92式重機関銃
種類:重機関銃

性能:

全長        1156mm
銃身長        721mm
重量         27.6kg
(本体のみ)
使用弾薬   7.7mm×58R
装弾数         30
(保弾板式)
発射速度    450発/分
初速        731m/s

 この項目(機関銃)で、何度も書いているが、第一次大戦の地上戦における完成された大砲と機関銃の活躍は目覚しいものがあった。第一次大戦の新兵器といえる戦車は当時は機動戦力としてでなく、大砲や機関銃のキャリアーとして、また安全に突進できるように装甲を施したものだと言ってもいい。実際、当時の戦車は歩くよりも若干早い程度でしかなかった。
 戦車に搭載される分ならともかく、生身の人間が持っていくには重さの限度はある。つまりは軽量化された機関銃が歩兵戦闘では必須という結論が出た。突撃戦闘においてはやはり火力の劣勢はいかんともしがたったし、機関銃の火力は想像以上に大きかった。やはり、あっちが機関銃を撃ってきてこっちは単発のボルトアクションだけだと普通に攻撃する気持ちにはなれないだろう。第一次大戦中には急造の軽機関銃が作られて第一次大戦後には各国で本格的に軽機関銃が作られたし、一部では汎用機関銃という軽機関銃にも重機関銃にもなる機関銃が作られ配備されていった。だからといって、重機関銃が不要になったかといえばそうではなく、制圧射撃といって2km以上離れた先から機関銃を撃つ戦術は今も昔も使われる。2kmといえば人間など見えはしない距離だが、戦闘は多くの人間が集まってやるものだから、その一団を狙うものだった。野砲と軽機関銃の射程の間を射撃するには重機関銃は必須だったといえる。今は5.56mmクラスの小口径ライフル弾が主流になったが、さすがにその口径だと2km先には届くには届くが、もはや殺傷力などない威力にまで落ちることになる。MG34やMG42に代表される汎用機関銃が世界スタンダートになりかけたのに、また重機関銃と分隊支援火器と名前を変えた軽機関銃に分化していったのもそういう理由だった。

 日本では第一次大戦頃のライフル弾は6.5mm×50弾で、重機関銃も同じ口径だった。日本陸軍の試験では2km先の目標でも十分殺傷能力があると判定されたが、やはり世界の趨勢は7.7mmクラスであった。普通に考えても初速が同じぐらいならば、重量のある口径の大きい弾のほうが遠くに飛ばせるのは当然の理だった。また、航空機機関銃は6.5mmクラスでは不十分だった。威力の面もあるが、当時の技術では6.5mmクラスの弾では曳光弾が作れなかった。普通の弾なら、たとえば地上目標なら着弾点から弾道はわかるが、航空機が目標だと何もない空中に撃つために弾がどこに飛んでいるかがわからなかった。現実的な問題としては、11年式軽機関銃の採用で、射程と威力がほぼ同じなのに重量がやたらと重たい3年式機関銃をもっと威力ある重機関銃にしたいという事もあったろう。
 日本では89式旋回機関銃の開発で、日本の7.7mm銃弾(7.7mm×58R)が完成したことによって、7.7mm弾使用の重機関銃の道が開けたといっていいだろう。3年式重機関銃をこの7.7mm弾に合わせて作ったのが92式重機関銃だった。

 92式という名前は皇紀の2592年(昭和7年)採用だから末尾の2ケタの数字でとっている。これは、大正が15年で終わったために、また1から番号を振ると新しい兵器のほうが番号が若いという事態になるためにその混同防止のために皇紀をあえて採用した。

 初陣は日中戦争と考えられる。それ以降は太平洋戦争終戦まで活躍した。92式重機関銃は発射速度が遅かったが、照準が光学照準機(スコープ)を採用していたために、遠距離での命中精度がかなり高かった。実際、日本軍と対峙したアメリカ海兵隊でさえ、92式重機関銃が射撃してくると急いで身を隠したという話が伝わっている。命中率のデータが調べられなかったが、だいたい3年式機関銃と同程度と考えられる。つまりは2km離れてても立っている人間相手には10発撃てば1発は当たるという計算になる。日本陸軍の試験では92式重機関銃と99式小銃の命中精度はそう大差がなかったという。これは、良好な天候(晴れてて無風)な試験結果であり、実戦では99式小銃の命中精度は格段に降下した。理由は、戦闘というのは「雨と強風のために中止します」と言う事など無かったし、だいいち天候が悪いほうが襲撃には絶好だったろう。また、これが決定的な理由だが、訓練射撃の的は撃ち返してくることは絶対にないが、戦闘になったら当然敵は撃ち返してくる。ライフル弾もあれば砲弾もあるだろう。そんな死の恐怖の中の射撃は普通に考えても期待できないのは分かるだろう。それに対して92式重機関銃は後方からの射撃が主であったためにその恐怖心も少なかったと想像されるし「こっちは連射できる鉄砲を持っているんだ!どんとこい!」みたいな安心感もあったろう。無論、後方からの射撃が主といっても銃弾・砲弾は飛んでくるし、むしろ機関銃は脅威目標なので見つけたら最優先で攻撃をされたろう。ただ92式重機関銃はガッチリ固定された3脚からの射撃なので兵士の動揺で照準がブレることがなく、訓練時と戦時の命中率はあまり変わらなかった。

 92式重機関銃の制式後、使用弾薬が微妙に異なる99式小銃の採用があったために、この99式小銃弾を使用した重機関銃の開発も進められた。昭和16年には1式重機関銃として制式化されたが、既に太平洋戦争が始まっており量産どころではなかったろうし、これが決定的な理由でもあろうが、92式重機関銃の評判が良かったから、あえて新兵器を導入するまでもなかったからだろう。
 銃弾の生産量が列強諸国(アメリカ・イギリス・ドイツ・ソビエト)に遠く及ばなかったのにもかかわらず、日中戦争(昭和13年)から太平洋戦争終戦(昭和20年)まで戦いぬけたのは、この92式重機関銃の命中精度の良さと発射速度の遅さで文字通り無駄弾を撃たせなかった理由があったといえるだろう。
 92式重機関銃は終戦後の自衛隊発足の際に制式採用すべきだという意見もあったと言われる。ただ、これからの戦いはドッシリと重い重機関銃が活躍する時代ではないと判断されたのだろうか、結局採用されることはなく、日本の銃器史の中に消えていった。が、それほど性能が良かった機関銃であったと言えるだろう。
 ちなみに、最後に使われたのが確認できるのが1960年代中頃に、当時イギリス領だった香港に中国本土から92式重機関銃の弾が飛んできた事件だった。92式重機関銃は太平洋戦争終結と共に日本軍が遺棄したものを中国国民党軍と中国共産党軍が使ってるたために所有してても当然とも言えるのだが、なんとも物持ちがいい国だとも思える。しかし、製造から20年以上たってもちゃんと作動したということはやはり完成度が高い機関銃であったといえるだろう。戦前の日本が唯一誇れた工業製品であった兵器の輝かしい一面だったと信じている。

 
 92式重機関銃は3年式機関銃とほぼ同じ形状をしている。3年式重機関銃が優秀だったという事でもあろう。しかし細部にはいろいろと変更がなされている。コストダウンを意識して内部に少し変更が加えられたとされるが、具体的にどこをどうしたというのは分からない。また3脚も多少改良されているといわれる。ただ双方の3脚を見ても同一にしか見えないために、これも具体的にどこをどうしたというのは分からない。
 弾に油を塗る装置や給弾機構は同一だが、発射は、引きがねを「引く」のではなく「押す」動作で発射するようにしていた。手袋をしていても楽に射撃ができるようにとの措置だった。これは寒い満州地方(中国東北地方)でも確実に撃てた。日露戦争あたりでも引く方式の改善要求は相次いでいたが、ここにきてようやく受け入れられたのだろう。
 またグリップも”ハ”の形をしており、なおかつ重本体よりも下にあった。これは塹壕で、身体を出さずに射撃が可能なようにとの配慮であった。と言われるが、実際には照準眼鏡(スコープ)をつける関係上、こうしないと照準眼鏡が高い位置に来てしまって頭を暴露しやすいからだろうと考えられる。
 92式重機関銃は照準眼鏡での射撃を前提としている。92式重機関銃用の照準眼鏡は何種類かあるが、一番使われたと思われる96式照準眼鏡は倍率4倍だった。正直いって2km先の目標にはこれでは倍率が低いかなと思えるが、さすがの92式重機関銃も2km離れると散布界が15mほどにもなるので1人の兵士を狙うことはなかったろうからそれでも良かったのだろうか。

 給弾はベルト式ではなく保弾板式と呼ばれる金属の板に弾がずらりと並べてある方式で、これはホチキス式機関銃である38式機関銃からの仕組みで、悪くいえば骨董品的な給弾方法であったといえる。横にでっぱるので不恰好な上に、ベルト式のように多くの弾を付けられない。また弾が露出しているため砂や埃から保護できないという欠点もあった。まぁ、弾倉式に比べれば使用材質は少なくてすむし、ベルト式のようにベルトが踊り給弾停止の確率もぐっと少ないだろうから、それなりの意義はあったのだろう。他国でもイタリアのブレダ機関銃も同じ仕組みだった。ブレダ機関銃の場合は射撃後、薬莢をまた保弾板に戻すというオマケもあったものの、あまり意味がなく、日本の重機関銃では薬莢は横にすっ飛んでいく。薬莢は発射の圧力で広がるから再使用はできないからである。保弾板自体、かなり精巧なデキで、NC(数値制御)工作機械もレーザー加工機もなかった時代によくこんなのを大量に作れたもんだなぁと関心してしまう。実際、手に触ってみた人の感想は「まさに芸術品」とまでいっている。しかし明らかに欠点が多い保弾板式は、今の機関銃では見受けられない。余談ながら30発射撃したら、保弾板も横にすっ飛んでいく。ちなみに、30発撃ってからまた装填ということもできたが、保弾板自体が継ぎ足しができた。つまりは弾が無くなりかけたら弾が込められた保弾板をまた装着すればいちいち再装填・コッキングの必要はなかった。ただ保弾板自体は弾を込めた状態では結構たわむので無くなりかけてから継ぎ足したのだろうと考えられるが、一瞬を争う戦場ではもしかしたら1つ1つ装填してコッキングしていたかもしれない。なお、保弾板は使い捨てではない。しかし給弾の際に弾を保持する爪が曲がってしまうので、補正器で爪を補正して使うようにしていた。だいたい20回程度は使えたという。

 また、発射速度がかなり遅い。これはいくらでも命中精度を求めた結果でもある。ようは他国のように早い発射速度で敵に対して弾幕を張るという事ではなく、やはり貧国日本にはそんな贅沢は許されなかったのであろう。実際、92式重機関銃の射撃は発射弾数が数えられるぐらいに遅い。しかし、照準眼鏡を装着しての命中率はかなり高く、1キロ離れていても敵兵士が立っているならば簡単に命中させられたという。欠点は重い。これに尽きるだろう。専用の脚を入れたら50キロはゆうに超えるこの92式重機関銃は4人かかりで、エッホエッホと運ぶのだが、チームワークがなっていないと移動はなかなかに難しかった。よく「3人ががりで運ぶ」という文献を見受けるが、92式重機関銃は射撃時は後桿(後ろにつける"コ"の時の取手)を外して射撃するので脚がY型になり、これを誤認した結果なのだろう。もしくはアメリカのM2重機関銃は3人で運ぶからこれを誤認したのだろうか?。ともあれ、重労働には違いはなかった。行軍時は馬に載せて移動するが、馬が死んだ場合などは当然人力で運ぶ必要があった。これもかなりの苦痛だったろう。