44式騎兵銃
性能:

全長           966mm
銃身長          480mm
重量           3.73kg
使用弾薬      6.5mm×50
装弾数            5
初速          708m/s


左の絵は自作です。
騎兵部隊の行軍時の44式騎兵銃の携帯方法はこういう風にやっていました。
 本銃の制式名は四四式騎銃である。ただし本文では44式騎兵銃と呼んでいるので注意してほしい。

 かつて、南米にあったインカ帝国はスペインの侵略で滅んだ。インカ帝国は遺跡から見る限りでは当時としては驚異的な技術力を持っていた。特に天文分野などは西洋のそれとは計り知れないほどの知識を持っていたといえる。ただし、そんな技術・文化を持っていたにもかかわらず、鉄を知らなかった。また馬も知らなかった。少数のスペイン騎兵にインカ帝国兵士が逃げ惑ったのも、それが理由だったといえる。

 今では馬は軍事用としてはほとんど使われなくなったが、日本でも「人馬一体」という言葉があるように馬は人間にとっては欠かすことの出来ない動物だった。無論、戦争から農耕まで幅広く役立てた。戦争では、決戦兵種として騎兵は欠かすことの出来ない存在だった。火縄銃が発明されてもなお騎兵は戦場の主役となっていた。騎兵は機動力があるし、騎兵の突撃は相手をビビらすには効果的だった。17世紀頃のフランスとスペインとの戦いでは攻めこまれたスペイン軍は火縄銃を使って散開してのゲリラ戦術をとったが、散開した歩兵やはり騎兵の突撃には弱く敗北を喫したこともあった。
 時代は現代に移って、NHKの歴史番組で織田鉄砲隊と武田騎馬隊の紹介があり、その実験で200mの距離での騎馬武者の全力疾走と鉄砲の装填はどっちが早いか?というのがあった(200mというのは当時の火縄銃の有効射程と言われた距離)。鉄砲の射撃音を合図に鉄砲足軽の方に騎馬武者を全力疾走させた。無論、実験なのでその鉄砲足軽を横切る形で騎馬を駆け抜けさせるわけで、鉄砲足軽の方は別に狙って撃つ必要はないのだが、その実験では騎馬武者の方に狙って撃っていた。ようは射手がビビってしまったからだが、このように実際に殺されないのは分かっていてもこれだから、戦闘状態になっての騎兵突撃は我々が考える以上の威圧感があったろう。

 また、自動車がほとんど発達していなかった時代にはその機動力は魅力的だった。その機動力を生かして敵の後方や側面に回りこんで攻撃するという戦術もとられた。騎兵の戦いといえば、サーベルを持って突撃して敵兵を斬るというのがよく想像される。たしかに槍は一撃を外した場合が無防備だし、だいいち長い槍は邪魔でしかない。ただ、火縄銃時代においても騎兵にサーベルの他に銃を持たせるのは案外有効で、火縄銃登場の初期から騎兵に火縄銃を持たせている国もあった。当時の火縄銃は重たく長いが、騎兵のそれは特別に作った軽い短いものだった。射程距離では劣るが、馬上で操作するにはどうしても必要だった。その目的で作られた銃は俗に「カービン銃(騎兵銃)」というが、そのために普通のライフルよりも短いライフルは騎兵がなくなった今でもカービン銃と呼ぶようになった。

 ボルトアクションライフル時代においても騎兵はまだ存在したために騎兵用のライフルは必要だった。日本では22年式村田銃から歩兵用と切り詰めた騎兵用を分けてライフルを生産していた。騎兵には短いライフルが有効というのは上でも書いたが、1つの問題点があった。それは銃剣の問題で、当時でも騎兵といってもいつも馬の上で戦闘をしているわけではなく、地形や戦況によっては下馬して戦う必要もあった。つまりはライフルに着剣して敵の突撃に備えることも考慮する必要があったが、騎兵には他にサーベルが装備されていた。つまりは銃剣とサーベルの2重装備という問題があった。

 日本の場合、日露戦争までは騎兵は銃剣を装備していなかった。上で書いたように軍刀との2重装備を避けたためだが、これでは下馬してからの突撃行動には対歩兵戦では不利だとされた。当時からして野戦では銃剣戦闘はほとんど起こり得なかったのだが、現在でも着剣装置があるライフルが採用されていることを考えてみると、やはり銃剣は必要なのだろう。また、着剣することによってたとえば塹壕や建造物なんかで曲がり角に潜んでいるなりした敵兵に対処するにも銃剣は必要だったのだろう。だいいち、威嚇させるという面での効力は多大だったのだろう。
 日露戦争が終わってまもなくした明治41年1月から、騎兵銃に銃剣を付属させようとする開発がスタートした。参考にしたのはイタリアのカルカノM1891カービンとされる。38式騎銃を元にして、これの銃身下に折りたたみ式銃剣を装備させて、44式騎兵銃が完成した。

 44式騎兵銃は当然ながら騎兵部隊に装備された。これで騎兵も軍刀と銃剣の2重装備の心配がいらなくなった。だが、大正中頃になってくると別の問題が発生した。時代が進むにつれ、騎兵でも下馬戦闘の必要性が出てきた。下馬戦闘とはようは歩兵と同じ戦い方なのだが歩兵のように戦った場合、44式騎兵銃の命中精度が悪いという問題が表面化した。どの程度命中精度が悪かったかは数値で示せる資料はない。だけどよほど問題になったぐらいだから相当悪かったのだろう。44式騎兵銃は折りたたみ式銃剣のために銃口部分にどうしてもガタがきた。そのために銃の上帯(銃口部分の銃身と木の銃床を結合する金具)の構造を試行錯誤してなんとかガタがこない上帯を完成させた。また衝撃対策も各部で施され(具体的どうしたかは分からない)精度問題は昭和になってやっと解決した。
 ただ、残念ながら、時間がすでにその2重装備問題を解決してしまっていた。昭和になると各国で完成された軽機関銃が完成し、その配備も分隊レベルに達していた。早い話がどんな小部隊でも機関銃を配備しており、散兵戦術を行っても火力的には問題がなくなっていた。かつては兵が散開するとどうしても騎兵の突撃には弱いという弱点があったが、こうなっては馬上での突撃はその行為自体が自殺行為となっていた。つまりは騎兵は馬で移動するが、先頭時は下馬して戦う以外になかった。もはや騎兵には普通の騎兵銃と銃剣を持たせればそれで済んだ。さらに不幸だったのは騎兵自体が不要になりつつあった点にあった。騎兵連隊はやがて捜索連隊となってゆき、装備も馬から装甲車へと変わっていった。ただし、騎兵銃自体の需要はなくなったわけでもなく、狭い装甲車の中ではこの全長1mを切るライフルの存在意義は大きく、それなりには配備されていたと考えられる。

 命中精度の他に44式騎兵銃の欠点は他にもあった。折りたたみ銃剣がそれで、別に折れやすいという訳でもなかったが、この折りたたみ銃剣は人を刺す以外に使用用途がなかった。つまり、缶詰を開けたり、菜っ葉を切ったり、地雷探索をしたりすることができなかった。銃剣戦闘がほとんど行われなくなった今でも兵士に銃剣を支給しているのは、そういった多用途性があるからに他ならない。

 44式騎兵銃の生産自体は38式歩兵銃が生産中止になるまで行われていた。正確な総生産数はわからないが、年度別の生産実績を見ても38式騎銃の10分の1ぐらいしか生産されていなかった。恐らく総生産数は10万丁にも満たなかったろう。

 最初にも書いているが44式騎兵銃の制式名は四四式騎銃だった。略称で騎銃(きじゅう)と呼ぶと機銃(機関銃)と紛らわしいので現場の兵士たちは騎兵銃と呼んでいた。そのために誰が言うまでもなく「騎兵銃」という名称が定着するようになった。