38式機関銃
写真ないっす(;_;)
種類:重機関銃

性能:

全長        1448mm
銃身長        760mm
重量         28.0kg
        (本体のみ)
使用弾薬   6.5mm×50
装弾数        30
発射速度    500発/分
初速       765m/s
 最初に断っておくが、日本では明治40年6月まで機関銃の事を「機関砲」と公式には呼んでいた。ただ、ここでは、大口径機関砲とややこしいので全て「機関銃」という呼び方で統一したい。

 日本の機関銃の歴史といえば、幕末に手動式のガトリング銃を購入した事に始まる。3丁が輸入されたがうち2丁は長岡藩が購入し、戊辰戦争で官軍相手に奮戦した。しかし官軍を混乱に陥れたもののあまり役には立たなかったといわれている。理由は兵士1人を倒すのにかかる銃弾がやたらと多くなる事で、ようはワリが合わないのである。だいいち、この当時でも歩兵全員が銃を持っていたわけではないしこのガトリング銃は口径が1インチ(25.4mm)もあったので、弾だけでも調達するのにやたらと金と手間と資材がかかるのであった。当時は近代的な溶鉱炉は長岡藩にはなく、第一火薬の調達もままならなかった。火薬(黒色火薬)の75%を占める硝石は日本では産出しなかったからである。戦史的にみれば、この機関銃の使用はフライングだったと言えなくはない。
 ガトリング式機関銃はその後も日本陸軍では買い足されていったが、重たいしだいいち手動回転なので照準が狂ってしまった。今にいたるまで万年弾不足な日本では弾を浪費する無駄な兵器と思われていたと想像できる。19世紀末にはマキシム式機関銃が完成。同時に世界各国に売られることになった。日本でも明治20年に輸入され、後には無断コピー生産された。
 マキシム機関銃はショートリコイル閉鎖方式を採用していた。ショートリコイル閉鎖方式は微妙な調整が必要で、この閉鎖方式の機関銃の備品には必ず調整ゲージがあった。銃身交換の際にヘッドスペース(遊底面と薬室肩部の間隔)の微妙な調整が必要で、この調整を怠ると上手く作動しなかった。そのせいで、この当時の最高の加工精度が要求された。当時の日本は軍艦とか大砲は大枚たはいていいものを買っていたが、工作機械に関しては全くといっていいほど関心がなく、外国でガタがきたのを安価で買っていた。工作機械での精度が甘いといいものが作れないのは当然の理で、しかも機関銃製造のノウハウがない日本の工業力ではまともなマキシム機関銃が作ることができなかった。
 製造されたマキシム機関銃は近衛師団に配備されたとされる。ちなみに日清戦争の時期には日本陸軍には総数で200丁ほどが配備されていたとされる。200丁というのは要塞用から野戦用までひっくるめた数字だが、日清戦争では使われなかったという。資料によっては「使われた」とも書かれているが実際には良く分からない。ただ言えるのは使われたとされる資料でも「活躍した」という記載は一切ないし、受領した側でも故障が多いとして不評だった。

 次に日本が目をつけたのはフランスのホチキス社の機関銃だった。ホチキス機関銃はガス圧による作動方式で、これは次弾装填にガス圧を使うもので、反動利用式のように微妙な調整を必要としなかったために、日本の工業力でも作れると判断されたのだろうか?。
 明治31年(1898年)にはフランスから2丁が輸入され日本陸軍で試験された。結果は良好で、そのまま無断コピーという手もあったが、マキシム機関銃の失敗に懲りたのか、今回だけはフランスのホチキス社とライセンス契約を結んだ。ライセンス契約を結ぶと図面一式が手に入るし、組み立て方の手順書や検査方法も一式入手できた。なにより、作ってて分からないことがあればホチキス社に堂々と聞けたし、日本から技術者を派遣したりもできた。特に組み立て方や検査方法などは書面で分かりづらい一面もあり、大正・昭和になって恥もなく無断コピーしてもいいものが作れなかった日本だが、単純に図面がなかっただけではなく、こうしたものも入手できなかったからだろう。日本では「保式機関砲」と呼ばれていた。ただし以下では「ホチキス機関銃」と呼ぶことにする。
 さて、ホチキス機関銃は日露戦争で当然ながら使われた。機関銃の数でいえばロシア軍(当時の帝政ロシア軍)よりも配備数が多かった日本軍だが、当時は野戦での機関銃の運用方法は手探りな部分が多く両軍ともその運用には苦慮していた。ただ、3脚を入れれば50kg以上もある当時の機関銃だったから、攻勢で機動運用して使うよりは防御で陣地に固定運用したほうがはるかに効率がいいというのは素人でも分かる話で、ロシア軍のマキシム機関銃は大いに活躍し、日本軍は大いに苦戦した。
 日露戦争最初の激戦である南山の戦闘で日本軍は実に約4500人の死傷者を出した。当初「死傷者3000人」と大本営に打電され「零が1つ多いのではないか?」という確認の返信があったともいわれるぐらいに予想外の損害を被った日本は野戦での機関銃運用を諦めて配備している全ての機関銃を、旅順攻略部隊である第3軍に配備し、他の野戦軍には機関銃が一切配備されなかった。

 しかし、野戦での機関銃の運用はやはり必要不可欠だった。当時の戦いは、まず野砲が戦いの火蓋を切りそして銃撃して隙をついて突撃するものだった。当時の野砲は榴散弾が主流で、榴散弾というのは簡単にいえば砲弾にショットガンを内臓して敵目標直前で発射するようなものだった。しかも当時の時限信管は火道式で後の機械信管と比べると遥かに精度が劣った。しかも敵との距離を見誤ると地面にもぐってから爆発してしまうし、兵員が散開してしまうと威力を発揮できなかった。そのために榴散弾の砲撃には涼しい顔をしていた古兵もいたという。しかし、機関銃の射撃は受けた場合は伏せるしかなかったため、その威力は実際面よりも心理的な面で大きかった。日本軍とロシア軍では使用弾薬が違うために機関銃が射撃した場合、音でどちらが撃っているかはすぐに前線の兵士は理解できた。敵が機関銃を撃っているのにこちらの射撃音が聞こえないと露骨に士気が低下したと言われる。そのために「照準なんてどうでもいいからとにかく撃ってくれ!」と機関銃部隊に請願した前線指揮官もいたという。
 重たすぎる機関銃は機動性に劣るということで、馬車の荷車に機関銃を載せたものも作られた。普通に考えてそういう目立つものが最前線で役に立たないのはわかりそうなものだが、日本・ロシア両軍で作られて戦場で使用された。言うまでもなく役に立たず両軍とも緒戦以降は使わなかった。

 さて、日露戦争中、銃器類の生産を担当したのは東京砲兵工廠だった。当時の日本では東京砲兵工廠と大阪砲兵工廠の2大造兵廠があり、東京では銃器類、大阪では大砲類の生産を担当していた。大砲の生産は大変だというのは簡単に想像がつくだろうが(重たいので)、銃器類は本体(ライフルなどの銃器の完成品)自体が軽いせいもあったし、弾薬も大砲の弾のように手作業での製作ではなく、当時からしてオートメーション設備があったので量産にも支障がなかった。日露戦争中、大砲の、特に榴弾の不足は深刻で鋼鉄製の砲弾の生産が追いつかず、鋳造で大砲の弾を作らせても需要に追いつかなかったのに、ライフル弾不足に直面しなかったのはここに理由があった。そのために、東京砲兵工廠では戦争中でも余力があり、戦場で直面した銃器類の欠点などを改良することができた。
 クローズアップされるのはライフルで、日露戦争中の主力ライフルは30年式歩兵銃だったが、これを日露戦争中に改良を施し完成したのがあの傑作ライフルの38式歩兵銃だった。ホチキス機関銃も改良が行われて明治38年(1905年)に38年式機関銃として制式採用となった。

 外見的に変更されたのは付属の3脚で、日露戦争の教訓から背の高い3脚から背の低い3脚になった。外見上で違うのはこのぐらいで、あとは外見上からの識別は難しい。細かい点を言えば、ホチキス機関銃を分解する際に、引き金(トリガー)と用心鉄(トリガーガード)を別々に分離する必要があったが、38式機関銃ではトリガーブロックが一体化したものに変わっている。今の機関銃では当たり前となっているが、当時としては画期的だったといえる。あとは、強度的に強くしたとか外見上でもバラしても区別がつかない細部の改良にとどまった。
 後に油槽が設けられた改正型が登場した。油槽とは名前のように油を入れておく部品で、これがブラシに繋がっていて、このブラシが薬室に装填する弾薬に油を塗るものだった。実際、この時期の機関銃は薬莢の材質の問題もあったろうが、射撃の際に薬莢が過剰に膨張して薬室から薬莢が抜けないという自体もおこった。それだけなら、銃口から棒で突っつけば取れるので問題はないが、最悪の場合は吹き割れという薬莢は途中でちぎれてしまって薬莢の後ろ半分が排出されて前半分が薬室に残るという事態も起こった。こうなるとバラして専用の工具で抜き取るしかなく、また当時の機関銃の薬室までは簡単にバラせるものでもなく、戦場でこういう事が起こると大問題となるのは言うまでもない。それを防ぐために油を塗って抜き取りやすくするものだが、これは92式重機関銃まで世襲された。
 上でも書いているようにホチキス機関銃と38年式機関銃はそう差がない。30発保弾板式というのは同じだし、作動機構もガス圧による作動式でガス圧でピストンを動かし排莢を行い次弾を装填するし、同じピストンで歯車を動かして保弾板を右に銃弾1発分動かしていた。
 38年式機関銃の欠点は、閂子(機関部の部品で、銃弾を薬室で固定するウェッジのようなもの)が壊れやすく、また壊れてしまうと交換するのにすごく時間がかかった。また、当時の保弾板はレーザー加工機のような精密機械で作られていたわけでもないので、製品によってはまっすぐに装填できていないものもあった。その保弾板を使用した場合、当然ながらまっすぐ薬室に押しこまれないのでその際に不良が起こりやすかった。

 38年式機関銃は輸出も検討された。しかし上で書いたようにホチキス社と正式にライセンス契約を結んでおり、その契約条項に「輸出していい」とは盛り込まれておらず、輸出しようとしたらホチキス社から文句がきた。そのために輸出ができずに、日本独自開発ともいえる3年式機関銃が作られるきっかけとなった。
 この38年式機関銃自体は特筆すべき点はない。ただ日本機関銃の先駆けといえる製品で構造自体は後々まで影響を与えていったといっていいだろう。