ラドム VIS wz1935
性能:

全長      211mm
銃身長     115mm
重量      1.05kg
使用弾薬     9mm×19
装弾数        8発


左の写真は町田玲彦さんから
資料提供していただきました
どうもありがとうございます
≦(_ _)≧
 制式名がP-35だったりVIS35だったりラドムP35といろいろな説がある。なお、wzとは諸外国でいうM(モデル)に相当し、通常はM1935という名称が一般である。しかし実際の銃器にはwz1935と刻印されている。
 1920年代終わり頃から、新生ポーランド軍は(第一次大戦後にやっと独立ができたのだった)次期制式拳銃に向けてのトライアルを開始した。ポーランドのPWU社(当時いくつかの拳銃の輸入をしていた)の技師である”ピオドール・ビィルニエブツィック”は、このトライアルに参加した。wz1928という拳銃を設計したものの実際に製作はなされなかった。なぜ、製作されなかったのかは分からない。しかし、1930年にはwz1930と呼ばれる試作拳銃が完成した。ビィルニェブツィック技師は、自動拳銃としてはM1911ガバメントが最高傑作と考え、これに多大な影響を受けて完成したので、外見はガバメントに良く似ている。ただし、そのままという訳ではなかった。この試作wz1930はハンマースパーは丸型をしている。また、セフティは野戦分解用にも使えるようになっていた。ガバメント系の拳銃はスライドを半分ほど後退させてからスライドストップを外して行うけども、エアガンやモデルガンならともかく実銃のメインスプリングはやたらと堅く半分での保持がちと大変なので、スライドを半分ほど後退させて、セフティをかけるとそこで固定して、確実にスライドストップを外すように巧く設計されている。あと、細かい点をいえばストックを取りつけできるようにグリップ後方にストック取り付け用の溝がきられていた。さらに細かい点をいえば、ガバメントにある、バレルブッシング(銃口にある金具)が別パーツではなかった。トリガーはM1911A1ガバのように後退したものではなく初期型ガバメントのM1911のように少し前方に出ている。ようはトリガーを引ききっても出ている半分程度しか引けなかった。
 この試作wz1930はポーランド軍によりテストされた。指摘された点は、デコッキング方法だった。ガバメントにはデコッキングレバーはなく、当然この試作wz1930にもないので、デコッキングしたい場合は手動で行うしかなかった。ポーランドの冬は寒く、手袋をした状態では滑りやすいという点が指摘されたのだった。また、騎兵部隊からの要望でもあった。騎兵部隊では片手で操作する必要があるため、どうしても手動デコッキングでは不安があったのだった。当時騎兵部隊といえばポーランド軍の主力であり、この意見は無視できなかった。しかし、この騎兵重視が後に問題となる。それと、ハンマーを固定して2mの高さから落下させた試験では、暴発を起こすという欠点もあった。そのため、スライド後方左にデコッキングレバーが設けられた。シングルアクション式でデコッキングレバーがついている拳銃は珍しい部類に入る。その影響で手動セフティは使えないようになり、この手動セフティは単に分解時の固定フックという用途でしか使えなくなった。細かい点をいえば、グリップセフティが角張っていたため、多数射撃すると手が痛くなるという点も指摘された。これはグリップセフティの角張った部分に丸みをつけるという事で解決した。これらの指摘を除けば試作wz1930は満足すべき性能を誇った。特に6000発射撃耐久試験ではこれといった部品破損もなく、特に命中精度が良かったのが好評だった。
 上記の指摘事項を改善し、1935年にVIS wz1935としてポーランド軍に制式採用された。1935年といえば、3月12日にドイツでは徴兵制が復活した年であった。余談ながら、4月23日にはポーランドで新憲法が制定された。しかし量産体制が整ったのは1937年で、生産を行ったのはラドム造兵廠だった。その間も国際情勢は急速に変動していった。

1936年3月7日。ドイツ、ラインラントに進駐。
1938年3月12日。ドイツ、オーストリアを併合
1938年10月1日。ドイツ、ズデーデンラント併合
1939年3月23日。ドイツ、スロバキアを保護領にする。またポーランドに対してダンヒチ返還を要求するが
          ポーランドは拒否。
1939年8月23日。独ソ不可侵条約締結。

 ドイツがポーランドに攻めてくるのは時間の問題となっていた。そのため、wz1935に標準装着されるはずだったストックの生産は後回しにされる事になった。結果からいえば少数の生産にとどまった。
 1939年8月30日。ドイツは「缶詰食料作戦」を発動した。内容は、ポーランドとドイツの国境にあるクラウゼッツ放送局をポーランド兵に化けた武装SSに襲撃させ、しかもよりリアルさを出すために、ポーランド軍の制服を着せた強制収容所の囚人を殺してホリンデの森に放置して、「銃撃戦により射殺した」と恥も無く報道した。当然、ポーランド軍はまったく関与していなかった。しかし、翌日9月1日午前4時45分にはドイツ軍はポーランドに侵攻。同日午前10時に、ヒトラーは「爆弾には爆弾をもって答えよう」と演説し、ポーランド侵攻を発表した。ポーランド軍は果敢に反撃したものの、騎兵主体のポーランド軍は機械化されたドイツ装甲師団に奮戦空しく撃破されていった。ラドム造兵廠でもwz1935の生産は急速に行われたものの、空しい抵抗であった。しかしラドム造兵廠ではドイツに占領される直前まで生産を行ったいたという。
 1937年から1939年のドイツに占領されるまでの生産数は5万丁ほどであったと言われる。しかし、それでwz1935の歴史は終わったわけではない。ドイツ軍に接収されたラドム造兵廠だったが、ドイツ軍でもwz1935の優秀性は認めており、ドイツ軍でも”P35”という名称で生産が継続された。実際に刻印が”wz1935”ではなく”P35”となっていた。その数およそ30万丁に及んだ。比較的よく使用されたようで記録写真にもいくつか見受けられる。
 結局は、ドイツは連合軍に敗れ、ポーランドはソビエトの衛星国となり、兵器体系もソビエトに準じるようになった。ここにいたってwz1935の銃器としての生命は終わりをつげた。