカ友好国に供与された。この当時2つに分裂していたベトナムでも、親アメリカ側であるベトナム国(南ベトナム)にも大量に供与された。南ベトナム政府軍で使用していたM1およびM2カービンの一部は反政府勢力であるベトコン側の手に落ちて元の持ち主相手に銃口を向けたのは皮肉であったといえる。なお、ベトコンでは軽量なこのカービン銃は好評を持って迎えられたという。
 アメリカ本国では朝鮮戦争以降から装備から外されていったものの、第二次大戦後に発足したアメリカ空軍では空港警備用などでM2カービンが大量に配備されていた。戦後しばらくは配備されており、制式装備から外されたのはM16突撃ライフルが制式採用された数年後の1964年だった。

 M1カービンはいくつかのバリエーションがある。

 フルオート可能にしたM2カービンは、見た目ではM1カービンとほとんど変わらない。セレクターが追加された程度で外観上ではほとんど区別ができない。フルオートが可能になったので30発入り弾倉も作られた。この30発弾倉はM1カービンにも使用できた。

 このM2カービンに暗視装置を付けたM3カービンは夜間戦闘用に、IR(赤外線)暗視装置を搭載した型。赤外線暗視装置は目に見えない赤外線を照射し赤外線用の受信器で見ると照らした先が見えるというもので、当時としては画期的だった。第二次大戦中に実用化して、対日戦と朝鮮戦争で使われたとも言われている。ただ、これには欠点があり、相手が同じ装置を持っていた場合、自分の位置が暴露してしまうという弱点があった。ベトナム戦争でも使われていたが、この頃になるとさすがにソビエトでも同じ装置が開発されてベトナム民主共和国(北ベトナム)に送られていたために、逆に損害を蒙って使われなくなった。余談ながら、この暗視装置は総重量約10kgもあり装着すると銃がひん曲がりそうなぐらいに重たく、これ用のバッテリーも10kgを軽く越え、兵士からは不評であったと考えられる。

 M1カービンのストックを針金状の折りたたみ式にしたM1A1カービンは俗にparatrooper version と呼ばれ、空挺部隊用に開発されたとされている。ただ、実際に空挺部隊に配備されていたかは分からない。

 余談ではあるが、M1カービンは将校用にも使われたが、基本的に将校は弾倉入れ(マガジンポーチ)を身に付けないためか、銃床(ストック)に装着できる弾倉入れが作られたのも特徴的だったと言える。