ルガーP08
性能:

全長       222mm
銃身長      102mm
重量       0.87kg
使用弾薬   9mm×19
装弾数        8

 P08という名称はドイツ帝国軍に西暦1908年に採用された拳銃(Pistole)なのでこの名称がある。1908年採用だが、実際には19世紀末には開発が始まっている。「開発が始まっている」とはいっても軍が開発したのではなく、1民間人のヒューゴ・ボルチャルト(ドイツ系だけど、アメリカで市民権を獲得してウィンチェスター社で銃の設計をしていた)が開発した。1893年にはP08の原形が完成している。これは俗に「ボルチャルト・ルガー」と呼ばれている。ボルチャルトルガーの特徴としては、基本的には上の写真のルガーと似ているけども、グリップ角度が緩やかな点とあとはこれが決定的な違いだけども、銃後方にニョキンと反衝バネ(=スライド(ルガーの場合はトグル)を前方に戻すバネの事)がつきだしていた点にある。またトグル作動部がグリップの後方にあった上に銃口部が軽かったので射撃する時にバランスが悪いという欠点があったものの、確実に作動する優れた拳銃であった。かくして世界初の自動拳銃は誕生した。

↑土浦の武器学校にあるネイビーモデルのP08
銃身が長いのが特徴だが、意味があったのだろうか。
銃身に穴が開いているのは使用不能にするために日本側で施した処置。
 この拳銃を売り込んだのはゲオルグ・ルガーだった。「ルガー」と名前がついているのは開発者ではなく売り込んだ人の名前だというのはあまり知られていない。ルガーは1897年から数年かけてアメリカとイギリスを回って、特許取得と
(余談ながら、特許は取得してもその国でしか効力を発揮しない。つまりアメリカで取得してもイギリスで模倣されたらそれまでなのである。アメリカとイギリスしか回らなかったという事はおそらく翻訳するほどの財力がなかったのだろう(当然の事ながら日本の特許庁に英語の書類で申請しても受理されない)。さらに余談ながら、今ではパリ条約で特許が自国で出願したなら条約締結国内ではその日に申請したとみなされている)
銃器の売り込みに回った。開発者のボルチャルトは1900年に射撃時のバランスの改良と内部の変更を行い、「パラベラムP1900」として完成させた。一般にパラベラムとは9mm×19の拳銃弾を指すけどこのP1900は7.65mm弾を使用していた。同じ年にスイス軍がこの銃を3000丁発注してドイツの銃器会社が製造を行った。実質的にルガーP08はこの時点で布石を打ったといえる。同じ会社からコマーシャルモデル(民間用)も発売され10000丁ほどがブルガリアへと売り込まれ、また民間用であったが、トライアル用にアメリカ陸軍に納入されている。1902年には新開発された9mm×19弾を用いた、ルガーモデルP1902が完成。1903年にはアメリカ陸軍が時期主力拳銃用に7.65mmルガーと9mmルガーをそれぞれ1000丁と50丁購入した。しかしアメリカ軍は大口径の拳銃を欲したので第一次審査で落とされたとはいえ、同年にドイツ海軍が採用し、1000丁ほどが納入された。余談ながら、この海軍納入モデルはコルト・ガバメントのようなグリップセフティ(グリップを握り込まないと撃てないしくみ)があった。1906年型モデルは海軍が24000丁採用し、ルガー拳銃がいかに気に入られていたかがわかる。その一方でコマーシャルモデル(民間用)も各国に輸出された。1908年にはついにドイツ帝国陸軍が採用し、この時にP08という制式名称が与えられた。ただし、セフティが今までのと違って逆作用にするように変更を命じられた。今までのルガー拳銃はグリップ後方右上のセフティを押せば安全装置が働くようになっていたが、押せば発射可能なようにである。ようは安全装置がかかっている状態から素早く撃てるようにとの配慮だと思うが、ようは軍隊は”撃つ”のが前提だからとも言える。同年には海軍でも4万丁を発注してる。1914年にはバレルを4インチから8インチ(203mm)に倍加したモデルが登場した。俗にアーティラリーモデル(砲兵モデル)と呼ばれているが、この砲兵モデルのP08は専用ストックと32発入りスネイル(かたつむり)マガジンがオプションで存在した。なお32発マガジンは普通のP08でも装着できた。

 1914年にサラエボ事件から火が点いた国家紛争はやがて欧州を戦乱の渦に巻き込んだ第一次世界大戦が勃発した。当然ながらルガーP08も実戦投入される事となった。しかしルガーP08の精密な構造は戦場の過酷な状況には向かず、故障が続発した。また部品点数が多く量産には向かなかった。こうした戦時特有の欠点は改良してしかるべきだったが、主力兵器ではないためにそれは後回しにされたか、なされなかった。しかしルガーP08はちゃんと整備されているなら確実に作動するため前線の兵士からは好評で、敵兵士も使用していたとも言われている。

 1918年。第一次世界大戦終了でルガーP08の生産も止まった。ドイツは過酷な賠償金と軍備制限を課せられた。口径8mm以上で銃身が100mm以上の銃器は開発が制限されたため、ルガーP08に代わる軍用拳銃は開発されなかった。ドイツ国内では生産されなかったものの1920年代中頃にイギリスで生産がされているのが記録されている。この生産分はオランダに供給され、オランダ領東インド(インドネシア)軍で使用されていた。1941年の日米開戦に伴い、オランダにも宣戦布告を行った日本軍の蘭印侵攻でいくつかのこのルガー拳銃が捕獲されて日本軍でも使用されていたという。しかし日本軍の拳銃とは使用弾薬が異なるため限定された運用方法だったとも思われる。
 話は戻して、1930年にはドイツ国内でもモーゼル社とクリーグスホフ社で生産が再開された。1933年にはヒトラーが首相となり政権を獲得して翌年の1934にはヒンデンブルグ大統領の死去によってその職務を兼ねたので軍備も拡張されていきルガーP08も相当数が軍に納入された。しかし1935年の徴兵制の復活で大量の拳銃が必要になってくると生産性の悪いルガーP08に代わる拳銃が開発されだした。これは1938年にワルサーP38として陸軍に新たに制式採用される事となった。陸軍納入用のルガーP08はこの1938年の時点で生産が止まったものの、海外供給用としては1942年までは(1943年とする資料もある)生産がされていた。また、空軍元帥”ヘルマン・ゲーリング”はルガーP08を非常に気に入りルガーP08を唯一の空軍制式拳銃としたため空軍用のルガーP08はドイツ敗戦の1945年まで生産が続けられた。こう書いていると1938年以降は空軍以外ではルガーP08が使われなかったという印象を受けるかも知れないが、実際にはルガーP08は陸軍兵士からも人気が高かった。実際に、第二次世界大戦の陸軍兵士の写真を見てもルガーP08が写っているシーンは非常に多い。大戦末期になるとワルサーP38が省力化の名の下の改悪のため精度のよいルガーP08が好まれたのかもしれない。イギリス軍兵士にも非常に評価が高く、大戦終了後にイギリス国内に土産として持ち込む兵士も多かった。しかしイギリス軍首脳はルガーP08の持ち込みを堅く禁じて、持ち込んだルガーP08は大半が廃棄処分となった。今でも生産されているかは知らないけど、開発から約100年たった今でも人気は高い。


 ルガーP08の最大の特徴はその作動機構にあるといえる。トグル作動式で、真似た拳銃はほとんどないので識別が容易な点もある。スライド式ではないので横に排莢口を作る事ができず、うちガラの薬莢は真上に飛ぶ。連射の時に射手が困惑するのではなかろうかとも思える。またこの排莢の引っかけの金具は、この拳銃弾が薬室(弾を発射する時に銃弾を収める所)に装填されているときに少しでっぱるようになっていて、射手に知らせるようになっている。この方式はドイツ軍は気に入ったのか後継のワルサーP38にもこの装置がある。ただしワルサーP38は装填確認装置は少し特殊であるが。また、トグル式は弾切れのときには完全に照準線が構造上見えなくなる位置で停止する。これは射手に弾切れがすぐに分かるけどこれも困惑しそうな気がしないでもない。
 あと、ハンマー式ではなくストライカー式の激発装置なのも特徴と言えよう。