SKS
性能:

全長       1020mm
銃身長      520mm
重量       3.85kg
使用弾薬 7.62mm×39
装弾数      10
初速       735m/s
 SKSとは、Samozaryadnyi Karabin sistemi Simonova ( ロシア語で: Самозарядный карабин системы Симонова)の略。ストレートに訳せばシモノフのセミオート騎兵銃となる。

 銃器が戦場に登場すると戦い方は大きく変わってしまった。鎧に身をまとった騎士・戦士の存在はたちまち旧式部類に入るようになった。なぜなら銃弾は彼らの鎧を撃ちぬくには十分だった。ただ、当初の銃器は初速が遅く、また丸弾だったため貫通力は今ほどではなかったため、鎧を厚くすることで対処可能ではあったが、その方法はあまり取られなかった。なぜなら鎧を厚くすると普通に考えても重量が嵩みとても着て戦場で駆け巡ることなど不可能だった。実際、一度倒れると自力で起きあがるのは不可能だったという。
 やがて鎧は廃れていったが、武装といえば銃と槍の混成装備だった。理由は当時の火薬(黒色火薬)では射程距離に限界があり、また、前込め式では発射速度に限界があった。地形にもよるだろうが、だいたい200mの距離で我彼ともに対陣し銃撃を開始して、どちらかがひるんだ隙に突撃をするという戦闘方法が取られた。銃撃の戦死者だけでも2割に達したというから、その光景は想像に余りあるほどの凄惨だったのだろう。

 19世紀になって銃器の発達は目覚しく、後込め式ライフルと、あと、無煙火薬の発明でライフル銃の射程距離は飛躍的に伸びた。射程距離は2000mを越えるようになり、当然その距離から撃ち合うようになった。2000mの距離だととても個人を狙えるような距離ではないが、当時は突撃攻撃を警戒して方陣(ようは真四角の密集した陣形)をとっていたのでその一群を狙っていた。当然、こういう戦いではいかに銃弾を遠くに飛ばせるかが勝敗のカギを握る。各国でいろいろな銃弾が模索され、そして作られ配備されていった。同時期にパウル・マウザーがモーゼル式閉鎖機構を完成させ、より強力な銃弾を発射しても耐えられるライフルを完成させたのも重なって、ライフル火力は射程・威力・発射速度ともに19世紀末にはピークに達した。

 日露戦争から本格的に使用された機関銃という新ジャンルの兵器は戦争の形態を一変させた。今までのように方陣を組んでの突撃は必要ではなくなった。それだけではない。単なる自殺行為となってしまった。第一次世界大戦での戦死傷者の急増はここに理由がある。突撃を警戒しての密集隊形から歩兵用ライフルの連発能力を生かしての散開隊形が普通となった。また、機関銃陣地も一方向からの攻撃に強いこともわかり、迅速な迂回行動も新戦術として採用された。この散兵戦術のため、歩兵用ライフルは2000mもの射程は不要となりつつあった。第一次大戦後、いくつかの兵器開発者は弾薬を小さくしたライフルを開発していたが、これが軍によって否定された。理由は、第一次大戦の戦訓で歩兵戦の主役は機関銃であるという結論が出されたという事で、機関銃が主役で歩兵ライフルはその護衛用にすぎないという結論に達したという点にあった。機関銃は威力ある弾丸を遠くに飛ばして敵兵を殺傷してナンボの兵器であった。当時は補給や用兵の問題から機関銃弾とライフル弾は同一の弾丸を使用する必要があったため、威力の劣る弾薬は嫌われた。補給線が充実していたアメリカ軍も例外ではなかった。

 第二次大戦が始まると、機関銃という兵器は第一次大戦ほど重要視はされなくなっていた。無論、戦術面では大きな戦力ではあったが、第一次大戦の時のように1丁の機関銃が1個連隊の進撃を食い止めたとかいう事例は起きなくなった。その理由として、今風にいう「エアランドバトル」が確立された点も大きいが、最大の原因は戦闘が機動戦になったという点にあった。ようは第一次大戦のように塹壕を掘ってそこに機関銃陣地を据えて敵を待ち構える時間を与えずに、また側面から回りこまれないように横に横にと − 第一次大戦のドーバー海峡からスイス国境まで、塹壕が掘られたように − 陣地を作られないように電撃的な攻撃で敵に襲いかかった点にあった。もはやライフルの射程距離など2000mはおろかその半分以下でもよく、むしろそんな長大な射程距離では反動として射手に返ってきたため邪魔以外の何物でもなかった。
 第二次大戦でのドイツ軍快進撃で注目されたのは戦車の機動的運用であったが、その影に短機関銃の活躍があった。ドイツではMP38(ないしMP40)という短機関銃を下士官全てに配備させており、短機関銃は拳銃弾をそのまま使うため威力はあまりなく、有効射程は100mそこそこだった。ただ、入り組んだ地形ではその射程距離でも充分で、拳銃弾をライフル重量ほどの銃器で撃つのだから反動はほとんど来ず非常に撃ち易いものだった。ボルトアクションライフルでは長く、特に市街戦では不利になったし発射毎にボルト操作が必要だったので連発性に劣った。
 その電撃戦をモロに受けたソビエト軍は成す術も無く自国への侵攻を許していた。その際にある戦車兵軍曹がその短機関銃の機動的運用をまざまざと体験していた。彼は負傷し、後方に下がったが、この短機関銃の機動的運用に注目し、「ライフル弾はもっと威力を落としていいのではないか?」と考え、新弾薬の開発を行った。と言われる。もっとも、ドイツ軍はソビエト軍よりも早く1942年初夏頃から7.92mm×33弾の銃器を戦場で運用していたため、これを参考にした可能性もなくはない。ともあれ、既存のソビエト軍制式弾の7.62mm×54R弾の全長を短くしてリムレスにしたような7.62mm×39弾を1943年に完成させた。ただし、この頃になると、ソビエト軍は東部戦線の主導権を握り、あとはいかにしてドイツ軍を叩き潰すかという考えで手一杯だったせいもあって、この弾薬を使用したライフルの開発は後回しにされていた。
 1945年にようやく、この7.62mm×39弾を使用したライフルが完成した。それがSKSであった。

 SKSは”サモザラヤドニ・カラビン・シモノバ”の略。カラビンはカービン銃の意味で、シモノバはシモノフ型みたいな意味だが、サモザラヤドニとはどういう意味なのだろう?。適宜、既存のモシンナガンライフルと交代していったものの、その4年後に突撃ライフルの傑作であるAK47(当時はただAKという名前だった。後に改良型のAKMが登場したために区別するためAK47と呼ばれるようになった)が登場したため、SKSは早い段階で第一線部隊から外された。AKはフルオート射撃が可能でSKSはセミオートでしか撃てないのだから、しょうがないといえばしょうがない。ただ、1945年から1949年にかけてソビエト軍によるベルリン封鎖や朝鮮半島での軋轢など、いろいろな国際問題があったせいか、SKSは結構大量に生産されたらしい。特に火力を必要としない防空ミサイル部隊などに自衛用に配備されてもいたが、それでも大量に余った。朝鮮戦争にも送られてそうだけども、さすがに本格的軍事介入ができなかったソビエトはSKSをほとんど送らなかった。
 真の活躍をしたのはベトナム戦争だった。アメリカ軍のベトナム介入は、宣戦布告なき戦いだったため、武器輸出はおおっぴらには出来なかったにせよ、共産軍を応援していたソビエトは積極的に北ベトナムを応援した。よく注目されるのはSA-2ガイドライン対空ミサイルやMig-21フィッシュベッド戦闘機などだが、SKSも大量に送られた。北ベトナム軍は56式自動歩槍(中国製AK47)で完全装備していたというイメージがあるが、実際の数的にはSKSのほうが多かった。ただ、火力では56式自動歩槍のほうが圧倒的に上だったため可能な限り第一線部隊の兵士には56式自動歩槍を持たせていたために、そのイメージが強いのだろう。しかし、北ベトナム側の記録フィルムを見る限りではSKSの出番はかなり多く、北ベトナム軍後方部隊やベトコンの戦闘訓練を写した記録フィルムにはSKSがかなり映っている。ベトナム戦争の共産軍勝利の原動力となったといっても過言ではないだろう。
 その後に大量使用された形跡はない。適宜、AK47やAKM・AK74等に更新されていった。ただ、ライフル形状としてはなかなか秀逸なせいなのだろうか、儀杖兵用としては今だ現役として使用されている。
 平凡な自動ライフルではあったが、駄作ではなかったという証でもあるのだろう。また、完全に弾薬が異なる、威力の劣るライフルの制式採用に踏み切ったソビエト軍の眼力には評価すべきだろう。


 SKSは形状的には普通のライフルの形をしている。特徴といえば、折りたたみ式の銃剣があるという点だけだろうか。使わないときはハンドガードの下に仕舞えて、使う際は180度回転させて固定して使う。そういう仕組みのため、ソビエト製銃剣の特徴である逆刃(刃が上を向いている)ではなく、普通に刃が下を向いている(言うまでもなく、逆刃にすると収めたときにあぶない)。
 引き金前部には弾を収める所がある。下に出っ張っていていかにも着脱可能なように見えるが、実際は着脱はできない。弾が切れたらボルトオープンにして上から10発がまとまったクリップで一気に弾を込める。たしかに、弾倉という余分な重量を携帯しなくていい利点はあるが、弾込めが手間かかるという欠点はある。作られた当時は弾倉式ライフルというのは多くはなかったのでいたしかたないところだろう。