10年式擲弾筒
性能:

全長        525mm
銃身長       ???mm
口径         50mm
重量        2.60kg
使用弾薬    本文参照
装弾数          1

左は土浦武器学校の10年式擲弾筒。
写真のキャプションでは
「十式擲弾筒」となっているが
制式名は「十式擲弾筒」が正しい。
 戦争ものの映画・小説あたりで「火力支援」という言葉がよく使われる。火力は砲撃・銃撃などで、現代戦では巡航ミサイルなどの攻撃もそれにあたる。歩兵が攻撃する際は火力、特に砲撃で敵陣地を痛めつけてから突撃という手段がよく取られた。第二次大戦までは大隊規模の戦いまでならそうした砲撃支援が受けられたが、中隊以下の小規模戦闘では火力制圧はライフルないし機関銃火力によることが多かった。銃弾は直撃しない限りは敵にダメージを与える事は不可能で特に完全なまでに隠蔽された塹壕ではライフル火力による制圧は不可能だった。

 そこで各国が目をつけたのがライフル擲弾というものだった。ライフルの先っぽに筒をもうけて、そこに榴弾をいれて空砲の発射ガスで榴弾を打ち出すものだった。これは成功作の部類で、現代でも形をかえつつも立派に使用されている。特に、第二次大戦あたりから戦場の状況がめまぐるしく変わってきた。機動戦が重要視され、重たい大砲の移動では間に合わないことも多々あったからだった。そうした戦場の中ではライフル擲弾は重宝された。爆発力はといえば手榴弾と同レベルだが手で投げるより遠くに飛ぶし正確に飛ぶ。機関銃陣地に食らわせれば戦闘不能にすることはできた。

 ところが、日本ではライフル擲弾は発達しなかった。理由はある。日本では日露戦争前から6.5mm弾を使用したライフルを採用していた。各国のように8mmクラスではなかった。空砲威力は6.5mmのほうが当然劣ったから擲弾を遠くに飛ばせなかった。細いライフル銃身に擲弾アダプターを装着するとそこから泥などが進入しやすく、また、日本の冶金技術は他国と比べても劣っており、6.5mm銃身が擲弾発射の高圧に耐えることが難しかった。そのために11mm口径の村田銃を使った擲弾ライフルも製作されたが、やはり運用しにくい点が現地部隊から指摘された。ライフルの長さでは持ち運びにくかったろうし、撃てる弾も擲弾のみだから当然とも言える。

 日本が目をつけたのが、第一次大戦でドイツ軍が使用した信号弾発射機だった。これは名前のように信号弾を発射するもので、棒に筒をつけたような単純なものだった。これを日本は模倣して10年式擲弾筒を製作・採用した
 10年式擲弾筒は当然、フルコピー品ではなく手榴弾を発射するため、また、射程も調整する必要があったため独自に改良がされている。筒の後尾に回転筒という部品を設けて、発射ガスを逃がせるように調整できるようにしている。これを完全閉鎖すれば最大射程で飛び、少しガスを逃がすようにすればそれ相応に射程距離は下がる。発射は柄桿(へいかん)と呼ばれる部品についている引鉄を引けば発射できる。
 発射時には擲弾筒角度は45°にして発射する必要があったが、10年式擲弾筒には水準器とかいう高価な部品はついていなかった。つまり、兵士の「勘」による照準であった。なんともアバウトな照準方法といえるが、それでも、百発百中を誇った擲弾筒手がゴロゴロといたという。まぁ10年式擲弾筒の発射方法的に水準器をつけるのもあまり意味がないだろうし、その「勘」を養うのも訓練でたくさん撃って養わせる方法でなんとかなったのだろう。照準は10年式擲弾筒自体に赤線が引いてありそれを目標と真っ直ぐにして照準を行った。赤線は昼間では目立つが、薄明時(明け方か夕方)に見えなくなるという欠点があったが、10年式擲弾筒自体本格的な実戦を経験することはなかったので改正されることはなかった。
 10年式擲弾筒は本体重量が2.6kgとかなり軽く、1人での運搬が可能だった。運搬時は、発射筒・柄桿(へいかん。床板と発射筒を繋ぐ棒)・駐板(床板)の3つに分解でき、後者2つの部品は発射筒の中に収納できた。それを専用の負革に入れて運搬していた。ちなみに、弾は雑納に入れていたようで専用の弾いれというのはなかった。床板は発射筒に入れる都合上、Uの形をしていたが、発射の際にすわりがいいので、分解不可能な89式擲弾筒でもこの形状は受け継がれた。
 10年式擲弾筒の使用する弾薬は10年式手榴弾と照明弾や発煙弾が撃てた。10年式手榴弾を使った場合の射程は175mほどとさほど遠くには飛ばせないが、小隊規模での戦闘では充分な射程距離といえた。

 10年式擲弾筒自体は支援火器としては成功作と言えたが、本格的な実戦を経験することなく、後に射程が長く精度も高い89式擲弾筒が制式化されると10年式擲弾筒は歩兵部隊からは消えていった。ただ、10年式擲弾筒自体は第二の人生を歩むことになった。その行き先は砲兵隊で、当時の日本では無線機がほとんど発達していなかったせいもあり、部隊連絡には照明弾が多用された。また、防御力が弱い砲兵隊には煙幕開帳装置も不可欠で、その照明弾用および煙幕弾用として10年式擲弾筒は1つの大砲に1つ以上必ず装備されていた。照明弾といえば拳銃の親分みたいなのを想像するかもしれないが、たしかに当時の日本には信号拳銃があるにはあったがその口径は37mmで、10年式擲弾筒は50mmだった。口径が大きいほうが大きい弾を発射できるからより強力な照明弾および煙幕弾を発射できたため砲兵隊では10年式擲弾筒は重宝された。