ZB26
種類:軽機関銃

性能:

全長        1130mm
銃身長        530mm
重量           9.6kg
使用弾薬  7.92mm×57
装弾数       20・30
発射速度    550発/分

 第一次大戦での戦死傷者の数はこれまでの戦いと比べ物にならないほどに増加した。その理由は機関銃の出現にあった。機関銃自体は1870年の普仏戦争でも使われていたから、全くの新兵器というものではなかったし、第一次大戦勃発の10年前の日露戦争では日本軍・帝政ロシア軍共に多数が使用され「機関銃がなかったら負けていた」という戦闘もいくつかあったし大量の死傷者が出た理由も機関銃にあったと言える。
 第一次大戦ではこれらの機関銃運用の戦訓とメカニズム的に完成された機関銃本体によって効果的な運用がなされ、極初期の帝政ドイツ軍によるシュリーフェン計画(パリ侵攻作戦)を除けば戦線が膠着した理由として、機関銃・塹壕・有刺鉄線の組み合わせによる絶妙なまでの陣地構築にあったと言える。
 さて、防御側はこれでいいとして、大国同士の戦争というのは勝たなければ負けなので、どうしてもその堅固な陣地を突破する必要があった。昔は方陣(真四角の陣形)を組んで突撃という手段が取られたが機関銃の前には無力であった。無力どころか自殺行為となっていた。国際法で禁止されている毒ガスをも使ったがこれもだめで、各国ではとにかく運動戦による陣地突破を図ろうとした。そのための兵器もいろいろと開発されそして実戦に投入されていった。
 歩兵砲というジャンルの大砲はこの頃に誕生した。歩兵の力で最前線まで運ぶ事ができ、射撃も戦場機動も可能だった。ただ、人間が運ぶ関係上軽くしなければならず、口径も37mmほどで榴弾威力も手榴弾並みだった。用途は榴弾よりも徹甲榴弾による堅固な機関銃陣地の破壊にあったので榴弾威力は2の次だったのだろう。実際、ドイツとフランスで実用化され塹壕で両軍が撃ち合いを展開しているが、決定打とはならなかった。
 短機関銃というジャンルの銃器は第一次大戦末期に戦場に投入された。大砲の支援の下、混乱した敵塹壕内での戦闘になると不必要に長いライフルは役に立たないと考えられ、拳銃弾でも近距離なら人を殺傷できるためにドイツ軍で採用された。ただ、戦果を挙げることはできなかった。

 やはり、最前線部隊が一番欲したのは軽量化された機関銃だった。火力の大小は戦局に大きく影響されるのを知っているのは彼らだった。当時の機関銃は水冷式が主流で、また3脚からの安定した射撃をするのが常だったため全備重量が60kgをゆうに超えた。水冷式は水が蒸発しきって無くならない限りは連続して撃てるという利点はあったが、その分の重量が嵩んだ。また、3脚は射撃姿勢がどうしても高くなるので、たとえ簡便であろうが陣地の構築は不可欠で、最前線でそんな余裕などあろうはずもなかった。そんな重量のある重機関銃を最前線の機動戦で動かすのはどだい無理な話で、それを強要した最前線指揮官は、そんな苦労を分かっていてもそうしなければいけないほどに前線では軽い機関銃を欲した。
 結論から言うならば、戦線の突破は戦車によってなされ、戦争の集結は反乱によってなされた。

 さて、最前線で歩兵と行動を共にする機関銃の要求といえば、突撃に参加できることが絶対条件だった。当時の機関銃の運用方法といえば堅固な陣地で後方からの射撃支援を行うことだが、突撃攻撃の際は射撃目標はちょくちょく変わるし、敵と肉薄すれば放った銃弾が味方に当たる可能性は充分にあった。敵と肉薄しなくても、超過射撃(味方歩兵の頭上を超えての射撃)の際は、味方歩兵が塹壕に篭っているならば話は別だが、突撃行動中で伏せている状態でも味方に当たる可能性は充分にありえたのだ。ようは突撃支援では機関銃は歩兵と行動を共に出来たほうが良かったのだ。
 「1人で持てる事」「1人で撃てる事」。そういう機関銃を欲したが軍の上層部はそれには難色を示した。第一次世界大戦の戦訓で重機関銃の重要性は分かりきっていたことで、軽機関銃は重量を軽くして信頼性を無くした妥協の産物としか見ていなかった。ただ、軽機関銃の現場部隊の要望は高かったのは事実だし、第一次大戦での戦訓でも重機関銃の軽機関銃的運用が失敗したのは分かっていたのだから、いくつかの国では軽機関銃の開発・配備がなされていった。第一次大戦末期にはアメリカでBAR軽機関銃が誕生し、1922年(大正11年)には日本で11年式軽機関銃が制式化され、2年後の1924年にはフランスでMle1924軽機関銃を採用。1920年代末期にはソビエトでもDP28軽機関銃を制式化するなど各国で軽機関銃の開発・配備がなされていき、分隊に1丁が配備されていった。そんな軽機関銃ブームのおりに出来あがった1つがこれから紹介するZB26軽機関銃だった。

 ZB26軽機関銃はチェコスロバキアで誕生した軽機関銃だった。ちなみに、チェコスロバキアという国は第一次大戦後にオーストリア・ハンガリー帝国から独立した国であり、開発目的といえば、自国の軍備力強化のためとも思えるが、当時は未知分野であった軽機関銃を開発して他国に売りこんで外貨を獲得しようという狙いもあったのではないかと思える。今では影が薄いが当時のチェコスロバキアといえば先進工業国だった。先進といっても、アメリカみたいにじゃんじゃん工業製品を作れるというのではなく、精度が高く、またコストも安い工業製品を作っていたという意味で、兵器分野でも量はともかく、質の良さは諸外国にも認知されていた。
 ZB26は名前のように1926年頃に開発が完了し、自国の配備のみならず他国にも大々的に輸出された。ZB26の特徴は本体重量が8.9kgと当時諸外国で開発されていた軽機関銃に比べれば多少は軽い(たとえば11年式軽機関銃は全備重量が10.5kgあった)のだが、当時、ライフル弾で最強の威力があった、7.92mm×57弾(ドイツ軍制式のライフル弾)を使って射撃ができて故障も少なかった。少なかったというよりも「故障なんてなかった」と言ったほうが表現がいいかもしれない。ともあれ「故障する」というクレームがほとんど来なかった事実からも「無故障機関銃」の名前を欲しいままにした。また当時としては画期的な「銃身が数秒で交換可能」という機能もウリだった。後のドイツ軍のMG34と違って、銃身に銃把があったため、熱い銃身を交換する際にアスベスト(石綿)パッドは不要だった。機関銃は撃ってナンボ。銃というのは数発撃っただけで結構銃身が熱くなるもので、特に銃身温度が300℃を超えた状態で射撃を継続すると、銃身磨耗が激しくなって銃身寿命が極端に短くなるという欠点があった。だから各国では放熱フィンを付けて銃身を極力冷やすような方法を取ったがZB26は銃身交換を行ってそのローテーションで冷やす(1つの銃身で射撃していてもう1つは冷やしておく)という事で解決を図ったのだった。この方法は今では当たり前の仕組みだが、当時としては画期的であったと言える。放熱フィンを省けたために機関銃自体が軽量化できたと言えた。まぁ、予備銃身を携帯しておかなければいけないというまどろっこしい欠点もあろうが、それは射手ではなく他の兵士に持たせればいいだけの話で、機関銃となれば射撃する銃弾の数もケタ違いだから専属の弾薬手は必須でそういった兵士に片手間で持たせれば良かった。こういう役目は、敵を見たら怯えて発砲しかねない新兵あたりがやらされたのだろうか。
 さて、堅固なのに軽量、しかも故障しないZB26軽機関銃は各国に輸出され重宝がられて使用され、またライセンス生産をしていた国も多かった。イギリスでは、「BREN GUN」(右写真)という名称で、使用弾薬がチェコスロバキアとイギリスでは異なっていたために、イギリス制式の7.7mm×58R弾(.303ブリディッシュ)を使えるようにして生産していた、ちなみに「BREN」の名前の由来は前2文字のBRはチェコスロバキアでの製造場所「ブルーノ造兵廠」から、後2文字のENはイギリスのエンフィールド造兵廠から取られてニコイチで名前が付けられた。ちなみに、イギリスでは自国の7.7mm弾よりも威力があった7.92mm弾を戦車用として採用していたせいもあり、オリジナルのままでも生産されていたと言われているが実際には良く分からない。ちなみにイギリス軍ではこのBREN GUN(ブレン軽機関銃)はたいそう気に入られて、弾薬搬送の問題を解決するために作られた小型装軌車に「ブレンガンキャリアー」と名前がつけられるほどで、戦後も使用弾薬を.303ブリディッシュから7.62mm×51弾に変えて長らく使用されていた。
 チェコスロバキア自体1939年にドイツに併合されたせいもあり、ドイツ軍でも限定的に使用していた。ただ、ドイツ軍には傑作汎用機関銃のMG34があったため、歓迎されて使われたとは言いがたいが、使用弾薬がドイツ軍のそれと全く同一だったし、これが決定的な理由だが、MG34自体の生産が需要に全く追いついていなかったせいもあり、相当数がチェコスロバキアで生産されてドイツ軍に供給されて使用されていた。ただ、最前線の写真でこのZB26軽機関銃が写っている写真を見かけることはなく、第2線部隊や訓練部隊で使用されていたらしい。普通に考えても20発弾倉式と250発ベルト式の機関銃でどっちがいいかと聞かれたら後者だと答えるだろう。ただ、後で述べるがZB26軽機関銃は極寒の地でも問題なく作動するために、ロシアの極寒の大地で本当に最前線部隊が欲した機関銃はこのZB26だったのかもしれない。

 ZB26軽機関銃が特に大量に使用され、またライセンス生産もされて、敵に度肝を抜かせた国といえば中国だった。中国(当時の中華民国)では1920年代は政権を取っていた中国国民党が大清帝国時代の屈辱(諸外国との不平等条約や権益など)を排除すべく、また各地の軍閥を征伐し、真の中国統一に燃えていた。第一次世界大戦後という好条件(諸外国は戦争で疲弊していたので中国に干渉する余力がなかった)もあって各地の軍閥を傘下に収めた。その頃、第一次大戦で疲弊しなかった大国である日本が露骨に中国に干渉してきた。特に1931年(昭和6年)の満州事変で、中国東北(トンペイ)地方が中国国民党政権から切り離され実質的に日本の支配下に組みこまれると、中国はナショナリズムに目覚め、とにかく軍拡につぐ軍拡を重ねた。拳銃から戦車までとにかく諸外国から買い付けて、特に銃器類は国産が可能とみればとにかく中国国内で生産につぐ生産を重ねた。ちなみに1934年からはドイツのライフルKar98Kが中国国内で生産が開始されている。
 ZB26軽機関銃は中国では当初輸入されていたが、後には国産もなされた。当然ながら日本軍に対して使われて大戦果を挙げた。ZB26軽機関銃が対日戦で最初に登場したのは満州事変だった。当時の日本陸軍の歩兵用銃器の弾は6.5mm×50弾で、ZB26軽機関銃が使用する7.92mm×57弾と比べたら威力の点で劣った。特に日本陸軍が感嘆したのはそんな高威力の弾を発射するのに自分たちの機関銃(当時は11年式軽機関銃)よりも軽くまた故障もしない機関銃として絶賛した(11年式軽機関銃は日本国内においても210発に1発は故障していたし、過酷な状況における戦場ではそれ以上の故障率だったのは想像に固くない)。特に当時の多くの銃器は寒さに弱く、実際に独ソ戦初期の冬季戦闘ではドイツ軍の銃器はほとんど使えなかったために、歩兵用主要武器は手榴弾にスコップだったとも伝えられる。ZB26軽機関銃は中国東北地方(満州)の厳寒にもよく耐えて無故障で発射できた。そのために、準制式兵器として日本陸軍でもZB26軽機関銃は使用されていたという。ちなみに、日本陸軍は日中戦争でいくつかの中国におけるZB26軽機関銃の製造工場を押さえていたために(たとえば太沽(タンクー)造兵廠など)弾薬や補給部品などの目処がたったせいでもあるだろうし、昭和13年頃にはドイツからMG15が輸入された頃で98式旋回機関銃として国産化もされたので7.92mm×57弾自体は日本国内でも生産されていたせいもあり中国戦線でZB26軽機関銃は幅広く日本陸軍で使われたのだろう。

 さて、中国軍で大量に使われたZB26軽機関銃は日本陸軍に衝撃を与えたのは上で書いたが、当時の兵士の手記でも「チェッコ機銃」という記載がやたらと多いことからもよく伺えるだろう。ただ、「水冷のチェッコ機銃」という記載も見受けられるために、日本軍兵士は、マキシム型機関銃だろうが、中国軍が使用していた機関銃は全て「チェッコ機銃」と呼んでいたのだろうとしか思えない。ようは中国軍が使用していた機関銃はどこの製造だろうが、どんな機種だろうが「チェッコ機銃」と呼んでいたのだろう。やはり、それだけこのZB26軽機関銃の威力をまざまざと見せられたのだろう。日本陸軍ではZB26に形状が良く似た96式軽機関銃が作られた。ただ、この96式軽機関銃は排莢不良および吹き割れ(薬莢が、薬室から引きぬかれる際にちぎれてしまうこと)が発生し、専用の弱装弾が使われた事を考えればZB26は優秀な機関銃であったといえるだろう。日中戦争では常に日本側が押しているというイメージがある。間違いではないと思うし、中国の首都である南京も陥落させた。ただ、南京占領までの日本側の戦死傷者は実に4万人を超えていた。2個師団が丸々消滅した勘定になる。この苦戦の原因の1つにはZB26軽機関銃にあったと言えるだろう。

 ZB26軽機関銃は対日戦で大々的に使われており、また日本敗北後も国共(国民党軍と共産党軍)内戦でも使われた。共産党軍が国民党軍を台湾に追い詰めて中華人民共和国を建国した後でも配備され、朝鮮戦争でも使われたと言われる。ただ、当時の共産党軍はソビエトから兵器供給を受けていた影響で使用弾薬が異なるZB26軽機関銃は限定的な運用であったとも考えられる。ただし、そのせいもあってか、隣国で活動していたベトミン軍(ベトコンの前身)に大量に供与されて、当時ベトナムを支配していたフランス軍との戦いで使われているし一部は対アメリカ戦でも使われた。ただ、ベトコンも供与される兵器類が東側諸国製になってくると、部品も弾も供給されないZB26軽機関銃は少しずつ運用消耗されていき消えていく運命にあった。

 上でも書いているが、ZB26軽機関銃の兄弟ともいえるBREN軽機関銃は1980年代まで使われいたし、第二次大戦後にもイランなど、ZB26軽機関銃をライセンス生産していた国もいくつかある。

 ZB26軽機関銃自体は今では直系の子孫を残してはいない。ただ、その運用思想は今でも生きている。実際、フルオート射撃可能の自動式ライフルが全歩兵に供給されると、軽機関銃は不要と思われた。ただ、銃身交換ができないライフルでは支援として用いるには不便すぎて、汎用機関銃も重すぎたり、また、小口径ライフルが一般化すると不必要に重いし使用弾薬も異なるために、SAW(分隊支援火器)と名前を変えて軽機関銃は復活を遂げた。その意味でもZB26軽機関銃は出現から今まで活躍をした名作軽機関銃と言えるだろう。


 ZB26軽機関銃は外見からして古めかしい印象を受ける。上から弾倉を装填する方式であるためだとも思える。なんで上から装填する方式にしたのかはよくわからない。上部装填式の利点として、重心の移動があまりなく射撃時の安定性がよいという点があるが、上の写真を見ればわかるように立射用のハンドガードがないので、実質的に2脚を地面につけての射撃が主流であるその利点は生かされない。ちなみに、ZB26軽機関銃は分隊での運用なため、スリングを使って肩に担ぎ、左手で銃把(キャリングハンドル)を持って射撃するという方法もあったが、それでもその利点は生かされないだろう。弾倉が上にくると照準器を左にずらす必要がでてくるので、照準補正が大変という欠点があるにもかかわらず、上部弾倉を採用した理由は何だったのだろうか?
 上でも書いているように銃身はすぐに交換できた。そのために銃身が熱せられても銃身交換で即座に射撃続行が可能だった。ただ、銃身に小さいながら放熱フィンがついており、やはりすぐに加熱されるのは好まなかったのだろうか。ちなみに、ZB26軽機関銃は300発ほどなら銃身交換はせずに発射できたと言われている。弾倉式機関銃とベルト式機関銃を比べた場合、ベルト式の方がたくさん弾が装填できるし、弾倉はそれ自体が結構な重量なため数多く持つとかさばる。ベルト式は専用の弾薬箱はあるが、同弾数を持つ場合はベルト式の銃弾のほうが軽い。そのために今ではベルト式が多い。ただ、当時はボルトアクションライフルが主流で、弾倉式でも充分に戦力となりえたし、弾倉式機関銃ははベルト式機関銃と比較した場合、作動工程が単純にできるし、射撃しないときの開口部全てに覆いをかぶせられたために埃の進入も極力抑えられた。そのためにZB26機関銃の信頼性は良かったのだろう。

 余談ながら、俺自身、ZB26軽機関銃を持ったことがあるが、軽機関銃とはいえ正直言って重い。持つだけならまだいいが、これを持って何十キロも歩けと、山を登れといわれたら辛い。しかも戦場の兵士は自分の所帯道具を持って移動するので、その苦労は並大抵のものではなかったろう。