30年式小銃
写真ないっす(;_;)
性能:

全長          1280mm
銃身長          797mm
重量           3.96kg
使用弾薬      6.5mm×50
装弾数            5
初速           762m/s
 戦闘の勝敗を決する要素はいろいろある。たとえば制空権を握ったものが勝ちだとか、エレクトロニクス技術が優れていれば勝ちだとか、シーレーン防衛に失敗したら負けだとか、兵員数が劣れば負けだとかいろいろある。どれも間違ってはいないが正しいとも言えない場合もある。その劣勢を押して戦いに勝った例などいくつもあるのだから。ただ言えるのは、勝つ要素というのは時代によっても相当変わってくるというものであるという事だろう。

 剣と槍で戦っていた時代の勝敗要素はやはり兵士の数だった。ランチェスターの法則で、

戦力=兵士数^2×武装度(装備や士気や訓練度など)

 というのがあった。兵士の数の2乗なのだから、多ければ多いほど戦力があると言う事になる。まぁ、戦術の要素も多大だったといえるが、やはり兵士の数が多い方が戦術にも幅ができたし、味方を鼓舞するに十分だった。この頃は装備に我彼共にほとんど差がなかったせいもあり、やはり兵力がものを言った。
 ただ、火器類(鉄砲や大砲)の出現が戦いを変えた。大砲の出現は城郭の構造を変更せざるを得なくなった。また海戦においても、遠距離からの砲撃が勝敗を決するようになった。鉄砲の出現も陸戦に大きな影響を与えた。今でも使われる「火蓋を切る」という言葉は火縄銃の点火用の火皿のフタである火蓋を開ける(切る)ことが由来だが、これでわかるように戦いの最初は鉄砲の銃火を交えることだった。当時は方陣を組んでの戦いで遮蔽物などはない撃ち合いで、この鉄砲の撃ち合いだけでも、戦死者だけでも2割に達したというから、恐怖に陥らない方が不思議だろう。その浮き足立った所を見計らって突撃をかけるわけだが、このように鉄砲が勝敗を左右するようになった。戦い続きだったヨーロッパでは火縄銃から火打石銃へと、また滑腔銃からライフル銃へと進化していった。一時期、モンゴル民族やトルコ民族やイスラム民族の侵攻に怯えきったヨーロッパ諸国が、立場が逆転し逆にイスラム諸国を呑み込んでいったのは鉄砲や大砲が発達してミリタリーバランスが逆転した理由が多大と言えた。このように戦術自体を変えた銃の性能は当然戦局を左右するに十分な要素だった。後に戦車・戦闘機・レーダーなどの発達で銃の性能が左右する戦いは無くなってきた。銃の性能が戦局を左右した最後の戦いは日露戦争で、その立役者は今から紹介する30年式小銃だった。

 30年式小銃の開発開始は明治29年7月頃とされる。開発を担当したのは当時東京砲兵工廠提理だった有坂成章(ありさか なりあきら)が担当した。30年式小銃の名前のように翌年には制式採用されるのだが、普通は新型銃の開発には何年かかかる。しかも当時の有坂は大砲の設計も任されており、新型ライフルの設計どころではなかったのだが、同年明治29年中には試作型を完成させたらしい。なんと4ヶ月程で設計を完了させたのだった。
 わずか4ヶ月で完成させた理由には、有坂自身が有能だったからだといえるし人並み外れて熱心だったからだと言える。たとえば、有坂のもとに1日に2回同じ人が有坂に面会に来て、有坂自身は気づかなかったのか、2回とも同じ話を繰り返したとか、射撃場近くで宿を取っていた時に、女中相手に信管の図面を広げて熱心に説明していたという話も伝わっている。
 無論そういう精神面だけではなく、使用する銃弾が既に完成していたことも大きかったろう。銃の開発は使用する銃弾が決まらないと設計自体ができない。逆にいえば使用弾薬が決まれば、銃身長や重量やボルト寸法はおのずと決まってくるから、銃弾さえ完成していれば設計はスムーズに行えたのは想像に固くはない。

 太平洋戦争の終戦まで生産されて使われつづけたこの6.5mm×50弾はイタリアのライフル弾を参考にしたとされる。この当時は7.62mm〜8mmが主流だった時代においてこの一回り小さい弾薬を選定した理由はいくつかある。
 まずは、体格が小さかった当時の日本人用としては8mmクラスのライフル弾は威力が強すぎたとされる点で、また、資源小国だった日本だから少しでも資源を節約しようという考えもあったとされる。たしかに、この弾薬は幾度かの改定を経て日露戦争から太平洋戦争終戦まで、幾度もの大消耗戦を戦いぬけたのはこの小柄な弾薬のおかげだったとも言えるかもしれない。
 ただ、残念な事にこの後々にまで影響を与えた銃弾を、誰が開発したのかは今を持って知られてはいない。

 明治29年中に、その試作ライフルは試験へと回されて、病死した馬に銃弾を撃ちこんで威力のほどを試験している。一説には処刑された死刑囚の死体をも実験で使ったとも言われている。

 1年ちょっと経った明治31年2月、「三十年式小銃」として採用された。明治31年採用なのに「三十年式」と名前がついた理由は良く分からないが、明治30年に採用予定がいろいろ忙しくて後回しにでもなったのだろうか?。ちなみにこの時点での工作機械では量産が難しかったために、アメリカのプラット&ホイットニー社から最新型の工作機械を明治30年に輸入している。この措置は大成功で、後の日露戦争でライフル不足に陥ることはなかった。

 制式採用されても即量産には入らなかった。量産に入ったのは明治31年10月からで、8ヶ月も遅れた理由は、制式化された後も試験が行われていたせいだろう。実際、制式化の後も死馬に対して射撃実験を行い銃創の具合を調べている。

 量産の開始は明治31年10月からで、翌11月には早速、陸軍に引き渡されている。言うまでもなく、一番初めに引き渡されたのは日本陸軍のエリート師団である近衛師団だった。一般の師団には(当時は旭川から熊本まで7つの一般師団があった)翌年の明治32年4月から各師団26丁ずつ(司令部付に2丁、各歩兵連隊に6丁ずつ。ちなみに当時は1個師団には4個歩兵連隊があった)が引き渡されている。4月という時期には意味がある。当時は1月10日が入営日で、ここから3ヶ月間新兵教育があり、第一期検閲が4月に実施され、ここから新兵は卵からヒヨコになる。つまりは自分のライフルを渡されて訓練をうけるということで、教育訓練用として渡された。ただし、歩兵連隊に6丁ずつということは、中隊に1丁は行き渡っていないということで、どういう運用であったかはわからない。しかしながら、30年式小銃の量産は実行されており、同年から翌年にかけて、各歩兵連隊に362丁配付されたから、本格的な訓練に供されたと考えられる。

 この頃、世界情勢は大きく動いていた。日清戦争の勝利まもなく、獲得した山東半島を返還せよとフランス・ドイツ・ロシアが圧力をかけて返還せざるを得なかった。それだけならいいが、ロシアはぬけぬけとその山東半島の旅順港を借用し、中国東北地方(いわゆる満州地方)へと駐兵していた。日本陸軍は太平洋戦争開戦まではロシア(ソビエト)を仮想敵国としており、その準備は進めてはいた。ただ「仮想敵」から「現実的脅威」となりつつあった対ロシア戦では普通に考えても兵力面で劣っているのは目に見えていた。編制面からは師団を組み合わせた軍の編成とその運用だった。当時の日本ではそうした運用が成されておらず試行錯誤が続いていたが軍の運用は対ロシア戦では絶対に必要とした。また、兵士の訓練面からも、30年式小銃の射撃訓練を徹底的に行い、一発必中を是として散開戦闘を主とした訓練を行っていた。ただ、ロシア軍には世界に名だたる精鋭「コサック騎兵」がいた。散開した兵士は騎兵の突撃に弱いのは戦訓で承知の上だったから、その散開した兵士を号令の元に集結させ方陣を組ませて銃剣を敵に突きたてる訓練も行っていた。

 明治36年、中国東北部からのロシア軍撤退交渉は難航していた。ロシア側の態度からして撤退する気のないことを実感した日本側は開戦準備を進めていた。ただ、勝てる保障などはないし、そもそも両国とも本格的戦闘は望んではいなかった。そこで日本側は、日本に滞在していたクロパトキン大将に東京砲兵工廠を見学させた。日本側の意図としては意図的に兵器を大量に生産していないように見せて、「私たちはあなたがたと戦争する気はないですよ」と思わせる事だったとされる。ただし、クロパトキン大将は30年式小銃の生産現場を見て、「日本でもこんな近代的なライフルを作っているのか」と驚嘆したという。この報告はロシア本国にもなされたと言われている。
 当時、極東に進出して、不凍港の旅順港がある大連(ターリェン)一帯をどうしても手に入れたかったロシアと、朝鮮半島の安定化のためにどうしても中国東北地方からのロシア軍撤退を望んだ日本の条件が擦れあうわけもなかった。明治36年12月。両国ともにもはや交渉の継続は不可能と判断。戦争へのカウントダウンが始まった。

 明治37年2月。日露戦争開戦。日本軍兵士は6.5mm口径の30年式小銃を、ロシア軍は7.62mm口径のモシン・ナガンM1891ライフルを手にとって戦った。この戦いでは旅順港攻防戦がよくクローズアップされる。たしかに日本とロシアにとっての天王山は旅順港であり、両軍はこの攻防で文字通りの死闘を繰り広げた。ただ、野戦も頻繁に行われた。当時の戦いは、まず両軍の大砲(野砲)が火を吹き距離を詰め、そして我彼共に距離がある程度詰まったら機関銃の射撃、さらに距離が詰まったらライフルの射撃、最後には銃剣をかざしての白兵戦となると考えられた。実際にその通りだったが、大砲の性能ではロシア軍のほうが上で、特に射程距離では1km以上も差があったのだから、日本にとっては大きな不利だった。機関銃の撃ち合いではほぼ互角を演じたが水冷式でベルト給弾式のロシアのマキシム型機関銃の方が上だったと言えるが、絶対的に数が少なかったので両者ほぼ互角といえた。決定的だったのはライフル性能だったと言える。日本の30年式小銃は水平射撃した場合500m先では1.2mドロップ(沈下)した。ロシアのモシン・ナガンM1891ライフルは同じ距離で1.5mドロップした。ドロップ補正は照準器で行えるが、ドロップが小さいほど命中精度が高いといえた。なぜなら、日本の30年式小銃では300mに照準を固定して撃っても、立った兵士が目標ならばその体のヘソあたりを狙って撃ちさえすれば600mぐらいまでは照準補正などいらずに撃てた。距離が近かろうが遠かろうが相手のどこかに当たる。

 日露戦争での両軍を比較した場合、当然と言おうかロシア軍の方が総合的に上だった。特に大砲性能では抜きん出ておりアウトレンジ攻撃を幾度も受けたという。奉天での決戦では兵力では日本軍は劣っていたが、結果的に勝利した。機関銃の装備数が日本軍の方が上だったこともあったろうが、一番の功績は30年式小銃にあったと言える。
 30年式小銃は命中精度がいいのは前にも触れた。またボルトアクション式で連発性も良く、日本軍が一番恐れていたコサック騎兵さえも近寄らせなかった。騎兵は馬に乗るし匍匐前進なんて絶対にしないから遠くても狙えた。射手の視力にもよるだろうが、だいたい800m先でも狙えたといわれる。800mと言えば騎兵突撃で50秒もあれば到達できる距離だが、50秒もあれば30年式小銃は10発以上は撃てた。騎兵突撃の際はライフルは撃たないから歩兵は安心して照準をつけられたからもはや騎兵の突撃は無意味だった。結果、コサック騎兵は決定的な活躍はできなかった。
 日本側も「ロスの騎兵!方陣作れ!」という号令が戦前にはあったが、日露戦争緒戦以降はこの号令は発令されなくなったという。騎兵戦用に密集陣形を作る必要がなくなったということは、十分に散開戦闘が出来ると言う事になる。命中精度が高く連発して撃てた30年式小銃だからこそ散開して決戦に臨めた。対するロシア軍は騎兵突撃や歩兵の突撃に備えて密集陣形を敷いたから兵力の多さを生かせなかった。奉天での戦いで兵力に劣る日本軍がロシア軍を包囲殲滅前までもっていけた理由はここにあった。まさに日本陸軍は30年式小銃で勝利を収めたといっていいだろう。

 ただ、実戦の洗礼を受けていくつかの欠点が指摘された。まずは中国東北地方の微粒子の砂塵に弱く機関部に入りこんで少なからずボルト操作に影響を与えた。また、ボルト部分の部品は8点で構成されていたけども、その中の尾部の部品が脆いのが指摘されていた。また8点では部品構成が多すぎるという指摘もあった。ちなみに、後者2つは現場での文句は来なかったので厳密には欠点とも言えないのだろうが、やはり現場で指摘があがるよりは素早くリファインしていたほうが良かった。この30年式小銃に埃避けのダストカバーを設けて、ボルト部品を5点にしたのが名銃38式歩兵銃だった。

 30年式小銃は絶対互換性がなかった。つまりは壊れた30年式小銃の使える部品を取って組みたてても上手く作動しなかった。製造時に仕上げの際に熟練工がヤスリで丁寧に1銃1銃ごとに仕上げを行っていたからで、これは当時の工作機械があまり精度が良くなかったことによる。そのために、ボルト部品8点全てに銃本体と同じシリアルナンバーが打たれていた。もっとも諸外国においても似たり寄ったりだったので、さしたる欠点でもなかったと言える。

 30年式小銃は日露戦争後しばらくは日本陸軍の主力ライフルとして配備されつづけた。38式歩兵銃は明治39年(1906年)に生産が開始された。ちなみに、30年式小銃と38式歩兵銃はボルト部分以外はほぼ同一だったので、残った30年式小銃もボルトのみを交換して38式歩兵銃として使われ続けたと言われている。

 30年式小銃は日露戦争で大活躍したにもかかわらず、後の38式歩兵銃が有名になりすぎたのでどうしてもその影に隠れたイメージを受ける。そういう意味では30年式小銃は不幸であったと言えなくはない。