U.S. M1918A2(B.A.R.)
種類:軽機関銃

性能:

全長     1194mm
銃身長     ???mm
重量      8.33kg
使用弾薬  7.62mm×63
装弾数        20発
発射速度    550発/分
初速      853m/s




左の写真は自分がもっていたJACのBARです。金がなくて売り払って現存してませんが(逝)
また、シートのてかりであまりいい写りばえじゃないですねぇ
上には畳も見えてるし
 BARとはブローニング・オートマチック・ライフルの略。そのまま訳せば「ブローニング型自動ライフル」となる。だから、ライフルの一種というのが正解なのだろうが、実質的に機関銃的な使われ方をされてきたので、このジャンルで紹介したい。

 第一次世界大戦は、塹壕戦であった。北はドーバー海峡から南はスイス国境まで塹壕は掘りめぐらされた戦いであった。純粋にこの塹壕突破をめぐる戦いであったとも言える。ドイツの将軍は「戦略というものが無くなってしまった!」と嘆いた。いかに鉄条網が張り巡らされた塹壕を突破するか?これだけが課題であったのである。毒ガスもサブマシンガンも塹壕突破に使われるがかなわなかった。そこで、各国とも火力による攻撃を行うようになった。機動戦力が歩兵と騎兵しかいない以上は至極当然の戦術であったといえる。とはいえ、戦いは防御側に有利であった。
 戦闘での戦訓で、立った歩兵の損害を10とすると、塹壕に篭った兵士の損害は1でしかなく、伏せた状態でも6もあった。塹壕がいかに防御側が有利かがうかがえる。逆に攻撃側は伏せても意外と損害が多いので大出血を覚悟しなければならなかった。当時「前線に配備されたイギリス軍将校の寿命は2週間」と言われた所以でもある。余談ながら、現代戦で歩兵戦闘車が作られるようになったのもこの露出された歩兵のモロさを克服するために作られた。
 そこで、砲撃による塹壕の破壊が意図される事になる。ソンム会戦では約173万発の砲弾がドイツ軍陣地に撃ち込まれたものの、塹壕の完全破壊はできなかった。実際、1週間の猛砲撃に耐えた陣地もあった。しかも砲撃には思わぬ欠点があった。着弾地点には当然、クレーターができるけど、これが大砲や補給馬車の移動を阻害していたのである。地べたをならせばいいけど、時間がかかるし敵はその間に新しい陣地を構築してしまう。そこで、戦術的に考え出されたのが軽機関銃による陣地突破である。当時の機関銃は重く1人での運用は不可能だったが、なんとか1人で持ち運べるくらいに軽くして、突撃の際の火力支援任務につけた。各国でいろいろな軽機関銃が作られる事になり、アメリカでもこのBARが作られた。結論からいえばこの戦術は成功しなかった。結局、塹壕の突破には戦車の出現を、戦争終結には水兵の反乱を待つ必要があった。

↑土浦武器学校にあるBAR軽機関銃
 BARは、銃器の天才、ジョン・ブローニングが設計を行った。ただ、自主製作ではなくアメリカ軍からの依頼を受けたからである。開発要請時期ははっきりしないものの、1917年頃だろう。1918年には完成し、いくつかの銃器とトライアルを受けてこのBARが優秀だったのでM1918として制式採用された。採用は大戦終了の直前で、実戦投入されたかどうかは分からないが、実戦で使用された資料は今の所見出せていない。
 BARは1分隊(当時12名)に1丁の割合で配備されていた。当時、このような戦術思想は各国にはなく、アメリカ軍の思想は相当に進んでいたといえる。ただ、BAR採用の4年後に日本で11年式軽機関銃が、さらに2年後にはフランスでMle1924が作られて採用されていった。この当時完成された軽機関銃はこの程度で、他の国では重機関銃が主流を占めていた。軽機関銃は「機関銃の重量を下げるために妥協された(信頼性などの妥協)産物」という意見かなりあった。
 BARは弾倉式だけど、これは機関銃として考えた場合に、弾数が劣るという欠点があったものの、ベルト式に比べたら構造が単純だという利点もあった。実際、BARの戦場での信頼性はつとめて高い。だいいちベルト式の機関銃は、射撃時に介添者がいないとベルトが踊って装填不良を起こすし、分隊支援火器である以上は1人で運べて、1人で射撃か可能なのが絶対条件だったから、弾倉式は正解だったと言える。今の分隊支援火器はミニミやウルティマックスのようにベルト式もあるが、基本的に1人で持ち運べて、1人で射撃ができるのには違いはない。

 大戦間には小改良が施されたM1918A1が採用され、1940年には発射速度をイジれるようにして、機構的に複雑だったセミオートを廃止したM1918A2が採用された。普通BARと我々が言う場合にはこれをさす。ただ、セミオート機構は後に復活する事になる。

 第二次世界大戦でも当然使用された。高信頼性は兵士からは好評で、分隊の火力増大に多大なる貢献をした。ただ、欠点もあった。銃身は肉厚だったけど、放熱がまったく考慮されていなかった。チャンバーからマズルまで、ハンドガードを除けば完全に露出していた。だからフルオート射撃後にうっかり触ってしまうとやけどの危険があった。しかし、こうした指摘を書かれた資料はないのでさほど問題にはされなかったのだろうか?ともあれ、BARはM1ガーランドライフルと共に常に第一線を進撃し、ユーロ戦線・太平洋戦線に覇を唱えた。次の朝鮮戦争でも大活躍をした。ベトナム戦争でも使われたというが、米軍では使用されておらず、ベトナムの山岳民族で使用されたらしい。

 朝鮮戦争以降はアメリカ軍でも歩兵用ライフルの自動化が決定され、弾薬もフルオートが難しかった.30-06(7.62mm×63)から.308ウィンチェスター(7.62mm×51)に変更を行い、M1ガーランドもM14にバトンタッチして、BARもM60機関銃にとって替わった。これはアメリカ軍にとっては不幸だった。別に弾薬選定ミスだのをM14ライフルの選定だのを言うのではなく、歩兵用ライフルの自動化で分隊支援火器を忘れてしまったからである。M60機関銃は多用途機関銃で重機関銃にも軽機関銃にもなったが、分隊支援火器として使うには多少無理があった、M14ライフルもフルオートを行うには重量が軽すぎて屈強な兵士でもない限りは分隊支援火器として使うには無理があった。結局は1967年にM16が採用されるに至ると銃弾が違うM60機関銃を分隊支援火器で使うには少々無理があり、ベトナム戦争後に新しくミニミ軽機関銃が分隊支援火器として採用されるにいたった。

 BARは第一線を退いてからの評価はあまり高くはない。正直に言えば低い。無駄に重い・無駄にフルオートできる(ようは銃身交換ができないので限定的にしかフルオートで撃てない)など、「中途半端」「妥協された産物」という評価しか下されていない。

 本当にそうだろうか?

 使用していたアメリカ兵の評価は相当に高かった。特にその信頼性の評価は絶大なものがあった。つまりは

「撃たなければいけないときに確実に撃てる!」

 当たり前のようであるが、最前線の兵士にとっては死活問題だった。特に当時の自動銃器は故障を起こしやすかった。また、重量も相当な重さであるがその重量で反動が軽減してバースト射撃も容易に行えた。BAR射手はたしかに行軍時は大変だったろうが、いざ戦闘になるとそのモチベーションをフルに発揮して戦闘では活躍できた。M1ガーランドライフルを持っていた普通の兵士はBARをうらやましがり、またBARの射撃時にはうらやましくて自分の銃の発射を止めたという話も伝わっている。BARの羨望はほとんどの兵士が持ち、またアメリカ陸軍上層部もそれを受け入れて、M1ガーランドライフルのフルオート可能な型を作り制式化した。それがM14ライフルだった。M14ライフルの評価は散々だが、歴戦の勇士は軽量なM16ライフルの採用後も好んでM14ライフルを使っていたという。やはりBARの影響があったといえるだろう。
 後世の人はそれを「BAR神話」と言う。確かにそうかもしれないが、兵士の評価は決して無視はできないし、いや、むしろ尊重すべきだろう。神話ではない。兵士の間で信頼されていたのは間違いない「事実」だし、兵士からうらやまがられたのもまた間違いない「事実」である。
 「神話」ではない。「事実」であったと確信できる。

 使う兵士だけではなく、陸軍上層部もやはりBARの運用実績は無視できず、分隊用機関銃としてM60機関銃に変わってM249ミニミ軽機関銃を採用した。BARはその運用方法でも立派な軽機関銃であったと言えるだろう。

 BARは間違いなく名銃の1つであると断言できるだろう。



 BAR自体は、ブローニング・オートマティック・ライフルの名のようにライフルをそのまんまフルオートにしたような感じを受ける。セレクターは銃の左側面のトリガーの上にある。今から見ても非常に操作しやすい。ただし、左利きの射手でない限りはグリップで保持しながらの操作は出来ない事はないけどかなり苦しい。コッキングハンドルは同じく左側面にある。可能な限り出っ張りを防ぐためだろうけど、比較的小さい。これで本当に.30-06のリコイルスプリングの分の力で引けるのかなぁというのが正直な感想。マガジンキャッチはトリガーの前方にある。普通は右側面か弾倉の後ろなんですけどね。マガジンハウジングは大きなガイドがあるので、暗闇でも装填は容易にできる。

 弾倉自体はけっこうデカい。7.62mm×63弾(.30-06)を収めるのだから当然といえば当然かもしれない。BAR射手は12個ほど装備してたというが、結構大変だったのではなかろうか?似たような大きさの弾倉にドイツのFG42があるけど、これは銃に1つ身体に8個装備の計9個装備だった。いつの時代も大変なのは弱い兵士たちなのね(;_;)

 BARには2脚がついていた。ただし展開はすぐにはできず、蝶型ネジを緩めてから展開させて、また蝶型ネジを閉めるというややこしい方式で、一刻一秒を争う戦場ではどこまで有効だったかはわからない。実際に役に立たなかったようだったし、また2脚自体、固定方法が銃身を挟みこんでネジ止めだったために外すのが容易なせいもあり実戦では外して使っていたようで当時の写真からもそれが伺える。つまりは普通のライフルのように射撃をしていた。重量が8kgもあるこのBARだから立射が大変だと思えるのだが、BAR射手は分隊でも屈強な兵士に任されたというのだから問題はなかったのだろうか。

 銃床(ストック)の後ろにはショルダーレストがあった。これは機関銃的な使い方をする時、2脚を展開して地面において撃つ際にはショルダーレストを展開して肩に乗せれば撃ちやすかったろう。ただ、上でも書いているように2脚を取り外して使っていた例が多いのだからどこまで有効だったかはわからない。これは外すのが多少大変で、しかも固定のベアリングも一緒に外す必要があったので外しても所有しておくのが大変だったろうからショルダーレストはそのまま使っていたのだろうか?。ちなみに、ショルダーレストを折りたたんだまま肩付けしてみると、多少の違和感はある。