APS
性能:

全長      225mm
銃身長     127mm
重量      1.03kg
使用弾薬    9mm×18
装弾数        20発
連射速度   750発/分







左の写真は町田玲彦さんから
資料提供していただきました
どうもありがとうございます
≦(_ _)≧
 「フルオート拳銃があるといいな」

 というのは何時の時代の何処の人でも考えるものだと言える。映画では縦横無尽に活躍できそうだが実際はそうはいかなかった。軽い拳銃でフルオート射撃すると銃口が定まらずまず1点に弾着が集まらない。相手が3m先にいるのなら話は別だが、30ヤードも離れたら最初の1発以外は命中が期待できない。いくら消耗の代名詞の軍隊とはいえども許容はできなかった。湯水のごとく銃砲弾を使いまくることで有名なアメリカ軍でさえもそれはできなかった。理由は簡単で、兵士個人が所持して移動できる銃弾の数はどこの軍隊の兵士だって同じで、たとえば中国兵は150発しか携帯できないがアメリカ兵は2000発携帯できるって訳でもなかった。アメリカ軍は補給能力が優れているとはいえ補給線が断たれないという保障はなかった。また、拳銃弾は野戦では威力がなさすぎた。結局はカービン型突撃ライフルの登場で軍用としてのフルオート拳銃は短機関銃と同時に消えていく運命にあった。

 さて、ソビエトというのは第1次大戦終結直前に誕生した新興国家で、世界初の社会主義国家だった。国民は皆平等で個人資産を認めない社会主義国家の誕生は資本主義国家では脅威のなにものでもなく(たとえばその国で社会主義政権が誕生すると自分の資産が全部没収されるから)チェコ軍救援という名目で露骨に軍隊を派遣した。目的は当然ながら社会主義政権の打倒だった。これはロシア国民の抵抗で頓挫したが諸外国はソビエトを敵視しソビエトを孤立させた。国防の要である兵器類の輸入もストップし、ソビエトは独自に兵器類を開発するようになった。ただ、独力での開発は難航するのは想像には固くなかったが、ソビエトにとって幸運だったのは同じ国際社会で軍事的に孤児となっていたドイツの存在があった。ドイツは経済的には第1次大戦の旧敵国との交流があったが、ドイツの再軍備は極端なまでにイギリス・フランスが嫌い、兵器開発に大きな制限が加えられていた。そこでドイツは外国で巧妙に偽装して開発を行っていた。たとえば、スイスのエリコン社やスウェーデンのボフォース社がよく知られているが、国際的な孤児だったソビエトにも接触し、航空機技術や戦車技術を提供するかわりに、ドイツ軍兵士の航空搭乗員などの訓練場所をソビエトに求めた。かくして両国の利害が一致して極秘裏に軍事提携が結ばれた。これはヒトラー政権が誕生するまで続くのだが、後にソビエト軍がT-34戦車という傑作戦車を完成できたのもこうした技術の土壌があったからだといえる。

 戦車や航空機の話はここでは置いておいて、1920年代のソビエトの銃器事情といえば、たとえばマキシム型機関銃やモシンナガンM1891ボルトアクションライフルなどを生産しており、諸外国と比べても立ち遅れているとは言えなかった。ただ、拳銃に限っていえばナガンリボルバーしかなく、自動銃器はなかった。軍用拳銃でリボルバーを採用していた大国といえばイギリスがあるが、これは伝統にこだわったからで、開発能力がなかったわけでもなかった。
 いくら自動拳銃が軍用に採用されていないとはいえ、ロシア革命以前から外国の自動銃器は輸入されており、特にベルギーのFN社製M1903自動拳銃や、ドイツのモーゼル社製C96などがあったために開発土壌が全くないわけでもなかった。注目すべきはソビエト軍は1920年代中頃に自動拳銃開発を指示した際にフルオート機能を要求した点にある。民間で拳銃をフルオートにする考えはいくつでもあったから当時としては驚くべきもないが、それに答えたA.V.トカレフという技師は1929年にフルオート拳銃を完成させたという。ただ、肝心の写真が伝わっていないのが残念だが、

・当時の拳銃に比べたら一回り大きく拳銃としては使いにくい
・重量が軽いので短機関銃としても使いにくい
・また当時のブローバック式短機関銃と比べても製造コストがやたらとかかった

 という話が伝わっている。当然採用はされず、トカレフも普通にセミオート式拳銃を作った。こちらはトカレフTT-1930としてあっさりとソビエト軍に採用された。

 それでもフルオート拳銃を諦めなかった、ヨベボディンという技師がいて、彼は普通のセミオート拳銃に加えて、セレクターでフルオート射撃も可能な拳銃を試作して軍に提出した。その時期がちょうど1941年初春頃で、ソビエト軍も本気で制式採用を検討したといわれる。この頃はソビエトとフィンランドが戦闘を行い、一応はソビエト軍が勝利を収めた頃で、フィンランド軍の短機関銃の活躍が目覚しかったからだとも思えなくはない。ただ、当時はソビエト軍でも短機関銃は運用されており、このフルオート拳銃をどういう運用の目的で採用しようとしたかは良く分からない。ただ、この採用は永久にされることはなかった。
 1941年6月22日未明。ドイツ軍は突如として300万人という空前絶後の兵力をもってソビエト軍になだれ込んだ。奇襲となったこの侵攻戦でソビエト軍は各地で崩壊し、兵員と装備の数多くが失われた。当然ながら、兵器類は即使えるものが最優先で生産され、補助兵器な拳銃は必要分しか生産されず、新規採用などという悠長なことはできなかった。

 第二次大戦が終結して、特にソビエトでは突撃ライフルの傑作、AK47が登場するにいたって、短機関銃はもとより、フルオート拳銃も忘れ去られていったかに思えたが、それでもフルオート拳銃製作を諦めなかった技師がいた。ツーラ造兵廠のイゴール・ヤゴブレビッチ・スチェッキンという技師だった。
 第二次大戦後に新型拳銃弾の開発・制式化とともに新型拳銃弾用の拳銃を開発していたマカロフという技師がいたが、これを大型化してフルオート化する考えをスチェッキンは持った。外見上と内部メカニズムからしてマカロフ型拳銃をベースに開発、ないし同時設計されたのは間違いないだろう。かくして「アブトティチスキー・ピストレット・スチェッキナ」(スチェッキン型突撃拳銃。通称APS)が完成した。

 制式採用は1951年説と1953年説がある。前者の説は、マカロフ拳銃(PM)とほぼ同時期に制定されたからと言われているからで、また1952年にベルリンの壁を警備していたアメリカ兵が東ベルリンに駐留していたソビエト兵に自慢がてらに新型拳銃を見せられてそれがAPSではないかという報告があったからそう言われていた。後者の説は本格的に製造されたのが確認できるのが1953年からで、それをもって1953年制式採用説がある。
 実際の所はどちらかは分からず、本当に制式化されていたのかも分からない。ソビエト崩壊後に、アメリカなどに流れたスチェッキンAPSは殆ど無かったために、生産数もそう多くはなかったと考えられる。現存するスチェッキンAPSの刻印を見る限り、また、その刻印を信じる限り、生産年度は1953年と1954年だけに限られており、実際の所、生産数は極端に少なかったのではないだろうか?

 スチェッキンAPSの配備状況だが、ソビエト側が公開した写真の中で、兵士がこのAPSを持って写っている写真を見ることはまずなく、軍の一般兵士ではなく、KGBやスペツナズなどの部隊に配備されていると言われている。実際には「スチェッキンAPSは軍の写真じゃ見かけないから特殊な部隊で使ってるんじゃないのか?」という憶測によるもので配備状況も実際にはわからない。
 確実に使われている事といえば、友好国の大使がソビエト本国に訪れた際にお土産としてスチェッキンAPSを渡している事だろう。たとえばキューバのカストロ首相が自身の片腕といえるチェ・ゲバラを連れてモスクワを訪れた際にソビエトのフルシチョフ首相はお土産としてスチェッキンAPSを3丁持たせた。カストロ首相とチェ・ゲバラはかなりこのスチェッキンAPSを気に入り肌身離さず持っていたという。実際、チェ・ゲバラは社会主義を広めようと諸外国で活動をしていたが、ボリビアで殺された時にも、このスチェッキンAPSを持っていた。カストロ首相も自身、ゲリラ戦を肌身で体験していて、ゲリラ戦ではこの手の拳銃は有効な事を知っていたために、ソビエトにスチェッキンAPSを大量に売って欲しいと打診したと言われる。ただしソビエトは応じなかった。機密保持というよりはもう既にこの時点(1960年前後)では既に生産がされておらず、生産設備も撤去した後でもはや量産ができる状況ではなかったからだろう。

 1960年代の末頃にアメリカ軍はこのスチェッキンAPSを入手した。実射テストではストックを装着した場合、優等射手が射撃したら150ヤード先の人体大の目標には当てる事は十分可能だという結果が出た。ただ、フルオート射撃ではせいぜい20ヤード先の目標が限界とされた。ソビエト軍内ではフルオート時はどういう射撃方法が推奨されていたかは知らないが、アメリカ軍でのテストで、いろいろな射撃姿勢が試されて、「グリップを両手で持ち、ストックを肩に押しつけるように固定して、3発バースト射撃するのが良い」とされた。それでも有効射程は40ヤード程度とされた。
 アメリカ軍内でもさほど注目はされず、対抗して同種の銃器が作られることもなかった。正規軍でも特殊部隊でもフルオート拳銃は役には立たないというのは過去を見れば明らかだったからだろう。

 今ではスチェッキンAPSは何処でも使われてはいない。また、生産数も少ないようで、ソビエト崩壊後もアメリカに流れてきたスチェッキンAPSはほとんどなかった。希少さからコレクターズアイテムになっているという。



 スチェッキンAPSは外部から見ればマカロフの大型化バージョンにも見える。実際そうなのだろう。内部メカニズムもそう変わらない。ピンを使わないでハンマーまわりの部品を組みたててある構成もマカロフと同一。ただ、フルオート機能があるためにその辺の違いはある。
 ハンマーの先っぽはトカレフからの伝統の丸型で、ホルスターから抜き出す時に引っ掛けにくいという利点はあるが、正直いえばハンマーを起こしにくい。シングルアクションのトカレフTT-1933ならともかく、ダブルアクションのスチェッキンAPSならそれでもいいのだろうか。
 軽量化のために、フレームはかなり肉抜きの穴がある。戦闘機の零戦を思い起こさせるが、拳銃で軽量にする分にはたしかに持ち運ぶ際の負担が軽減されるという利点があるが、軍用として考えた場合、ライフルのような重量があるならともかく、拳銃で何百グラム軽くなったってさほど利点ではなかったろう。また、余計な加工が必要になってくるので、さほどメリットもなかったと思える。ちなみに、肉抜きされているために、大きさはコルト・ガバメントとほぼ同じだが、重量は100gちょっと軽い。
 銃身はフレームに固定されている。ここもマカロフおよびワルサーPPと同じだが、これら中型拳銃ならともかく、大型拳銃でこの仕組みは強度上不安とも思えなくはないが、使用する弾薬が9mmマカロフ(9mm×18弾)と9パラに比べてやや威力が劣る弾なのでそれでも良かったのだろうか?。ちなみに、銃身軸線とフレームの間がかなり離れており、安直にマカロフを大型化した結果なのだろうとしか思えない。
 スライド右に安全装置兼セレクターがある。前方に回しきると安全装置ONで、後ろに回しきるとフルオートになり、その中間でセミオートになる。安全装置をかけていて咄嗟に撃つ場合が多少辛いと思える。
 照門(リアサイト)は特殊な構造で、丸みがあり、偏芯している四角い部品を回転させて照門を上下させる。25m、50m、100m、200mの4種類でこの順番で照門が高くなってゆく。モーゼルミリタリーの最大照門1000mに比べればはるかに現実的だと言えるが、銃身が短い拳銃での200mでも過大と言えるだろう。照準線を長くとるために照門は可能な限り後方に配置されているが、そのためにハンマーが起こしにくいという欠点にもなっている。
 グリップはかなり大型になっている。弾倉がダブルマガジン・ダブルフィールドになっているので、仕方がないといえるが、それに加えて、連射速度を抑える部品も組みこまれている。この部品は強力なバネでスライドを押す部品で、常にテンションがかかっているためにスライドの後退速度が抑えられるようになっている。そのため、スチェッキンAPSの連射速度は750発/分で、イングラムMAC10に比べれば遅いといえるが、それでも自動銃器にしてみれば早い方だといえるだろう。こうした部品をスライドに組みこんでいるためにスライドは大きめになっている。この銃を持った事はないが、ソーコムMk23と同寸縮尺にして比較しても大きめなのが分かる。アメリカ軍のテストで両手で保持して射撃した方が安定するというのは大きすぎて片手では保持が難しいということなのだろう。

 弾倉は上でも書いているようにダブルカーラム・ダブルフィールドで、今ではダブルカーラム式は珍しくはないが、拳銃でダブルフィールドを採用しているのは珍しい部類に入る。ダブルフィールド式はライフルでは当たり前のように見受けられるし、確かに弾倉への弾込めの際にかなり楽に装填ができるという利点はある。ただ、拳銃での採用は、開口部が大きくなり砂塵が進入しやすいのと、銃本体に装填してスライドを前進させて銃弾を薬室に装填させる際のランプ(銃弾をスムーズに押しこめるようにした切りかきみたいな加工)を大きくしないといけないので、当然ながらスライド幅も広がることになるために、拳銃では敬遠されており、拳銃ではシングルフィールドが一般的。また、弾倉の左右側面には大きな穴があけられておりこれも肉抜きだと言える。残弾が一目でわかるという利点はあるが、やはり砂塵が進入しやすくなるという欠点もある。暗闇でも弾倉を抜いて手で確認できるという点も利点と言えるかもしれないが、そういう状況での発砲は無駄ダマだろう。

 野戦分解は工具なしで簡単に行える。まずは、セレクターを安全以外にしてトリガーガード前方を押しこんでトリガーガードを外す。スライドをおもいっきり引いて上にあげてから前方に戻すとスライドが外れるようになっている。ようはマカロフと、マカロフの参考になったといわれるワルサーPPと同じ分解方法で、なるほど、マカロフの大型化版と言われる所以でもあるだろう。
 工具なしである程度まで分解はできる。さすがに完全分解となると工具が必要だが、分解してしまっても、部品の少なさに驚かされる。これはソビエト銃器の殆どに言える点だが、たしかに部品点数が少ないなら製作工数もあまりかからないと思えるが、部品の1個1個が複雑な形状をしていて普通に見ても作るのが大変なのがわかる。また、壊れた際のパーツ供給が重要だが、たかが拳銃でどこまで補給体制が整えられていたかはある程度は想像はつく。部品1個1個の形状が複雑なのもソビエト銃器の特徴といえるが、機関銃なら肉厚に作れるのでそうは壊れないだろうが、拳銃は小さく作る必要があるので、壊れた際にはさぞ困ったのではなかろうか?

 アクセサリーには、銃床(ストック)と弾倉入れ(マガジンポーチ)とスリングがある。ストックは初期型では木製だったが、削り出し加工がメンドかったからか後にプラスチックに変えられた。形状はモーゼルミリタリーのそれと酷似しており、ストックの肩当部分がボタンで開閉してくりぬかれたストックの中に拳銃本体を入れるのは変わらない。ただ、違っているのは銃本体への装着方法で、モーゼルミリタリーはストックにT字型の金具があり銃本体は凹んでいる金具があるが、スチェッキンAPSは逆で、グリップにT字型の金具がある。グリップが持ちにくそうだなと思える。ストックはスリングを引っ掛けて肩からショルダー式にできるのと、ベルトに引っ掛けるための金具もある。
 マガジンポーチは弾倉を2個入れられるポーチを2個くっつけたもので、銃本体に1つを装着すると考えれば都合100発を保有できることになる。これは拳銃としては相当多いもので、やはり特殊部隊なんかに持たせてオフェンス的な使い方を想定していたのだろう。