99式軽機関銃
種類:軽機関銃

性能:

全長        1190mm
銃身長        483mm
重量          11.4kg
使用弾薬   7.7mm×58
装弾数         30
発射速度    550発/分
初速        715m/s

土浦武器学校にある99式軽機関銃。
特徴のラッパ状の消炎器が欠落している。
しかし、銃口蓋があるので実際には
射撃時に取り付けていた可能性もある。
 日本では日中戦争初期までは6.5mm弾を歩兵用ライフル弾として採用していた。6.5mm弾の開発経緯は明治時代中頃までさかのぼれる。明治時代初期に11mm口径の村田銃が歩兵用ライフルとして採用され、やがて、無煙火薬が発明されると、燃焼力が緩やかになり(といっても0.001秒のレベルだが、黒色火薬だと一気に燃焼(爆発)してしまうために加速がつかない)初速も大きくアップしていった。初速が大きいと弾薬の口径を小さくしても人体への殺傷力は問題なかった。というか、口径が11mmなり17mmのままだと反動が大きすぎて人間が撃てるシロモノの銃ではなくなった。そのため諸外国では8mmクラスのライフルが製造されていった。ドイツでは8mm(最長の直径の長さ。つまりライフリングに噛む出っ張りを含めた直径。普通はライフリングに噛む出っ張りを除く直径で口径を示すために7.92mmと表記される)、隣国フランスでも8mm、アメリカでは0.3インチである7.62mm、イギリスではなぜか0.303インチ(7.7mm)のライフルがつくられた。スウェーデンやイタリアでは6.5mmのライフルが作られており、当時(明治中頃)の日本では兵器類は、体格が似ているという理由からイタリアの兵器を模倣していた経緯もあって6.5mmとした。普通に真似たのではなく、銃弾自体はドイツのS弾などを輸入して徹底的に研究して6.5mm×50弾を作り上げた。ちなみに何度か形状が改定されてはいるが、6.5mm弾は低進性がよく、人体目標ならば8mmクラスの弾と威力は遜色なかった。特に日本では資源があまりなく、普通に考えても8mm弾よりも6.5mm弾の方が資源を少なく生産できたのは分かりきったことで、特に何百万発も作るとその差は大きく現れたろう。その点での功績も大きかったと言える。

↑土浦武器学校にある99式軽機関銃。
銃口蓋がついている。射撃時には当然取り外すが、先端はヒンジ式になっており
緊急の際には付けたまま先端のみをヒンジを開いて射撃ができた。
前の防盾は射手を防ぐためのものだろうが、本当に使われていたのかは不明。
ただ、銃口部分だけでなく、銃剣部分も切り欠いているのが
いかにも日本陸軍らしい。
 ただ、第一次大戦がその現状を大きく変えた。航空機と戦車の登場はライフル口径が大きいほうがいいという結論になった。6.5mm弾は8mmクラスの弾と比べても普通に考えても威力は劣るというのはわかるだろう。人間が目標ならば問題はなかったが、戦車(装甲車両)が目標になると威力がある銃弾がいいに決まっている。戦車の装甲貫通は不可能でも、後にある程度の装甲がなされた車両が登場するとそれが顕著になった。より切実だったのが対航空機戦だった。敵航空機が地上部隊に攻撃を加えるようになると、その対応策が必要になった。対応策というよりも迎撃する策だが、やはり3次元に動き回る航空機に対抗するには当時としては機関銃しかなかった。当時の航空機といえば、骨組やエンジンや機関銃は金属でも胴体や翼は布張りで装甲と呼べるものは一切なく近距離ならエアガンでも撃ちぬけたほどで防御力など無いに等しかった。速度も200km/h前後と今と比べたら遅いほうだといえる。それでも1機を撃ち落すのには銃弾4000発が必要だと試算された。ボルトアクションライフルならそれだけ撃つ前に射手が戦死するか戦争が終わるほどで、言うまでもなくライフル兵を4000人で対空射撃をすればいいという問題でもなかった。機関銃で対空射撃をする際は当然ながら着弾点が見えないから、曳光弾が必要になってくる。そうしないとどこに弾が飛んでいるか分からないので弾道修正のしようがなかった。当時の技術では6.5mm弾の曳光弾を作ることができず、また、1発を当てるのが難しかった対空戦ではやはり1発の威力が高いほうがいいに決まっていた。第一次大戦後、日本でも当時同盟国だったイギリスからビッカース機関銃やルイス機関銃(共に7.7mm)が輸入されて、航空機用に7.7mm口径の89式旋回機関銃(および89式固定機関銃)が制式採用されると、日本でもライフルの口径を7.7mmにしようとする動きが加速した。生産力が限られた日本では出来うる限りは弾薬を統一したかったからである。

 手始めに重機関銃が7.7mmとなった。92式重機関銃がそれで、前の3年式機関銃は口径が6.5mmで、さほど評判が悪いものではなかったが、11年式軽機関銃が制式採用されると、同じ弾を使うから、威力面でも差がなく、また11年式軽機関銃は1人で運べたけども3年式機関銃は4人がかりで運ぶ必要があったために、重機関銃はより威力のある弾にすべきという意見が92式重機関銃は採用された。ライフル用銃弾もこれと同じにするように指示されたが、92式重機関銃の弾はリムがあり、これをクリップでライフルに装填する際にうまく収まらなかった。そのために7.7mm新ライフル用の弾を新規で作ることになった。本末転倒も甚だしいが致し方なかったのだろう。この歩兵用ライフルは99式小銃として採用された。
 さて、当時の日本陸軍は1個分隊に1丁の軽機関銃を配備していた。実際には軽機関銃の変わりに89式擲弾筒が配備されていた分隊もあったが、ともあれ同じ分隊で違う銃弾を使用する銃器を装備するのは補給の面からも都合が悪かった。小倉造兵廠に96式軽機関銃および11年式軽機関銃の後継に7.7mm軽機関銃の開発指示が昭和13年に出され、昭和16年採用をめどに開発が進められた。仮称で壱式軽機関銃と呼ばれたこの試作型は失敗に終わった。翌昭和14年に南部麒次郎の創設した会社中央工業に96式軽機関銃の7.7mm型を陸軍技術本部に提出。ガス作動式機関銃は口径変更が比較的簡単にできるため即座に作れた。結局、同年に99式軽機関銃として採用された。面白くなかったのは小倉造兵廠の技師で、一つの私企業にすぎない中央工業にお株を奪われたのが癪(しゃく)だったのか、昭和14年から仮に二式軽機関銃と命名して開発を続行した。99式軽機関銃の性能の良さに満足していた陸軍だったが、この開発にはある程度は黙認していた。やはり経費節減のためか、昭和16年度の予算から軽機関銃の試作費用を0にして開発を不可能にした。

 99式軽機関銃は同じ年に採用された99式小銃と共に日本軍が戦った全戦線で活躍した。特に96式軽機関銃ゆずりの命中精度の良さは慢性的な弾不足に悩まされていた日本陸軍をおおいに助けることになった。残念なのは7.7mm弾に完全に移行しきれなかった事で、38式歩兵銃&96式軽機コンビと99式コンビが混在した軍隊に日本陸軍はなってしまったことだろう。
 ちなみに、総生産数は不明。一説には月産1200丁ほどが作られたと言われている。いくつかの資料を見て個人的に判断すれば40000丁ほどが作られたと想像される。諸外国と比べても、ケタが1つ少ない数量しか生産できなかった。残念ながら、質はともかく、量は諸外国とは全く太刀打ちできなかったのがこの数字からもわかるだろう。


↑教練用軽機。99式軽機がベース。
当然ながら、実弾は撃てないが、空砲は撃てた。
太平洋戦争中は学校や青年団などで操作訓練用として使用されていた。
ちなみに、売価は130円(当時)ほど。当時の軍需工場の労働者の
平均月収が150円ちょっとだったというのを考えると、
そう高くはない買い物にも思える。
 99式軽機関銃は96式軽機関銃をベースに作られている。上記の事情から急いで作る必要があったためもあって外見はよく似ている。上でも書いたようにガス作動式機関銃は口径変更が容易にできる利点がある。ただ、さすがに6.5mm弾よりも威力のある7.7mm弾を使うのだから各部の強度をアップさせるのは必須だったし、発射薬も多いのだからその消炎対策も必要だった。結果的に重量が1kgほどアップし銃口にはラッパ型の消炎器が付けられた。この消炎器の有無が96式軽機関銃と外見で比較する上で一番分かりやすい点だといえる。
 96式軽機関銃までは3脚架が装着可能だったが、運用上で役に立たないために99式軽機関銃からは3脚が装備されることはなくなった。その代わりなのか99式軽機関銃には銃床(ストック)の下に後脚があった。これは銃本体を敵方向に向けて固定できるようにしたもので、敵の急襲で即座に反撃ができるようにしたものだが、実際には役に立たなかった。戦闘における機関銃の脅威は凄まじいものがあり、とにかく中隊規模までの戦闘では、いの一番に狙われたため、なるべくなら一斉射したあとは移動して予備陣地でまた射撃継続することが望まれた。そんな戦闘状況では、銃を敵に照準に合わせて固定・・・なんて悠長なことはできず、そのため兵士は余計な重量を抱えて移動というハメになった。ちなみに、機関銃に後脚を付けたものは他にはフランスのMle1924軽機関銃の改良型ぐらいしかなく、この点でも他の機関銃と識別が容易になっている。
 99式軽機関銃の形状は96式軽機関銃とほぼ同じで操作方法もほぼ同一だった。ただ、唯一違った点は銃身交換方法で、96式軽機関銃のように銃身固定ラッチを解放すればいいのではなく、ボルト止めとなっていた。恐らく、ボアアップで反動が強くなったための強化策とも思われるがなぜそうしたかはよく分からない。戦闘時の1分1秒を争うときにはかなりの手間だとも思えるが、実際問題としては銃身がメルトダウンを起こすまでに撃つほどに弾薬が支給されなかった日本陸軍だったからそれでもよかったのだろうか?。

 いくつか欠点を述べたが優れていた点も多かった。精度が高いために集弾性はかなり良かった。加えて96式軽機関銃と同じ96式照準眼鏡(2.5倍のスコープ)が装着可能でより高い命中精度が期待できた。
 99式軽機関銃は96式軽機関銃と同様な装填器があり、99式小銃のクリップ付き銃弾をそのままで簡単に装填ができた。ちなみに、96式軽機関銃で一旦廃止された塗油装置がここで復活した。銃本体ではなく、装填器に油入れが追加され、クリップ詰め銃弾から弾倉に入れる際に油を付けるようにした。この方式は油が付いた弾薬に砂塵が付着するので本来ならば好まれないのだが、99式軽機関銃は射撃時以外は全て密封されるから問題はないとされた。そのため、通常弾でも問題なく射撃できたという。ちなみに、99式小銃の弾薬のほかにも92式重機関銃の92式実包も発射可能だったと言われている。
 99式軽機関銃は着剣ラグがあり30年式銃剣を装着できた。戦後の射撃テストでは銃剣を着けての射撃は銃口のブレが納まるので命中精度が高かったという試験結果がある。そのために「着剣ラグは格闘戦のためではなく、命中精度を上げるために付けている」と主張している人もいるが、実際には、たまたまそうなったという結果論なだけであって、開発時の目的は上でも書いたように「突撃時に歩兵と一緒に行動するため」にあったから開発陣はそういう目的で装着したわけではなかった。言うまでもなく、軽機関銃に着剣装置をつけても無意味だが、ある意味敵兵にハッタリをかますためだったのかもしれない。