89式擲弾筒
性能:

全長        610mm
銃身長       ???mm
口径         50mm
重量        4.70kg
使用弾薬    本文参照
最大射程     670m
装弾数          1


 戦争で機関銃が登場してから戦死傷者の数が激増した。実際にそうだが、それに比例して弾薬消費量もそれ以上に激増した。”使用弾薬数÷死傷者の数”計算すると、実際にそうかは分からないが一説には南北戦争の頃は1人の兵士を倒す(死傷させる事。殺すとは別。)のに使用された銃弾の数は約300発だったと言われる。それが第二次大戦の頃には数万発におよんだとされ、ベトナム戦争でベトコンや北ベトナム兵を1人倒すのに使われた弾薬の数は100万発にも及んだといわれる。昔ながらの「戦争=特定の資本家が儲かる」という方程式が崩れたのもこの乱射乱撃が戦場の主体となっていったからだろう。
 しかしながら、それでも、戦闘における死傷者の割合で一番多いのは爆発物による破片の死傷だった。爆発物もいろいろあるが、多くは砲弾によるものだった。戦闘行動による攻撃行動は砲撃やロケット攻撃で敵拠点を叩いてから突撃を行うために、相手の防御体制にもよるが大抵は浮き足立つために散発的な反撃で退却する場合が多いせいもあるのだろう。

 砲火による支援攻撃の重要性は何時の時代も同じだといえる。重たい大きい大砲から「歩兵砲」なるジャンルの大砲が誕生し、ライフル擲弾というジャンルの兵器が誕生していった。やがて歩兵砲は迫撃砲にその座を譲ることになるが、ライフル擲弾は今でも使われている。ライフル擲弾というのは、昔のは銃口部分に手榴弾の大きいやつを装着して、空砲を用いてそのガス圧でその榴弾を飛ばすものだった。ただ、この方式はいちいち空砲を装填しないといけないのと実弾を使った場合に大事故になるために第二次大戦後のライフル擲弾にはこの榴弾の真ん中を空洞にして、実弾をその間で飛ばして実弾が通ったその火薬で榴弾の火薬を点火して飛ばす方式のライフル擲弾もある。
 第二次大戦中、特に多種多様に揃えたのはドイツだった。手榴弾では正確さがなく、かといって迫撃砲では重すぎてライフル擲弾の取りまわしの良さは手ごろだった。しかし日本ではほとんど発達しなかった。理由は日本では99式小銃が採用されるまでは口径6.5mmの38式歩兵銃が採用されていたが、普通に考えても、装薬は7.7mmクラスの方が6.5mmクラスに比べて多いのは当然の道理で擲弾を飛ばすだけのパワーを考えた場合、諸外国に比べて弱いのは否めなかった。また、ライフル擲弾の発射時には銃弾を飛ばすよりも圧力がかかった。当時の日本の冶金技術ではこの圧力に耐えうる銃身を作ることができなかった。そのために作られたのが10年式擲弾筒だった。口径50mmの手榴弾に外部装着の装薬を付けて発射するもので、射程が175mとさほど長いものでもなかったが、分隊の支援用としては十分といえた。

 ところで、当時の日本陸軍には大隊支援用として11年式曲射歩兵砲というのがあった。これは第一次大戦で使われたドイツの煙幕発射機を基本として作られている。一種の迫撃砲といえるが、床板がやたらと厚く、ライフリングも切ってあって命中精度は高かった。迫撃砲を採用しなかった理由は、迫撃砲は命中精度が低くだから諸外国では多数を揃えて数撃ってなんとかするものだったが、貧乏国家日本ではそうした贅沢な射撃も、また迫撃砲の数も揃えることができなかったからだと言える。普通の迫撃砲と違って、弾を落とすだけでは発射せず引き金を引いて発射していた。そのため2重装填の事故を起こしやすかったし、だいいち発射速度が格段に劣った。そのためか昭和になって92式歩兵砲が完成するとサッサと2線級兵器となってしまい、日中戦争・太平洋戦争での戦場写真でまず見かけることはない兵器となった。

 しかしながら、これを擲弾筒に応用できないかと考えた人がいた。開発経緯はよくわからないが、手榴弾しか撃てなかった10年式擲弾筒では威力が不足気味とでも考えられたのだろうか?。この11年式曲射歩兵砲の構造そのままに、口径を70mmから50mmにスペックダウンしたのが89式擲弾筒だった。

 89式擲弾筒は外見こそ10年式擲弾筒に似てはいるが構造は相当異なっていた。まず、飛距離調整は10年式擲弾筒はガス抜き穴の調整で行っていたが、89式擲弾筒は撃針を上下させて調整していた。つまりは撃針を上に持っていった状態で撃つと砲身が短い状態で撃ったのと同じでようは初速が落ちるために飛距離も落ちた。撃針が一番下の状態で撃つと砲身が長い状態になるので加速がつき初速が上がり飛距離も伸びた。撃針は筒の中で上下しても見えないが、連動して引き金が上下するためにそれで確認ができた。構え方は10年式擲弾筒と同じく伏せるか膝を地面についた状態で射撃した。89式擲弾筒には赤線が引いてあってその延長線上に目標を向けるのだが、赤い線は目立つと思われがちだが、薄明時の攻撃の際に赤線は見えづらいために、日本陸軍が得意とした薄明時の突撃時に支障が生じた。そのために後の生産型には白線が引かれるようになった。射程距離の調整は上で書いたように撃針を上下させるのが一般的だったが、実戦では擲弾筒の角度を変えてから射撃を行っていた。89式擲弾筒には水準器などはなく、またウィンテージ(風による左右調整)機構もなかった。つまりは射手のカンによる角度での射撃で命中精度は悪そうに思えるが、実戦ではそれでも百発百中の擲弾筒射手がゴロゴロいたという。
 89式擲弾筒は専用の89式榴弾が開発されていた。この89式榴弾は弾底(弾帯)が柔らかい金属でできており、発射薬に発火するとここが広がってライフリングに噛んで回転を与えられて発射されたため命中精度も良かった。ガスシールされるのでガス圧が効率よく働いたために89式榴弾の最大射程は600mにもなった。分隊支援火器としては充分すぎる数字だと言える。他にも10年式手榴弾も発射可能だったし後に制定された91式手榴弾も発射可能だった。また、発煙弾も新規に作られて煙幕開帳も可能になり、汎用性もなかなかのものだったと言える。

 89式擲弾筒は日中戦争・太平洋戦争で、日本陸軍が投入された戦域全てで使われた。特に重い大砲を持っていけないジャングル戦では数少ない火力兵器として重宝され、連合軍側、特にアメリカ軍からは注目されて、後のM79グレネードランチャーを製作するきっかけになったと言われている。特にアメリカでの軍事雑誌などでは「(日本陸軍歩兵兵器の中で)唯一評価に値する」などと書かれていることもある。余談ながら、アメリカ軍のテストで膝に構えて撃ってから大腿骨を複雑骨折したという話がよく知られているが、それが、いつ、どこで、誰がやったかはわからず、捕獲兵器を担当した教官が「膝に構えて撃ったら骨を折るから、んな撃ち方すんじゃねぇぞ」と注意したのが一人歩きした可能性もなくはない。

 こうした評価の高い89式擲弾筒ではあったが欠点もあった。まずは射撃音がやたらとやかましいことで、操作上遠隔操作ができないし、耳栓していたら射撃開始の命令も聞こえないから射手は難聴に悩まされたのではなかろうか?。ただ、当時の兵士の手記を見る限り、発射は射手に任せていたようで、耳栓をしていた可能性もあるし、第一、ハッタリが聞くという利点もある。その射撃音で(山砲なみのやかましさなので)敵は大砲を所有しているから大部隊に違いない…と敵に思いこませた例もあったと言われる。
 撃針を一番上にして射撃した場合に不発が多発したという苦情が戦場から相次いだ。改修作業も上手く行かず結局は射角を変えることで短距離の射程は調整するしかなかった。ちなみに89式擲弾筒の後継機種が製作はされていたが、99式小銃が制式化され、日本の冶金技術が発達してくるとライフル擲弾が発射可能になり、新型擲弾筒は昭和15年に製作中止となった。
 また、当然ながら擲弾筒は弾が込めてあるかが確認が難しいし(砲口から確認しろというのはさすがに怖い)砲口から弾を装填していたので、2重装填を起こす可能性もあった。当然ながら、そのまま発射すれば大爆発を起こす可能性もあった。また、暗闇では逆装填を起こす可能性もあった。91式手榴弾だったら逆装填した場合、自爆してしまうが、89式榴弾を逆装填した場合、構造上、撃針の方が破損するのでその意味では安全だった。無論壊れた擲弾筒など敵をひっぱたく棍棒代わりにもならなかった。
 また、信頼性の無さも欠点の1つといわれている。、兵士たちの噂では1万発に1発の割合で発射時に自爆するというぐらいに弾薬に信頼性がなかった。実際にそうなのかは資料があろうはずもないが、そうしたことはあったという兵士の手記も散見される。また擲弾筒射撃訓練では別な位置で紐などで遠隔操作で撃たせていた部隊もあったぐらいなのでやはり信頼性がなかったというべきほかないだろう。
 最大の欠点は照準器がない事だった。45°の角度で発射するといっても水準器があるわけでもなかったため、45°の角度調整は「勘」に頼るしかなかった。上で書いているように短距離の射程調整時に不発が多発したための措置は角度を多く取ることだった。だいたい角度計すらなかったのにいちいち目測で距離を測って撃つのである。訓練で沢山撃たせて勘を養えばいいという問題ではない。戦争とはストレートに言えば人の殺し合いである。擲弾筒手だって負傷するし死ぬこともある。戦争が進むにつれてその擲弾筒の名手がいつまでも死傷しない保証はない。分隊で使うものなのでほぼ全員の兵士が撃ちかたの訓練は行うために射撃自体は誰でも出来たがどういう角度で撃てばいいのかなどよく撃っている本人でないとわかるはずもなかった。つまりは、戦闘機や戦車など特定の兵士が使う兵器はともかく、全員が使いうる兵器は相当な熟練が必要であってはいけなかったのだ。

 全体的に見れば、また、後々の評価もかなり高い89式擲弾筒だったが、終戦後しばらくして自衛隊で制式兵器とならなかったのは、やはり照準器がなく、照準に相当な熟練が必要としたからだろう。