日野式拳銃(日野・小室式拳銃)
性能:

全長     234mm
銃身長    178mm
重量     0.80kg(推定)
使用弾薬  7.62mm×17
        (.32ACP)
装弾数     8
初速     不明


左は自作絵です。
影がおもいっきり
正反対なのですが、
勘弁してつかぁさい('Д`)y-~~~
 銃器に限った事ではないのだが、どんな兵器でも発明された直後の黎明(れいめい)期はいろいろな形のものが作られることになる。しかし時間や実戦を経るにつれてその物の形はだいたい決まってくるようになる。

 たとえば、飛行機はライトフライヤー号が1903年に初飛行して以降、いろいろな形の飛行機が作られた。ライトフライヤー号は複葉機で、当時は翼面積が多いほど低速で飛べたし運動性能も良かったので3枚翼はもとより、10枚以上翼をつけた飛行機も現れた。ただ、鳥に複葉がいないように複葉機はやがて消えていくことになった。
 戦車も、第一次大戦中に登場したイギリスの菱型戦車が出てきて、フランスではルノーFT17戦車が登場した。砲塔を搭載し、車体も、操縦室−戦闘室−エンジン室といったレイアウトは今でも変わっていない優秀な設計だったといえる。ただ、第一次大戦後はいろいろな奇抜な戦車が作られた。有名なのは多砲塔戦車で、たしかに見た目には使えそうな気もするが、互いの砲塔が死角を作り、また重量増のため装甲まで重量がまわせず、戦場に出ても全く役にたたなかった。結局は単砲塔重装甲の戦車が今でも生産・配備されている。

 自動式拳銃が誕生した時も、いろいろな方法が試された。結果からいえば、ブローニングが発明したショートリコイルが自動拳銃の大半を占めるが、発明当初(19世紀末)はいくつかの自動式装填方法があり、やがてはショートリコイルが一番いいということで、他の作動機構は銃器史の中に消えていった。これから紹介するブローフォワードという独特な作動機構を持つ日野式拳銃(日野・小室式拳銃)もその消えた中の1つだった。

 日野・小室式拳銃は名前のように、日野熊蔵と小室友次郎が共同で製作した(厳密にいえば共同で特許を取得した)からその名前がある。小室友次郎という人は技術者である事以外は経歴がほとんど知られていない。実際の所は資金協力した実業家ではないかとも言われている。そう言われているために実際には日野熊蔵が1人で設計を行ったとも言われている。以下では日野式拳銃と呼称する。

 日野熊蔵は明治11年(西暦1878年)、熊本県人吉町(今の人吉市)に生まれた。余談であるが、同郷に野球界のドンと呼ばれる川上哲治さんがいるし、コメディアンのウッチャンこと内村光良さんも同郷である(内村さんはとあるテレビ番組で「(人吉)市民全員でも東京ドームが埋まりません!」と自虐的発言したことがあるように人吉市はあまり都会とはいえない場所でもある)。
 熊蔵は熊本英学校(直系の学校は今は存在しないが、分校したフェイス学院が系列といえる)に進学して帝大(今の東大)を目指すが金の問題で果たせず、士官学校を目指し合格。 明治31年に第二連隊(千葉の佐倉)に配属され、明治35年にはどういう任務かは分からないが中国・北京に出向いた。明治36年には才能が認められ陸軍技術審査部に配属。同時に大尉に昇進。
 同年に淀橋区大久保(今の新宿駅のちょっと東あたり)に拳銃工場を設立。恐らく資金援助をしたのが小室友次郎ではないかと思われる。
 技術審査部では38式歩兵銃用の第二号尖弾を発明。三八式実包として明治40年9月に制式化された。熊蔵が発明して大量生産・使用されたのはこれが最初で最後である。
 明治42年に臨時軍用気球研究会(気球とあるが実際には飛行船と航空機の研究目的のために設立された)の委員となる。
 明治43年にはドイツに派遣され、航空機の操縦技術及び航空機のメカニズムを習得する。同年12月には同じ研究会委員であった徳川好敏大尉と代々木練兵場で飛行試験を行った。12月の14〜16日の3日連続で熊蔵は飛行に成功しているにもかかわらず、19日の飛行試験にしか成功しなかった徳川好敏大尉が日本で初めて空を飛んだ人物として歴史に名を残すことになる。理由は徳川好敏大尉が将軍家の家系だからに他ならない。
 明治44年12月1日。少佐に昇進。同時に第二四連隊(福岡)に転属。実質的な左遷。
 大正6年4月、東京砲兵工廠に転属。
 大正7年7月、中佐に昇進。ただし待命を申し付けられる(待命=予備役編入までの待つ期間)
 大正7年10月、予備役編入。 
 昭和21年1月15日、死去。死亡理由は「餓死」だった。

 この熊蔵が日野式拳銃に開発を着手した時期はわかっていないが、明治29年の士官学校受験の際に反動を利用して弾込めをする連発銃(自動拳銃)を考案し、図に書いて説明したと堀口正文陸軍軍医少将(最終階級)が話をしているので、明治29年頃には既に原案は完成していたと言える。
 明治36年(1903年)12月7日に熊蔵は小室友次郎と連名でブローフォワード式拳銃の特許を申請。明治37年3月5日に、特許番号第7165号として特許として認められた。ちなみに、アメリカにも明治37年9月23日に特許申請され、明治41年(1908年)4月28日に特許番号330211号として認められた。余談ではあるが、日本での特許申請の際にはただ「拳銃」としか記載されていないが、アメリカの特許用図面には「K.HINO & T.KOMURO PISTOL」という記載がありこれが「日野・小室式拳銃」と呼ばれる所以ともなった。

 日野式拳銃が採用したブローフォワードとは、簡単にいえば銃身が前後して給弾を行う仕組みで、おおよそブローバックとは逆な理論であると言える。

・銃身を前にスライドさせてコックさせる。
・引き金を引くと銃身が後退して弾を薬室に拾う。
・そのまま後退しきると銃弾の雷管が撃針(固定式)に接触して発射!。
・発射の反動で銃身以外の部品が後退を開始する。
・ただし銃身以外の部品は射手の手で保持されるので後退せず結果的には銃身のみが前身する。
・銃身が前身したままで保持。再度引き金を引けば銃弾が発射される。

簡単にいえば、こんなものである。さらに分かりやすくいえばオープンボルトブローバックようなものと考えればいいかもしれない。

 製作してから熊蔵はこの日野式拳銃を軍に売り込みを計ったというが当然失敗し、民間用に売ることになったが、これも売れなかった。どこまで売れたかはわからず、恐らく現存している日野式拳銃はないと考えられる。
 ただ、特許を取った当時は新聞にも取り上げられたほど熊蔵は有名人になった。これは日本人が銃器の作動機構の特許を取ったからだろう。熊蔵が特許を取る前までの日本人による銃器の特許といえば既存の銃を小改良したものや、サーベルにリボルバー拳銃を付けたものなどおおよそ現実的とは思えない物だった。

 熊蔵は特許申請の際の説明文に利点をこう書いている

・単純な機構のために壊れにくいしジャムも起こりにくい
・銃身が前進するので反動が減殺(げんさい)される
・銃身を前進させるので銃身が長くなり発射力(初速?)が増大される
・安全装置が確実

 日野式拳銃は実銃がほとんど現存していないので現代の銃器史家の実射レポートがないので壊れにくいとかジャムが起きにくいとかいう点は実証ができない。ただ、当時試射した人の話だと「快調に作動した」と言われている。
 銃身が前進するから反動が減殺されるという点は上と同じ理由で実証ができないが、物理的に考えるならば、作動方法で話したように実際には銃身以外が後方に下がるという理屈なので反動の減殺にはならないと考えられる。ただし、使用銃弾が.32ACPなので反動自体は少なかったと考えられる。
 ブローフォワードの少ない利点に「銃身が長くとれる」という点がある。同じ全長の場合、ブローバックではスライドを前後させるので銃身は銃の全長の半分以下になるが、ブローフォワードの場合は全長の4/5ぐらいは銃身長が取れる。ただ、これで極端な差になるとは言いがたい。
 安全装置が確実という主張には納得できない。日野式拳銃は恐らく自動拳銃では初めて採用されたであろうグリップセフティがある。ただ、安全装置がこれだけだった。ガバメントのそれとは違い、引き金の下についていた。安全装置と欠如は引き金を覆う用心鉄がなかったのもある。これではコックしてホルスターに収めた際に引き金とグリップセフティを一緒にホルスターの内側にぶつけた際に暴発してしまう危険性があった。これは軍用はもとより、民間用としても致命的な欠点といえた。
 
 日野式拳銃は明治45年頃まで生産されたと言われている。生産数は約300丁ほどであったが、実際に市場に出たのは200丁ほどだったと考えられる。なお、日野式拳銃は前期型と後期型があり、後期型は加工が単純化されている。肉抜き穴が若干後期型が小さいので、実際の重量は後期型が重いと思われる。

 日野式拳銃は結論からいえば失敗作だった。利点がほとんどなく明らかに欠点が多かった。銃単体の欠点だけではなく作動方式であるブローフォワードにも欠点があった。

・安全機構の欠如。
・コックした時の持ち運びができない。
・グリップを握った際にマガジンキャッチを一緒に握ってしまい弾倉を落とす可能性がある。
・ブローフォワードは閉鎖機構がないために威力のある銃弾を使用できないために発展性がない。

 簡単にいえばこれらが挙げられる。軍用に採用されず、民間用でも売れなかったのは上2つが致命的といえる欠点であったからと断言してもいい。
 安全機構の欠如は先に書いたようにグリップセフティしかない点と、銃器の基本といえる(火縄銃にすらついていた)用心鉄がついていないだけではない。コッキングの際に銃身を握るのでコック不良で暴発の危険は常に付きまとっていた。開発者である熊蔵ですらこの暴発で左手の親指を撃ちぬいた。指の負傷なら命を取られることはないが、熊蔵はこの他に、職工が試射する際に同じ理由で暴発させて暴発した銃弾が熊蔵の背中に命中して腹から抜ける貫通銃創の重傷を負っている。これはブローフォワードの欠点の他に銃自体の安全機構が欠如していたと言える。
 コックした時にホルスターに入れると暴発の危険があるのは先に書いているが、プローフォワードは簡単に言えばオープンボルトブローバックと似たようなものなので発射スタンバイ時に排莢口から砂塵が入る可能性が大きかったと言えた。
 マガジンキャッチはグリップを握ることによってリリースされるので射撃時に一緒に握ってしまわないかと不安になる。ただし、拳銃はあまりギュッと握らないので実際の所はさほど欠点ではないと思えるが、戦場では不意に握って落としてしまいそうな気がしなくもない。ちなみに、特許図面にはこのマガジンキャッチは描かれていない。作動方式に関係ないので当然ともいえるが、実際の製作の前には違ったマガジンキャッチ方法を考えていたのだろうか。
 ブローフォワードは閉鎖機構がないので威力がある銃弾が使えない。つまりこの作動機構では機関銃が作れなかった。拳銃にしても.32ACP程度ならともかく後のスタンダードになる9mm×19弾を使うことは難しかったろう。閉鎖を行わない自動拳銃はVP70などがある。たとえばVP70はスライドを重くしてそれで閉鎖の時間を稼いでいるが、プローフォワードでは可動部分が銃身しかなく、銃身を重くするのは出来ないことはないにせよ自ずと限界があるし、そもそも重量バランスが崩れただろう。
 ブローフォワードは先にも書いたように、例えて言えば閉鎖機構がないオープンボルトブローバックのようなもので、これは第二次大戦に活躍した短機関銃の全てと同じである。つまり拳銃ではなく短機関銃で使えたかもしれない。無論、短機関銃にすると今度は拳銃以上銃身加熱問題が出てくるし、そもそも短機関銃自体第二次大戦後廃れてしまったので、どうにせよ発展性はなかったと言わざるを得ない。

 日野式拳銃は先にも書いたようにほとんど現存していない。ただ、かつては熊本市立博物館に展示されていた。今は展示されていないが、理由は銃刀法に触れるからだろう。個人的には法に触れるからとかではなく、貴重な文化遺産を法で締め付けるのはどうかと思う。