11年式軽機関銃
種類:軽機関銃

性能:

全長        1105mm
銃身長        483mm
重量        10.75kg
使用弾薬   6.5mm×50
装弾数         30
発射速度    500発/分
初速       778m/s

 「日露戦争(1904年〜1905年)において日本軍は機関銃を持っておらず、機関銃を持っていたロシア軍に多いに苦戦した」
 とよく歴史物で書かれている。正直にいえば間違っている。日本にはホチキス式機関銃が配備されており、数の面でいえばロシア軍のマキシム式機関銃よりも多かった。

 正確に言うならば「日本軍は機関銃”の運用のノウハウ”を持っていなかった」というのが正解だろう。3脚も合わせて50kg以上あった当時の機関銃を機動戦で使うのは無理があったのは言うまでもないだろうし、しかも当時の日本軍が採用していたホチキス式機関銃の3脚はカメラの3脚のように高かった。こんなのを塹壕が掘られていない平地で使ったらどうなるかぐらいは戦争を知らない人間でもどうなるかわかるだろう。
↑11年式軽機関銃の特徴である装填器。
行軍の際は取り外して運搬できた。
あまり触れられないが、照門が凹型ではなく、円型になっているのも特徴。
実戦では円型のほうが照準をつけやすい。
 対してロシア軍は防御一辺倒だったせいもあるが、巧妙な陣地構築を行い有効に日本軍を迎え撃った。特に退避壕もコンクリートを使い頑丈にして、かつ、巧妙に掘られて、敵の砲撃の際は幾重にもくねった壕で退避しておき、たとえ砲口に命中しようが、くねらせておいてるので損害はほとんど受けなかった。敵歩兵が突撃する際は友軍砲撃を恐れて敵砲兵隊は砲撃してこないので、ここぞとばかりに機関銃を乗り出して射撃した。いくら重い機関銃とはいえ、陣地の防衛ではそんなに動かさないのでさほどの労苦はなかった。順攻略の前哨戦であった南山の戦いでは1日の戦闘にもかかわらず日本軍死傷者が約4400名も出てしまったのは機関銃のためでもある。この損害は大本営でも予想外で、電報を受け取った司令が「これは0が1つ多いのではないか?」と確認の返信を行ったくらいである。上で書いたように日本軍も機関銃は持っていたし配備もしていたが、重たい機関銃を機動戦に使ったために「機関銃は野戦では効果がない」という結論に達して、南山の戦いから先はしばらくの間、全ての数を第3軍(旅順攻略部隊)に配置し、野戦部隊には一切配備されなかった。これが「日本軍は機関銃をもっていなかった」と誤解を生じさせたのだろう。
 しかし、奉天会戦では、秋山中佐率いる騎兵部隊が10万ものロシア軍の攻撃を受けた。その前に秋山中佐は強行に機関銃の配備を主張していた。機関銃の有効さを見ぬいていたからだが、この騎兵部隊は下馬して塹壕を掘って戦闘を行い(当時は乗馬突撃戦闘が主流だった)、11丁の機関銃を有効活用し、また、配備されたての有線電話をも有効活用して、援軍到着まで持ちこたえて戦線崩壊を防いだ。

 第一次大戦が勃発すると機関銃はより有効に使われた。塹壕と有刺鉄線と機関銃が有効に活用され、特に第一次大戦初期を除いて北はドーバー海峡から南はスイス国境まで文字通りの長城が作られて膠着した戦いとなった。膠着したとはいえ別に死傷者が少なかったわけでもなく、逆に今までの戦いに比べると死傷者の数は激増した。地図上の戦線はほとんど動かなかったが実際には微妙に東西に移動していた。何キロの距離を進むためだけに膨大な死傷者を生み、また反撃に対応できず退却してまたたかだか何キロもの距離を進み・・・の繰り返しだった。イギリス軍内では前線に配備された兵士の余命は2週間とまで言われた。
 この膠着した戦いで分かったことは、突撃する兵士の支援能力があまりにも欠如していることだった。たしかに、完全防御された陣地をライフルのみで制圧するなどどう考えても不可能で、遠距離射撃ができた機関銃でも戦場移動には適さず、またその場(後方)にとどまっての射撃も支援能力には欠けた。つまりは歩兵と一緒に行動できる機関銃を前線部隊は欲した。
 各国ともにそんな機関銃を作り前線に配備した。ドイツではMG08を1人で運搬可能にしたMG08/15を、イギリスではルイス機関銃を作り上げた。両者ともそれなりの成功を収めたが、両方とも、重たくまた普遍的な欠点を抱えていた。結局はそのまま第一次大戦は終わってしまった。

 第一次大戦後の大正8年(1919年)、日本では第一次大戦の戦訓から軽量化された機関銃の必要性があると結論が出された。戦闘は中隊規模から小隊規模へと代わりつつあり、中隊支援の機関銃から小隊支援の軽機関銃の必要性があると判断した。重たいし、だいいち値段が高い今までの機関銃よりも軽く値段も安く大量に作れて配備できる機関銃を欲したのだった。軽く作る以上空冷がいい。放熱フィンを付けすぎると重たくなるから、加熱したら銃身は交換できるようにしたほうが良かった。あと、ほとんど論じられないが、今までの機関銃である3年式機関銃の備品の総重量は5.7kgあった。ちなみにこの3年式機関銃6丁で重機関銃中隊を編制するけども、その重機関銃中隊の備品(6丁分)の総重量は実に25kgにも及んだ)。軽機関銃ならばその備品も少なく軽くできた。
 設計にあたったのは日本の銃器設計技師の天才である南部麒次郎で、彼が小銃製造所長の頃に開発が行われた。いくら第一次大戦で疲弊しなかった日本とはいえ、戦後の厭戦ムードで、しかも危急に軍備増強が必要とも思えない状況で(日本陸軍の生涯の敵のロシアは革命で名前的には無くなっていた)どうして新機軸の機関銃を開発したのかは良く分からないが、このチャンス(大国はアメリカ以外は大戦で疲弊していた)を生かして世界列強の仲間入りを目指したのだろう。あと現実的な問題として、大戦後の不況の中で、製造所でストライキが発生しており、それを静めるために仕事の創作という一面もあったろう。

↑11年式軽機関銃の特徴である
右に曲がった銃床が分かる一葉。
当時は96式軽機のようにプリズム付照準眼鏡で
補正するという発想はなかった。
もしくは、高価な照準器を付けるほど
金銭的余裕がなかったのだろうか。
 名前から見て分かるように制式化は大正11年(1922年)。何月何日に採用されたかはわからないけども、同年10月の大演習で使われた形跡があるためそれまでには採用が成されていたと考えられる。余談ながら、この11年式軽機関銃の採用で3年式機関銃は3年式"重"機関銃と名前が変わった。
 部隊配備は大正12年(1923年)から逐一行われていった。大正12年中に全国の全ての大隊に1丁ずつが配備された。翌年中には各中隊に1丁ずつが配備された。これは緩やかな配備状況だったと言えるが、当時の日本は戦争をしている訳でもなかったので、ある程度数量が完成したらどこの連隊に定数支給するとかいう配備ではなく、教育用としてという意味合いもあったろうが、一番の理由は関東大震災だった。大正12年9月1日の関東大震災で小石川にあった東京砲兵工廠は全焼。ここで11年式軽機関銃を作っていたので、当然ながら生産数はゼロとなった。ちなみに、震災前には月産100丁ぐらいの生産能力があった。10月までにはなんとか工場は再開したものの、震災前までの生産能力に達したのは3年後の大正15年だった。なお、大正14年には当時陸相(陸軍大臣)であった宇垣一成(うがきかずしげ)による軍縮(俗に、宇垣軍縮と呼ばれる)から、本格的な配備がされだした。軍縮なのに本格的な配備とは矛盾した言い方だが、宇垣軍縮では4個師団削減など大胆な軍縮を行ったが、実際には陸軍費用はほとんど変わらなかった。宇垣が目指したのは軍隊の費用削減ではなく、軍隊の近代化だった。実際、飛行機学校などが創設されたし、この11年式軽機関銃もその一環だった。中隊に多くの軽機関銃を配備して中隊の戦闘力を増し、当時4個中隊で1個大隊を編制したが、火力が増えるのだから3個中隊で1個大隊を編制しても戦闘力は変わらないとされた。これは戦略単位(ようは師団)を増やすという意味合いでも非常に効果的な措置でもあった。以上余談。
 さて、11年式軽機関銃は大正15年当時の価格で950円だった。38式歩兵銃が約80円だったのを考えるとずいぶん高価であったと言える。ただ、量産が軌道に乗るとその量産効果を発揮して値段も徐々に下がっていった。昭和3年度には1丁710円、昭和7年度には650円と価格が下がってゆき、また生産できる数量も徐々に上がっていったし、満州事変以降の軍備充実で生産に拍車がかけられた。昭和15年には月産1千丁が作れるようになったという。

 昭和6年(1931年)の満州事変までに11年式軽機関銃は約5000丁が生産・配備されていた。第一線の師団にはほぼ行き渡ったと考えていい数字だと言える。だからこそ満州事変が起こすことができたのだろうか?
 この満州事変が11年式軽機関銃の初陣だった。ただ、実戦で使ってみると欠点が露呈した。下で詳しく述べるが、装填架(普通の銃の弾倉に相当する部品)が外気に対してオープンなので砂塵が舞う状況では薬莢にそれが付着する可能性があった。11年式軽機関銃はジャムを防ぐため、装填の際に油を塗る仕組みになっているが、薬莢に砂塵が付着した状態で塗油されてそのまま薬室に装填されて射撃した場合、薬莢をうまく引きぬけないことがあったし、排莢時に薬莢がうまく排出されないことがあった。
 別に中国東北(トンペイ)地方の砂塵が舞う風土で故障したのはこの11年式軽機関銃だけではなかったが、小隊支援兵器である軽機の故障は部隊の命取りとなり得た。これは大問題となり、早速日本軍兵器開発のグループは対策委員会を発足して、その故障を直すべく行動した。結論から言えば改善される事はなかった。実際、陸軍士官学校の「兵器学教程」には「戦闘射撃における故障発生率は210発に1発なり」という記載もあった(この記載は一般兵用の教程には記載がない)。

 11年式軽機関銃はその構造上、2脚での委託射撃を基本に設計されている。支援兵器であるからそれは至極当然といえるが、満州事変の戦訓で、歩兵の戦いは小隊規模の戦闘から分隊規模のへと移行すべきだという結論がでた。たしかに、散開戦術が一般的になると、小隊ずつよりも分隊毎のほうが戦術の応用が利く。当時の分隊は3人で1班編制の4班で構成されていた(あくまで定数で4人で1班の事例もあったらしい)。当時の小隊は4個分隊編制でうち2個に軽機関銃を配備していた。つまりその軽機分隊のうちの1班に11年式軽機関銃を配備していた。分隊戦闘になるとやはり1個分隊に1つの軽機関銃を持たせておいたほうがいいのは当然の理で、4班編制の分隊で小銃班3個を軽機班で援護し、時には一緒に突撃行動を行うことが望まれた。11年式軽機関銃はその形状上、左手で銃身(ないしガス筒)を持たざるを得ず、普通の状態ならまだしも、射撃後の過熱した状態でのこのような搬送はできなかった。臨時に銃身を握るための石綿パッド(外側が牛革で内側が石綿になっている)を銃身後部に取り付けて持ち運べるようにした。また、11年式軽機関銃は装填架が銃機関部左にあり、そのバランス上、銃床が右に湾曲していた。そのため重量バランスが悪く、他国の軽機と比べたら持ち運びが大変だった。
 結局は後継軽機として96式軽機関銃や99式軽機関銃が開発・配備されていくが、この11年式軽機関銃も生産が続行された。昭和17年までは生産されていた。昭和18年には生産はストップしたと考えられる。
 日中戦争、太平洋戦争ではほぼ全域で使用され、そして散っていった。戦後になって、その形状が珍しいからか、コレクターズアイテムとなり、アメリカでは高値で取引されていると言われる。


 11年式軽機関銃のは、ユニークな機構を取り入れている。それは給弾機構にあり、普通の箱型弾倉を使用するわけでもなく、またベルト給弾式でもなかった。ライフルのクリップ付き弾をそのまま使用していたのだった。当時の日本にはベルト給弾で撃てるだけの余分な弾も、また使い捨てる箱型弾倉を大量に作る余裕もあろうはずもなく、致し方ない選択だったのかもしれない。良く言えばユニークな、悪くいえば奇妙な機構であった。平たく説明すれば銃後方から見て左に弾入れがあり、そこにクリップ付きライフル弾を横にして入れる。そしてホッパーで押さえ込む。銃本体には塗油用の油入れがある。銃の真上にあるために、ここに照門をもってくることができず、照門と照星は右にオフセットされている。油入れを右にもってくれば済む問題とも思えなくはないのだが、実際には作動を快調にさせるための油を重要視したということなのだろうか。照準を右に持ってきている為に、銃床が右にズレている(写真参照)。

 11年式軽機関銃の最大射程は約2000mで当時の重機関銃だった3年式重機関銃(射程2500m)とそう大差がなかった(弾が同じなので当然ともいえるけど)。そのためか、重機関銃の代用として考えたのか、11年式軽機関銃には特別の3脚が作られた。この6.5kgの3脚は最低高さで338mm、最高の高さで1228mmの高さで射撃ができた、また、対空射撃も可能であった。ただ、重量から見てわかるように重機関銃の3脚と比較すると華奢だった。対空射撃は3脚を高くして行うが、演習時の写真を見る限りでは兵士が3脚を押さえて運用している。
 上でも書いているが、11年式軽機関銃は故障が多かった。しかし、昭和10年前後と思われるが、当時の第6師団第13連隊(熊本)の演習フィルムを見た事があるけども、その中にこの11年式軽機関銃があり実に小刻み良く30発を撃ち尽くしていた。整備さえしていれば実によく作動する軽機関銃であったといえる(もっとも良く射撃できたから記録フィルムに撮ってあったとも言えなくはないが)。ともあれ、戦場での故障は続発したといわれ、その対策も練られているが96式軽機関銃の制式化でその対策もうちきられ、逆に構造を簡素化して生産が続行された。
 太平洋戦争中の戦意高揚映画である「シンガポール総攻撃」の中で激戦中の11年式軽機関銃が突っ込み(ジャム。薬莢が銃内部で詰まること)が起こり、銃手がお守り代わりに内地から持ちこんでいた恋人のかんざしをつかって直して大勝利を得るというシーンがある。それはそれで感動モノなのかもしれないが、アメリカ映画みたいに敵の手榴弾は爆発しないで味方のは爆発するとかなら話は分かるけども何故に戦意高揚映画に味方兵器の故障を再現しているのかは良く分からない。ある意味「日本の機関銃はよく故障する」というのは日本人にとっては常識だったのだろうか?。

 11年式軽機関銃の特徴として、銃を構えると銃左に弾倉があるので、どうしても銃が左に傾く。射撃時には反動が加わるので特にその傾向が強かった。そのため薙射(ちしゃ)の時には注意が必要だった(薙射=銃口を右や左にズラしながら射撃する事。横隊の敵に対して有効)。
 射撃時に握るグリップと銃床が特殊なのも特徴的で、ライフルのように機関部の後ろにグリップがあるのではなく、一応はピストルグリップのようになっているが、上の写真を見れば分かるようにグリップ角度が急でFG42を連想させる。しかし、銃床がグリップと繋がっている。グリップと銃床の真ん中あたりに反動の応力がくるので、ここが射撃でぼっきりいきそうな気もするが、6.5mm弾で反動も少なかったのでそれでも良かったのだろうか?。また、銃床前が左手で楽に固定でき射撃姿勢も低くできたために射手の評判は良く、撃ちやすさは96式・99式の比ではなかったと回顧する古参兵もいた。

 11年式軽機関銃の属品は以下のものがあった。

・銃口蓋(じゅうこうがい)・・・ちなみにキャップ式ではなく、筒状のものに開閉可能な蓋がついたやつで、鋼鉄製なので緊急の際は蓋を開ければ付けたままでも撃てた。

・握革・・・いわゆるアスベストパッドで加熱した銃身を握るためのもの。内側にアスベスト(石綿)に金属網をかぶせたもので、外側は牛革が張られていた。ドイツのMG34のアスベストパッドと比較した場合、かなり大きめに作られているし牛革なのでかなり使いやすかったと想像される。

・負革・・・いわゆるスリング。軽機を肩にかけるひも。

・銃覆・・・銃全体を覆うカバー。麻布製

・装填架嚢(そうてんかのう)・・・装填架(弾倉に相当する部品)を分離していれておく袋。牛革製。行軍時は砂塵が進入しないようにという理由と、騎兵部隊では11年式軽機関銃は駄載(馬の背に乗せる事)するが、その際に馬の左側面に上下を逆にして搭載したので装填架がついたままだと馬の背に干渉するために外していた理由もあった。

・手入具・・・詳細は不明。写真を見る限りでは、さく杖(3分割ぐらいにされている)・小型ハンマー・油缶・ブラシ・ピン抜きみたいなやつ(恐らくジャムった時に薬莢を抜き取るためのやつ)などがある。手入具入れは鉄製だが、麻布製の袋に入れて携帯していた

・予備銃身・・・1本

・弾薬箱・・・歩兵用と騎兵用の2種類があった。
 歩兵用は弾薬盒(だんやくごう)と弾薬匣(だんやくこう)の2種類があった(盒はポーチ、匣は箱という意味)。弾薬盒は銃手や弾薬手のベルトにつけるもので通常は1つ付けていた。大きさ的には38式歩兵銃用の後弾盒とだいたい同じ大きさで麻布製で弾は60発入った。また、弾薬匣は鉄製でちょうど小型の工具ボックスのような形状で120発入った。
 騎兵用の弾薬箱は大型で360発収納できた。馬一頭で4箱駄載できたとされる。

 ちなみに、正規の工具のほかにも針がねや細長い固い棒など、銃手はジャムった時用に、正規の備品ではない私物工具をいくつか携帯していた。それだけ故障が多かったとも言える。