3年式機関銃
種類:重機関銃

性能:

全長       1220mm
銃身長       737mm
重量        25.6kg
使用弾薬   6.5mm×50
装弾数        30
発射速度   500発/分
初速      736m/s

 三年式機関銃が制式名だが、大正11年(1922年)の11年式軽機関銃の制定後、区別のために”三年式重機関銃”と名前が変わっている。ここでは”3年式機関銃”で名称を統一したので注意してほしい。

 日露戦争の天王山といえる奉天会戦は日本軍の勝利に終わった。両軍共に25万人以上が激突する文字通りの大決戦で、一箇所にここまで人間が集結した事は、後のクルスク決戦(ドイツ軍90万人、ソビエト軍130万人)までは起こり得なかった。兵員数では劣っていた日本であったが、ライフル性能と機関銃の有効利用で辛うじて勝利を得た。機関銃の有効性を熟知した日本軍は師団機関砲隊(明治40年あたりまで日本では機関銃を機関砲と呼んでいた)を編成したが、日露戦争が終わったために復員が始まり教育が行われないまま解体された。

 当時の機関銃は野戦分解も厄介で、相当な教育を必要とした。また、射撃に関してもコツが必要で、数多く撃たせて慣れさせる必要もあった。他国の例だが、イギリスのビッカース機関銃の取扱説明書では射撃だけで11ページを割いて説明している。無論紙の上の論議で実際の射撃など分かるはずもなく、11ページ以上の実射を必要としたのは言うまでもないだろう。

 後に3年式機関銃として制式化される機関銃の開発は明治42年(1909年)頃からだとされる。開発したのは無論、日本銃器界の秀才技師だった南部麒次郎だった。次期制式を狙った機関銃の開発理由は、上で書いた「操作がややこしい」という理由の他に、放熱不備や、機関部が壊れやすかったという欠点の是正と、38年式機関銃がフランスのホチキス社のライセンス契約違反だとして輸出ができなかったという理由もあったろう。
 最後の理由には説明がいるだろう。当時は日本の輸出産業といえば絹糸などの軽工業品が主流で、機械類などはほとんどが輸出がなされていなかった。明治維新から日本の重工業はスタートしたから諸外国に比べても発展途上だったからだが、ともあれ当時の日本に堂々と輸出できる製品はなかった。唯一の例外とも言えたのがライフルなどの兵器類だった。特に38年歩兵銃などは性能は諸外国に比べても遜色がなく、世界各国に輸出されていた。38年式機関銃も同じように輸出しようとしたが、上で書いたようにホチキス社から文句が出て結局は輸出ができなかった。
 軍需産業は民間企業と比べると特異なのは言うまでもない。たとえば、なにがしの兵器をいつまでに納品しろと言われたらそれは絶対だった。ただ、工廠で「その数量・納期ならば、職工が何人いりますし、この工作機械も必要です。」といえばその予算は陸軍省が言い値とはいわずとも出してくれた。とにかく下に文句を言わせないようには配慮していた。
 問題は作ってしまった後だった。民間企業ならば、市場を見て生産量の調整をするが、軍需産業では市場は軍であり、必要数を必要な時期までに収めてしまったらあとは仕事がなくなった。戦時ならば、とにかく増産につぐ増産を重ねるが、平和な時期の兵器類はそうそう壊れるものでもないし使用する銃弾・砲弾だってたかが知れていた。そのために、生産が軌道に乗っている時期に受注が止まってしまうという事態が起こった。受注が止まると仕事がなくなる。当然金も陸軍省からは出ない。そうなると職工に高額の給料が払えなくなってしまう。この当時は終身雇用のしの字もなかったし、労働組合の力も弱いもので賃下げなどは平気で行われていた。生活のために自分の技術を高額で雇ってくれる会社を探して工廠を辞めてしまうということは珍しいことではなかった。無論、仕事(兵器生産)ができればまた再開となるのだが、辞めた人の再雇用は難しいものでもあったし(企業が有能な職工を手放そうとはしなかったから)、新しい人を雇えばいいという問題でもなかった。言うまでもなく熟練工は一朝一夕でできるものではないから新入りにはみっちりと製作のイロハから教える必要があったし、それを教えたからといって即座に熟練工となれるわけでもなかったのは言うまでもないだろう。特に微妙な寸法誤差などは経験を積んでいかないと分かるはずもなかった。
 だからこそそういった匠といえる熟練した職工を確保するのは工廠では必要不可欠だった。ではどうすればいいか?。1つの答えが兵器の輸出だった。兵器は軍以外に需要はなかったし、無論民間には売ることなどできなかったし、売ったところで買い手などいなかったろう。外国の軍隊に売ってしまえばいい道理になる。当時は機関銃は作れる国が限られており、需要はいくらでもあった。マキシム機関銃が世界のスタンダートになったようにいいもの作って売れれば市場はいくらでも見込めた。また、ほとんど論じられない利点が日本にはあった。今の物価高・賃金高の日本では信じられないだろうが、当時の日本の労働者賃金は世界と比べた場合、驚くべくほど安かった。そのため戦前はダンピングをしているとして世界から非難されたこともある。つまりは兵器の単価も安く押さえられたということで、価格面では充分世界市場を狙うこともできた。
 結論からいうならば、あまり売れなかった。大戦期ならば、交戦国ならば生産してもしても需要に追いつかないのは目に見えていたのにもかかわらず売れなかった。38式歩兵銃は売れたというのにもかかららずである。理由はよくわからないが、使用弾薬が異なるし、日本側も相手側弾薬を使えるように改修をしなかったからだろう。ちなみに、第一次大戦後に余剰となった機関銃が世界各国に安価でばら撒かれたのは想像に固くはなく、こうなると価格面での太刀打ちなど出来るはずもなかった。
 一番の理由としては日本が満州事変からの間髪を入れた戦い、また日中戦争以降の本格的な戦闘で輸出できる余力がなくなったからだろう。

 名前のように制式採用されたのは大正3年(1914年)だった。ただ、完成したのはまだ前だったらしい。この年の採用となったのは恐らく第一次大戦が始まったからだろう。当時の日本は日英同盟を結んでいた関係上、ドイツの青島(チンタオ)基地攻撃をする必要があったからかもしれない。ただし、青島攻撃には投入されなかった。
 初陣はシベリア出兵時だった。言うまでもなくシベリアの冬は寒いが、そんな寒冷地においても確実に作動する3年式機関銃はたいそう評判が良かった。
 このシベリア出兵を皮切りに満州事変やそれに伴う討伐戦、それから諸外国をそらすための上海事変や、日中戦争期にも活躍している。特に日中戦争においても評判は良かった。使っている兵士からは
「ちゃんと手入れして丁寧に取り扱えば、1日に何百発撃っても故障しない」
と歓迎された。開発者である南部自身も
「38年式機関銃は射手の技量で性能が左右したが、3年式機関銃は誰が撃っても性能は変わらない」
と豪語した。事実そうであったと言える。ちなみに、南部麒次郎(開発当時の階級は少将)はこの3年式機関銃の開発の功績が認められ、勲二等瑞宝章を授与されて工学博士の学位も習得した。

 ただ、人間相手を標的にしているのならこれでも良かったが、第一次大戦で出現した航空機及び戦車がその安住を許さなかった。戦車とはいわずもと、装甲車両相手だと口径がデカい方がいいに決まっているし、航空機相手でもしかりだった。致命的だったのは、3年式機関銃弾に曳光弾がなかったことで、対空射撃をやってもどこに弾が飛んでいるかが見えないので修正射撃ができなかった。昭和2年(1927年)に陸軍が作成した3年式機関銃用の対空射撃マニュアルを見ると、高度1000m以下で速度200km/h以下なら有効であるとされた。早い話が第一次大戦期の航空機の作戦高度・速度でなら迎撃できるわけだが、当時の航空機性能の向上はめざましく、300km/hオーバーな航空機は即座に登場した。日中戦争ではアメリカ・ソビエト製航空機を装備した中国軍機には全く無力だというのは実戦の洗礼を受けて即座に分かることになった。
 あとの理由としては、11年式軽機関銃の登場で、軽機と重機の差がなくなったためなのと、重機関銃の本命は後方からの支援射撃で、普通に考えて口径の大きい方が射程が長いというのは当然の道理だった。

 昭和7年(1932年)に92式重機関銃が制式化、2年後から本格的な量産に入った。3年式機関銃も昭和8年(1933年)から生産はされなくなったが、新兵器である92式重機関銃が瞬時に全部隊に行き渡らなかったため、結構長らく使われていた。さすがに昭和15年(1940年)になると後方兵器廠でも修理をしなくてもいいという通達がだされ、ここから3年式機関銃は消えていく運命にあった。


 母体となった38年式機関銃と比較した場合、次の点が改良された。

・壊れやすかった閉鎖器を肉厚にして壊れにくくして、万一壊れても簡単に交換できるようにした
・保弾板の送りが歯車式だったのを水平往復運動式にした
・当時の保弾板は加工精度が甘いので、弾を装填しても真っ直ぐに前を向いていないのもあり、そのまま装填したら装填不良を起こすことがあったが、それがないようにした
・塗油装置の油入れの容量を増して銃弾だけでなく機関部にも油が塗油されるようにした
・撃発不良を防ぐためにボルトの後退力が不足の時はボルトが前進しないようにした。
 (こういう場合はコッキングハンドルを引いてボルトを後退させればいい)
・放熱フィンを多くした
・銃身を簡単に交換できるようにした(ちなみに38式機関銃では放熱フィンと銃身が分離できなかった)

 細かな点は多くあるが、大雑把にいえばこういう変更が主だった。
3年式機関銃は38式歩兵銃と同じ弾薬を用いる。ただし保弾板に装着して銃本体に装填する。この保弾板は黄銅製で1枚板から恐らくプレス加工で打ちぬかれたつめをもって銃弾を保持する。1発1発弾を詰め込むわけだが、結構退屈な作業で装填する兵士も退屈ではなかったのかと思える。保弾板は30発装填だが、継ぎ足しができる。そのために、間髪なく射撃ができた。ちなみに保弾板は継ぎ足さないで撃ち尽すと保弾板自体も右にすっとんでいく。この保弾板は使い捨てではなく、何度でも使えたし使わないといけなかった。ただし、1度使うと銃弾を保持する爪が多少変形して確実に保持できなくなるために、この爪用の修正器があり、それで修正して再装填していた。20回ぐらいは支障なく使えたという。
 この保弾板はそのままで弾薬箱に入っていたわけではなく、専用の紙箱(紙くずが付かないように内側に特殊な紙が貼りつけられている)に保管していた。無論、この紙箱も使い捨てではなく何度も使用していたし使用しないといけなかった。
 保弾板はさらに専用の弾薬箱があった。歩兵用の甲型と騎兵用の乙型で、甲型は保弾板が18枚(540発)入り乙型は25枚(750発)入れられた。銃弾を満載した弾薬箱の重量は甲型が19kgで乙型が25kgになった。甲型乙型ともに原則として駄載(馬の背中に載せること)搬送とされた。当時の馬の駄載重量は100kg前後とされたし、また、積載具の形状の関係で、甲型は4箱、乙型は2箱積載が定数だった。ただ、あくまでも定数で、特に歩兵連隊には老馬が回ってくることが多かったので、甲型でも2箱の積載が限界だったという。行軍の際は馬で運び、最前線では兵士が背中に背負って持ち運ぶことが多かった。この時、この弾薬を運ぶ兵士の背嚢(自分の所帯道具一式が入っている)は馬に乗せることになる。
 3年式機関銃の照準はライフルと同じタンジェント方式の照準器がついていた。300mから2200mまで100m刻みで照準があったが、実際には2000mあたりが実用上の限界だったと言われている。ただ、2000mの距離といっても、普通に考えて相当な距離であり、たとえば1人の人間を狙うとした場合、その距離だと照星よりも小さくしか見えない。まぁ、点を狙う兵器でもないのでそれでもよかったのだろうか。専用の照準眼鏡を持たなかったため遠距離射撃には苦労したと考えられるが、臨時に迫撃砲用の像限儀で照準をして射程を延ばしたという。それでも2500mあたりが限度とされた。
 3年式機関銃の銃弾は38式歩兵銃と同じであり威力は当然ながら同じだった。当時の日本陸軍では25mm厚の松板を貫通させられる威力が兵士の戦闘力を奪う最低限の威力とされた。3年式機関銃でいろいろいろな距離で射撃したところ、2500mまでは25mm松板を貫通し、3000mでは貫通直前で停弾した。実質的に有効射程は2500mちょっとであり、上で書いた2500mが限度というのも理にかなっていたと言える。

 3年式機関銃の命中精度はかなりよかった。日本陸軍の射撃実験では公算躱避(こうさんたひ)の値でいえば
(公算躱避=数多く射撃して、その命中個所の半分が着弾した半径。通常はこの値の8倍の円内に全弾が命中することになる。ちなみに直径を半数必中界という)
300mで水平方向115mm、垂直方向138mmで、1000mの距離では水平方向509mm、垂直方向620mmだった。普通に考えた場合、1000m先の立っている兵士に射撃した場合、5発撃てば1発は当たる計算になる。この射撃精度は38式歩兵銃よりもよく、文字通りの狙撃ができたと言える。しかも、重機関銃はガッチリ固定された3脚の上で射撃するために歩兵用ライフルのようにグラつきがないために戦場に出ても訓練時とほぼ同じ射撃精度が期待できたという。

 3年式機関銃の備品は銃単体用と1個機関銃中隊用(機関銃6丁用)の2種類があった。
 銃単体の備品は銃カバー、分解工具、予備部品、洗浄棒などがあった。また、当時の写真を見る限りでは1銃に1本の予備銃身があったらしい。
 機関銃中隊用の備品は、保弾板修正器・工具セット(万能はさみ・万力・砥石など)・携帯測遠機・予備部品(撃針・バネ・エキストラクター・など)・予備銃身3本などがあった。また、他にも脂肪缶と油缶があり、脂肪缶はワセリン650g×4、複合脂650g×2で、油缶は常用鉱油(機械油)700g×8、内容物不明の油缶700g×2があった。油類がやたらと多いが、確実に作動させるには油が必要不可欠だったという理由だろう。機関銃中隊用備品は甲と乙の2種類あり、前者は歩兵用、後者は騎兵用だった。ちなみに予備銃身は騎兵用にはなかった。理由はわからないが、騎兵には馬が多く充当されたので各銃ごとに予備銃身を多く所有していたのだろうか?。ちなみに、この中隊用備品は結構な重さ(25kg)なので2つに分けられていた。駄載が原則だが、場合によっては兵士の背中に背負うことになった。ただ、弾薬箱と違って取っ手がついているために、人力搬送の場合は、背嚢を背負ったまま、2人で運んだと考えられれる。