26年式拳銃
写真ないっす(;_;)
性能:

全長     230mm
銃身長    120mm
重量     0.92kg
使用弾薬    9mm
装弾数     6
初速    195m/s
        (黒色火薬)
       230m/s
       (無煙火薬)
 日本における近代的配備は幕末からで、当時は日本国内で西洋のライフルを作れる所がなかったので、殆どを輸入に頼った。日本での幕末頃はアメリカでは内戦(南北戦争)が起こっていた。1865年に南部連合の首都リッチモンドが陥落し一応のアメリカ内戦は終結した。この戦いでは、黒色火薬を使うライフルとしては一応の完成を見た状態での戦闘でもあった。この内戦での戦死者は正確な統計はないが、実に両軍合わせて60万人以上に達したと言われている。ちなみに、アメリカは戦争でここまで戦死者を出した戦いは後にも先にもなかった(第二次大戦ですらここまで戦死者は出していない)。
 南北戦争が終わり、余剰になったライフルは安価で諸外国に売られた。これらアメリカ製新型ライフルが直接日本に輸入できるようになった。そのためにイギリス・フランスなどの旧式ライフルは安価でないと売れなくなった。仕方が無くこれらの国々のライフルは値下げをせざるをえなかった。これを見た薩摩藩の大山巌はミエネー銃を大量購入できた。戊辰戦争で薩長軍の勝利の一因となったとも言えるだろう。

 さて、時代は慶応から明治へ、政権は徳川幕府から薩長土肥の連合政権へとかわり、さらには廃藩置県で中央集権国家が成り立つことになる。軍備は相変わらず輸入品が主力だった。たしかに工業が殆ど発達していなかった日本ではそれが最善の選択であったと言えるだろう。また、予算的にも廃藩置県で俸禄を失った武士への支払いが膨大なもので、これは歳入の3割から5割にも達していた。また国内的にも西日本でいくつもの不穏な動きもあった。
 武士への国家からの俸禄の支払いも、一時金的なものとなり、さらにはその金も国債の支給へと変わっていった。西日本での不穏な動きも、神風連の乱・萩の乱・佐賀の乱・・・そして西南戦争を経て日本国内における軍隊は中央政府の軍隊に一元化し、日本国内を脅かす軍事勢力はなくなった。一応の政治的安定を見た日本陸軍は、村田経芳少佐に命じて国産のライフル設計を銘じた。完成したのが13年式村田銃で、後に18年式と形状変更を行い日清戦争はこのライフルで戦い勝利した。

 歩兵の主力兵器ではない拳銃はといえば、さほど重要視されていたわけでもなかった。ちなみに、日本で一番最初に制式制定された軍用拳銃はといえば、明治8年(1875年)に制式化されたS&W社(スミス&ウェッソン)のNo.3リボルバーだった。制式名は「壱番型元折拳銃」と呼ばれていたもので、海軍では第1次大戦あたりまで使っていたらしい。西南戦争では将校は日本刀の所持を禁止されており(なんでもかんでも西洋!ということでサーベルの所持を義務づけられた)サーベルの扱いに不慣れな日本陸軍将校は自費購入の拳銃を携帯して戦闘に及んだが、古い拳銃が多く、また弾薬も古かったせいで(黒色火薬は湿気を吸いやすい)不発が多く拳銃を嫌いになったという事もあった。またきちんと作動した拳銃をもってしても「拳銃の自衛力は日本刀とほとんど変わらない」とも言われた。そのせいか、拳銃に関してはあまり重要視されず、国産も先送りされた。

 時代が進むにつれ、対外債務が相当多くなり「拳銃ぐらい国産できんのか」という意見が政府から出た。明治20年代になると大韓帝国に対する政策で大清帝国と衝突しており、一戦をも辞さない状況になっていた。当然、軍拡は進むし、国内でも、
「竹槍で ドンと突き出す 二分五厘」
という川柳で知られるように、一揆で土地税を3分(3%)から2分5厘(2.5%)に下げないといけなくなったしで、少しでも安く装備しないといけない事情もあったろう。

 後に26年式拳銃と命名される本銃がいつ開発開始されたのかはわからない。明治26年(1893年)に制式化されたために26年式拳銃と命名された。
 この頃には自動拳銃がいくつか試作されつつあり、26年式拳銃採用をもって「日本陸軍は時代遅れ」と評価する人もいるが、19世紀末は自動式拳銃のメカニズムはまだ試行錯誤の段階で、実用化にはもう少し時間が必要だった。そういう意味では堅実な選択だったと言える。

 26年式拳銃は主に騎兵部隊の補助兵器として使われていた。騎兵は手綱を持つ関係上、馬上では片手で兵器を扱えたほうがいい。西洋風のサーベルを装備していたのもこういう理由だった。そのために26年式拳銃はダブルアクションオンリーで、ハンマーを起こして射撃することができなかった。当時の騎兵の教本を見る限り、拳銃はゼロ距離で使うものとされた(ゼロ距離=銃を水平にして撃つ距離というのが本来の意味だが、ここでは照準をつけずにサイトを使わない目視照準で射撃するぐらいの近距離という意味)。そうであれば、精密射撃はいらないからダブルアクションオンリーでも十分という理屈だった。26年式拳銃は引きしろが少なくその少ないストロークでダブルアクションを行う関係上、今のリボルバーと比べると引き金が重いという欠点もあったが、乱戦の戦場では問題はないとされた。また、重い引き金は安全面でも有効であったと言える。

 26年式拳銃の初陣は日清戦争であったと考えられる。補助的な兵器である拳銃の活躍は記録にあるはずもない。
 恐らく唯一名を残す活躍をしたといえば、2・26事件で使われた事だろう。官邸に突入した反乱軍将校が、後に終戦内閣を組織することになる鈴木貫太郎に対して3発、26年式拳銃で銃弾を撃ちこんだ。左頭部創傷、左肺貫通銃創、左足貫通銃創で、いずれも射手から見て右に着弾したことを意味する。それだけ引き金が重かったからだろう。

 26年式拳銃は関東大震災が起こり東京小石川の工廠設備が福岡小倉に移転するまで生産は行われていたとされる。ただし、実際には生産ライン自体は終戦まで残されていた。総生産数は59200丁とも62000丁とも言われている。
 26年式拳銃はリボルバー式と、軍用拳銃としては旧式ではあるが、後の自動拳銃でいいものが作れなかったことを考えれば、日本軍で唯一信頼のおけた拳銃ではなかったろうかとも思えなくはない。



 26年式拳銃は外見上ではたしかに19世紀のリボルバー拳銃の典型ともいえる。後のリボルバーのようにスイングアウト式(横にシリンダーが出る仕組み)ではなく、シリンダー後端から分離する元折式になっている。当時としてはオーソドックスな方法と言えた。ダブルアクションオンリーだから、ハンマーを内臓式にしてもよさそうなものだが、それをしなかった理由は、撃発を確実にするためにハンマー自体を大きくしたのと、扉式サイドプレートのヒンジがあるためにそれができなかった。
 26年式拳銃自体、見るべき点は特にはない。当時の諸外国のリボルバー軍用拳銃と比較しても、これといった利点もなかったし欠点もなかった。