DP28
種類:軽機関銃

性能:

全長       1290mm
銃身長       605mm
重量         9.10kg
使用弾薬 7.62mm×54R
装弾数        47
発射速度    550発/分

土浦武器学校にあるDP28(写真中央)
特徴ある円形弾倉が欠落している。
安全のためなのだろうか。
 第一次大戦後、軽機関銃の開発は各国の流行となった。ただ、軍の保守派は「軽機関銃は重機関銃の重量を軽くしただけの妥協の産物」という考えもあった。ただし、現場部隊の兵士はやはり軽機関銃を欲した。特に第一次大戦の戦訓で機動性が重視され、第一次大戦の戦いまでは中隊同士の戦闘だったが、第一次大戦中から小隊毎に、第二次大戦前までには分隊戦闘を想定する必要がありつまりは分隊に1丁の軽機関銃を装備させておく必要があった。実際には分隊に安い軽迫撃砲を装備させてごまかした国もあったが、各国ともに軽機関銃を開発・配備していき第二次大戦に備えた。
 機関銃開発を制限されたドイツは例外として、アメリカのBAR軽機関銃、日本の11年式軽機関銃、フランスのMle1924軽機関銃と続々と作られていき、新興国家ソビエトでも1920年初頭には既に軽機関銃の開発が軍から兵器設計局に指示されている。ただし、すぐには完成しなかった。1920年代初頭といえば、ソビエトは露骨に諸外国から内政干渉を受けており、軍事介入さえされていた。これはソビエト人民とソビエト赤軍の力で撃退したが、国内は大きく疲弊した。
 さて、デグチャレフという技師がこの軽機関銃の設計を行い、1927年までには完成させた。1928年には制式採用となり(1927年とする説もある)DP28と命名された。DP28は”デグチャレフ・ペクホトニィ・1928”の略で、さしずめ「デグチャレフ歩兵用機関銃1928年型」と言った所だろう。「歩兵用」と銘打っているのは、他に航空機用や車載用の同銃があるので、その識別のためによる。

 初陣はスペイン内戦(1936年〜1939年)とされる。スペイン内戦ではフランコ将軍率いる国民党軍と政府側の共和軍が対決した戦いで、前者にはドイツ・イタリアが、後者にはソビエトが直接軍事支援を行った。このスペイン内戦は後に起こる第二次大戦の格好の兵器実験場となった。ドイツ側は航空支援のノウハウをここで習得し、また短機関銃の有用性がここで知られて、全下士官に短機関銃を持たせることにしている。一方のソビエト側はと言えばあまり教訓としては得たものはないようだった。理由としては内戦勃発の翌年から、ソビエト軍内部での大粛清で戦訓どころではなかったからだろう。ただし、送りこんだ兵器類は数多かったし、ソビエトお得意の粛清のノウハウをも送りこみ、政府軍を背後から弱体化させていった。
 さて、ソビエトが送りこんだ兵器群には、ポリカルポフI-15・I-16戦闘機やBT戦車や各種自動ライフルやこのDP28があった。いずれも性能がよく共和国軍によって使用され、敵側である国民党軍やドイツ軍に衝撃をあたえたといわれる。ただ、性能が格段に上とかではなく、軍事技術で遅れていると思われていたソビエトが完成された自動火器(自動ライフルや軽機関銃)を持っていた事がドイツ軍にとっては驚きで、特に鹵獲して参考にした形跡はなかった。

 DP28が真に活躍した戦いといえば、やはり1941年6月22日から始まった独ソ戦だろう。ちなみに当時のソビエト狙撃兵中隊(歩兵中隊。ソビエトでは普通の歩兵を狙撃兵と呼んだ)での定数は9丁だった。当時のソビエト陸軍歩兵部隊は3単位制だったので1個分隊に1丁が配備されていたことになる。ただ、実際の記録写真を見る限りではあまりDP28を見かけることがなく、実際には紙の上でしか達成できなかった数字とも思える。
 DP28は可動部品が6個しかなく、しかもそれらが頑丈に出来ていたので戦場における信頼性は非常に高く、野戦分解も簡単に行えた。重量も完全状態(銃弾をフルに詰めこんでスリングをつけた状態)でも11.8kgとさほど重たくはなく、当然ながら運用も1人で行えた。また47発という装弾数は各国の軽機関銃としては多い部類に入り、支援能力は高かったといえる。
 ソビエトの銃器といえばペーペーシャー(PPSh1941)ばかりが目に入ってどうしても戦場の主役とはなり得なかったDP28だったが、ソビエト歩兵をよく後方から(いい意味で)支援しつづけた軽機関銃だったといえるだろう。

 戦後になってもしばらくはDP28の生産は継続された。ベルト給弾式のDP28も作られたが、その頃になると歩兵用銃弾がAK47の7.62mm×39弾になっていったので分隊支援用の軽機関銃としての意味がなくなり、また普通の重機関銃としても箱弾倉では装弾数に限界があり支援能力が劣るため、結局は姿を消す運命にあった。
 戦後しばらくしてPK機関銃が誕生しこれがソビエト重機関銃の主力をなした。PK機関銃はSG43ゴリューノフ重機関銃の後継といわれるが、実際にはDP28の直系の子孫といえる。たしかに、使用用途はゴリューノフの後継とも言えなくはないが、部品構成(パーツを少なくする等)は明らかにDP28を参考にしているといえる。その意味ではDP28の存在意義は大きかったといえる。そういう意味で隠れた名銃と言うことができるだろう。



 DP28の最大の特徴は、上の写真を見ればわかるようにイギリスのルイス機関銃のような円盤弾倉を使用している点にある。円盤にした理由は、当時のソビエト軍制式弾薬は7.62mm×54R弾で銃弾底にリムがでっぱっていた。つまりは真っ直ぐな弾倉にできないというわけで円盤式となったわけだが、たしかに下に多くの銃弾を入れる弾倉を付けると伏せ撃ちが難しく、上だと照準が難しい(横にずらすという手もあるが、照準補正がやや大変)。かといって横だと重量バランスがとれない。そういう意味では理想的だと言えるが欠点もあった。やたらと大きくなってしまうので予備を持つのがすごく大変だった。この円盤弾倉が3つ入るブリキ製の弾薬ケースが開発されたが、やはりかさばりすぎで布ケースに改められた。また、重量軽減のためだろうが弾倉の板厚が薄いために少々の衝撃でへこんでしまい給弾不能になる場合もあった。
 あとの外見的特徴といえばスマートな点もあるだろう。ZB26という先駆者がいるが、開発時期・経緯から考えれば参考にしたとは思えず、その点でもソビエト設計陣は優れていたと言えるだろう。ただ、独立グリップではない点を考えれば古めかしいとも言えなくはない。

 野戦分解は簡単にできた。引き金の少し後方の上にあるピンと、引き金の少し前にあるピンの2つを抜くとストックブロックと機関部ブロックの2つに分割できる。ストックブロックには銃床と引き金があり、機関部ブロックは銃機関部(ボルトや撃針など)と銃身、ガスオペレーションロッド、2脚などがあった。機関部ブロックはさらに銃本体部(機関部と銃身覆い)銃身、ガスピストン、ボルト、撃針、閉鎖板、2脚に分解できた。ここまで分解できれば野戦での掃除は簡単にできたろう。
 DP28の部品の特徴は上でも書いたように可動部品が少ない点にある。ストレートにいえば、可動部品類を一体成形で作っているからだった。たとえばガスピストンとボルトハンドルと排莢口は1つの部品で作られていた。壊れたら交換は楽だろうが、作るのが手間ではなかったのだろうか?。もっともそうそう壊れる部品でもないだろうからそれでも良かったのだろうか。
 あとの部品の特徴としては閉鎖ブロックと撃針が独立した部品になっているという点もある。これらは普通の射撃でも射撃時の力がすごくかかって壊れやすいので壊れたら即座に交換というコンセプトだったのだろう。ただし、ソビエト軍が何をどれぐらい予備部品を持たせていたかは分からない。
 銃身も単体で分解できた。ただし、予備銃身を携帯していたかはわからない。なお、ガス筒は銃身覆いと一体成形で作られていたのも特徴といえるだろう。