PM1910
種類:重機関銃

性能:

全長        1110mm
銃身長       720mm
重量         23.8kg
         (銃本体の重さ)
使用弾薬   7.62mm×54R
装弾数     250発ベルト
発射速度    550発/分

写真はAndy太郎さんからいただきました。本当にありがとうございます。
≦(_ _)≧
 19世紀末に起こった産業革命は機械分野でさまざまな発展を遂げる土台となった。銃器分野でも例外ではなかった。産業革命による工作機械の発達は、より精度が優れた部品の生産を可能とし、また同時期に無煙火薬の発明で爆発力が安定した推進薬を作れるようになったため、自動式銃器の製作が、設計的にも物理的にも可能となった。機関銃・自動拳銃・連発式ライフルなど現代まで使われる原型銃器が完成したのもこの頃で、いろいろな設計者が切磋琢磨して開発していった。フロンティアスピリッツがそうさせたのだろうか?。

 本格的機関銃の元祖ともいえるマキシム機関銃の名の由来は設計者のアメリカ人「ハイラム・マキシム」による。マキシムは生粋の銃器設計者ではなく、元々は電機メーカーの社員でしかなかった。彼がなぜ機関銃を設計しようとしたかはわからない。1885年にはほぼ完成している。このマキシム機関銃の特徴は今までの機関銃であったガトリングガンと比べた場合、重量が格段に軽くなっていて、その上に発射速度も500発/分と、当時のガトリングガンの発射速度(だいたい350発/分ぐらい)よりも早かった。後にマキシムがこの機関銃を売りこむときに

「この機関銃は(1分に5〜6発撃てるライフルの)100丁分の価値がありますぜ!」

というのをセールストークにしていたと伝えられている。

 ニュートンの「作用・反作用の法則」というのがある。物体をある方向に移動させるとその正反対の方向に同じ力が働くという法則だが、銃器でいえば、銃弾発射分のエネルギーが反対側に起こる。ちなみに、銃弾のエナジー分が反動エネルギーというわけでもなく、実際にはそれに加えて、発熱・発射音なども加味されたエネルギーは反動エネルギーとなる。この反動エネルギーを利用すれば連続して銃弾発射できるのではないかとマキシムは考えた。ただ、やはり閉鎖の問題で難渋した。反動を利用するのはいいが、そのまま利用すると発射時の何千気圧という爆圧が射手に襲いかかる。無論、怪我ですむ問題でもない。また、その際にボルトを稼動させると、その何千気圧の圧力で壊れる可能性も非常に高かった。しかしガス圧は一瞬である。銃弾が発射されたら銃口から抜けるからで、その時間は0.001秒にしかすぎない。その時間だけボルトを固定していれば連射可能な銃は製作可能になる。しかしその0.001秒の閉鎖で銃器設計者はいろいろと知恵を絞り合った。
 マキシムが取った手段は、今でいうショートリコイルという方法だった。銃身とボルトをくっつけて、発射の反動で銃身とボルトが一緒に後退する。銃身が何センチか後退するとボルトの閉鎖が解除されてボルトのみが後退する。その際に薬莢の排出と次弾装填用に銃弾ベルトから次弾を引きぬく工程をして、バネの力でボルトが押し出す時に次弾を薬室に装填した。
(余談ながら、今の機関銃の大半は銃弾ベルトから弾を引きぬく工程を行わない。理由は、この当時は金属ベルトが存在せず布ベルトだったのと、銃弾自体にリムがあったので押し出すだけだと弾がつっかかった)
この際に引き金が引かれてる状態だったら撃針が弾の雷管を叩いて次を発射して同じ工程を繰りかえす。一見単純そうだが、反動利用式はボルト位置やヘッドスペースなどの微妙な調整が必要で、この当時はそんなことは知るよしもなかったから、まさに試行錯誤の連続だった事だろう。
 また、連続射撃する際に銃身が相当熱をもつ。マキシム機関銃はウォータージャケットを設けてそこに水を入れて銃身を冷やす方法をとった。この方法なら水があるかぎり何発でも連続して撃てたから理にかなってはいたが、その分重くなり、第一戦場では水がいつも手に入るとは限らない。ただ、イギリス軍では沸騰した蒸気を冷却させて水に戻してまた使うような方法も用いられた。当然ながら重量がかさむので拠点防衛用以外には使われなかった。水がなくなったマキシム機関銃は非常手段として、水のかわりに尿が使われたという話もある。

 さて、1890年代にマキシム機関銃はイギリス陸海軍に採用されたのを皮切りに世界各国で採用されていった。日本も例外ではなかったが、反動利用式は上でかいたように、微妙な調整が必要で、各国に比べて工作機械の質が劣った日本の工業力では国産が難しく、早々にガス作動式のホチキス式機関銃にバトンタッチされた。ロシアでも正式に採用され、1902年にはイギリスからライセンス生産権を取得した。ただ、生産設備などの準備に手間取ったのか、ロシアの「ライフルグラード」ともいえるツーラ造兵廠での生産が始まったのは1905年からだった。1905年といえば、日露戦争の真っ只中でありマキシム機関銃の輸入ができなくなったからかもしれない。
 この日露戦争でロシア軍はマキシム機関銃を使用した。当時の機関銃は重く機動線には向かなかったが、当時のロシア軍は旅順港要塞で日本軍を迎え撃つ形だったため、陣地に拠って使用していた。「重たい」といっても何百キロもあるものではないから、2人もいれば動かせたし、陣地線での動かす距離といったらたかがしれていたから、重さはさほど問題にならなかった。結果、日本軍の死傷者は日清戦争時と比べ物にならないほど激増した。ロシア側にとって惜しむらくは自国でマキシム機関銃の生産を行っていなかったせいで配備数があまり多くなかった事で、日露戦争の天王山といえた奉天決戦では兵士の数で勝っていたロシア軍だけど機関銃の配備数は日本軍の3分の1以下だった。これが敗因の1つではないかと思えなくはない。

 しかし、マキシム機関銃の有効性を確認できたロシア軍はこのマキシム機関銃の改良を行った。機動戦で追従できるように車輪を追加したのだった。これがPM1910機関銃として採用された

↑PM1910ではないですが、同じマキシム機関銃ということで(^^;)
 PM1910は上で書いたように典型的なマキシム水冷式機関銃だったけども、他国と違った点は、これまた上で書いたように車輪を取りつけた点にある。ロシアは広いからだろうけども、移動時には結構大きな音を立てたという。重機関銃は後方からの射撃が主なので別にいいのだろうか?
 また、ロシア軍では最前線でもつかえるようにとかは知らないが、防盾(ぼうじゅん)を付けていた。防盾をつけたPM1910は74kgにもなったし、ライフル弾の直撃には耐えられないため、実際は外すことが多かったという。そういえば、戦時写真で防盾のついたPM1910機関銃はほとんど見かけない。

 PM1910は、採用国がロシア帝国からソビエト連邦に名前が変わっても継続して使用された。重機関銃としては特に欠点もなかったためかかなり長い間使用されている。さすがに水冷式機関銃は欠点がある(重たいし、水がないと撃てない。戦場では常に水があるとは限らない)から1938年には空冷機関銃の開発に着手した。出来あがったのがDS1939と呼ばれるものだったが、評判がすこぶるわるく、部隊配備はされなかったらしい。どういう欠点があったかはわからない。平和だったら、水冷式のままでもよかったのかもしれないが、1939年といえば9月にソビエト軍はポーランドに侵攻し、12月にはフィンランドに攻め入った。いずれも勝ったには勝ったから、よかったのだろうが、1941年6月22日の独ソ戦でソビエト軍がなだれをうったように潰走した。やはり空冷機関銃の重要性はここで理解されたのか、1943年には空冷のSG-43重機関銃(通称:ゴリューノフ)が制式採用された。とはいえ今まで使われてきたPM1910も平行して使用されており、ソビエト軍がベルリンへ進撃する姿にはSG-43とPM1910が一緒に進撃する姿が見られた。1954年8月の対日戦(満州侵攻)でもPM1910は使われていた。

 戦後になって、余剰となったPM1910は他国へとばら撒かれた。朝鮮戦争でも使われたし、ベトナム戦争でもソビエトが北ベトナム軍に供給したようで、実際に使われていた。

 マキシム式の機関銃はあれほど各国に輸出されあれほど活躍したにもかかわらず後々にあまり影響を与えていない。「水冷式」は空冷式にとってかわれれたし(銃身をもたせる方式ではなく、銃身が磨耗したらさっさと取りかえるようにした)、「ショートリコイル閉鎖機構」は拳銃ではスタンダードだが機関銃でこれを採用しているのはブローニングM2重機関銃他少数だけとなった。