99式小銃
性能:

全長      1118mm
銃身長      657mm
重量       3.73kg
使用弾薬  7.7mm×58
装弾数       5
初速       730m/s


左写真は千葉県佐倉市の
佐倉城跡にある
国立民俗博物館展示物。

写真がブレてますが
勘弁してつかぁさい
('Д`)y-~~~
↑特徴の単脚。実際に使われたからか曲がっている。
曲がり具合からして、曲がったのを手で戻したと考えられる。
折れやすい材質ではなかったのが兵士にとっては救いだったろう。
 第二次大戦が終了する直後あたりまで、列強諸国のライフルの口径は一部を除き7.5mm〜8mm程だった。それには理由がある。これらの歩兵用ライフルは19世紀末に作られたのが殆どで、当時の戦いは集団を組んで進撃を行っていた。当時は狙撃という概念があまりなく(あるにはあった)その集団を狙って射撃を開始しながら進撃していき、銃剣突撃で決着をつけるというものであり、照門に2000mという人間が点にも見えない距離の照準があったのは集団を狙えさえすればいいという考えがあったからによる。決して無意味な照準距離ではなかった。
 ただ、戦争形態の変化が発生する。ライフルの発射速度の向上は銃剣突撃が起こりにくくなっていった。つまり射撃のみで決着がつくようになっていった。これは射撃速度の向上は射撃による死傷者の増大を意味することになる。つまり集団を組むと的になりやすいということで、徐々に戦いでは集団を組まなくなった。兵士を集団にさせたのは騎兵による突撃を防ぐためだが発射速度の向上は騎兵を近づかせなかった。
 これが顕著だったのが普仏戦争で、この戦い以降はライフルも単発から連発(弾倉に多くの弾を込められること)になった。戦略面では国民皆兵制や動員などが革新的となり、戦術的には散兵戦術がとられた。

 また、19世紀末には無煙火薬が発明されて銃弾の初速が飛躍的に向上。運動エネルギーの増大で銃弾を小口径にできた。逆に言えば初速が増すと反動も増すので小口径にしないといけなかった。無煙火薬が発明される前は10mmを切る口径のライフルは滅多になかった。初速が遅いと大口径にして銃弾の重量を重くしないと威力が期待できなかったわけで、無煙火薬の発明で初速が軽く600m/sを突破すると10mm以下にできるようになった。各国ともにいろいろな口径のライフルが試作されて、軍のテストを受けて適当と思われる口径が各国で採用された。今でこそ各国で銃弾が共通化されているが、当時は各国共にバラバラで、口径が同じでも薬莢の長さが違うなど細部で異なった。6mmあたりから9mmあたりまでいろいろな口径のライフルが試作されているが、7.5mm〜8mmあたりに落ち着くことになる。これは試行錯誤の結果と言えるが、実際の所はこのあたりが反動に適応できる人間の限界なのだろう。銃を重くすればより大きな反動にも耐えられるが実際のところは銃を持ち歩いて移動する関係上重くするわけにもいかないからでもある。
↑ライフルの中央部。くびれているのがわかる。
持ちやすく評判はかなり良かった。
 その中で6.5mm口径のライフルを採用する国がいくつかあった。日本、イタリア、スウェーデン等の国で、各国ともに採用した経緯はよくは分かっていない。「テストして好成績だったので採用した」と言えばそれまでだが、実際の所は人間相手であれば6.5mmでも十分な威力があると判断されたからだろう。たしかに、日本での実験では6.5mm弾は2500mまでなら人員を殺傷する威力があるという結果がでている。

 当時の趨勢は7.7mmクラスのライフルが主流であり6.5mm口径は小口径であった。これは後々に5.5mmクラスにライフル弾の口径が落ちることを考えれば先見の明があったと言えるが、当時としてはフライングであったといえる。
 機関銃の登場は7.7mmクラスのライフル弾を要求した。昔の機関銃は歩兵用としてだけではなく、航空機や車両を狙う必要があった。口径が大きい方が威力があるのは自明の理で、機関銃弾とライフル弾は補給の関係上あわせる必要があったため、6.5mm口径は主流とはなり得なかった。第二次大戦前に日本やイタリアでボアアップしたライフルを製造・配備したのもそれが理由といえる。両国とも結果的に第二次大戦中に更新されることはなかった。これを多くの人が「準備もなしに戦争を始めた」とけなす向きもあるが、基本的に軍備と戦争(政治)は管轄が違うために責めるのはお門違いだろう。政治的に戦争の絶好のタイミングなのに「いや〜、装備更新がまだなので戦争は待ってくださいよ〜」というのはバカげている。


 99式短小銃は38式歩兵銃の後継のライフルである。なぜ”短”がつくかと99式小銃として採用された分は全長が1258mmと長かったのを少し切りつめて製作して採用されたからである。ここでは、99式小銃も99式短小銃も”99式小銃”と呼称する。

 99式小銃は重機関銃弾を小銃弾として使えるように配慮していた。補給と生産の関係上だが6.5mmから7.7mmにボアアップするのだから反動の増大は避けられず反動の抑制が1つの課題だった。試作品には銃床に緩衝バネを装着したものや、大砲のような制退器がつけられたものもあったが、反動の抑制以前に命中精度が悪くなり早々に諦められた。結局、反動の抑制は銃弾を新規に作ることで解決を図るのだが、本末転倒もはなはだしいような気もする。ちなみに99式小銃は92式重機関銃の弾を撃つことはできる。
 試作時点では前述したように1258mmだったが、試作途中から歩兵銃と騎兵銃という区別をしないようにして統一させようという動きがでた。そのために量産型では多少短くなっている。ただ、それでも長かったためか38式歩兵銃から99式小銃に生産が切り替わった後でも38式騎兵銃の生産は続行されている。これも本末転倒が甚だしいような気もする。
 試作・試験は継続されて、昭和14年中頃には実用の域に達して昭和14年7月15日に仮制式を具申している。実際に制式採用された日はわからない。

↑見づらいが、照門が丸になっている。照準しやすいと兵士には評判がよかった。倒すと零距離射撃で、遠い目標を狙う際は起こして距離に応じて照準を変えた。実際の戦闘では普段は倒しておき、遠距離での戦闘になったら起こして使っていた。遠距離ならば照準を起こす時間ぐらいはあるためである。
 完成した99式小銃は38式歩兵銃と比較して外見的には似ているものの、いくつかの相違があった、外見的に違う所は、装備に単脚が付けられたという事である。後世の本格的なのと違って針金で作られた単純なものだった。また、基点が銃身の真ん中らへんだったので少し動かすと相当に照準がズレるため実際的に使えたかは分からず、現実には使われなかった。
 照準器も普通のに加えて対空射撃用の対空照尺が付けられていた。機関銃ならともかく、単発射撃のライフルでどの程度使えたかは疑問が残る。というよりまぐれ当たり以外の命中弾はなかっただろう。太平洋戦争中には歩兵のライフル射撃で航空機を撃ち落した事例もあるが、これは38式歩兵銃での戦果らしい。この対空照準器はムダだと製作側も分かったのか、大戦中頃以降の生産型では付けられる事はなかった。
 中身では99式小銃は銃身内部と薬室(発射時の弾を収める所)にクロムメッキを施しており耐久性は非常に高まった。また38式歩兵銃に比べて、銃身の肉圧も厚くなっているとの文献もあるが、重量はさほど変わっていないので、本当に肉厚になっているのかは分からない。
 99式小銃は内地の部隊から適宜配備されていったが、完全に38式歩兵銃にとって変わる事はなかった。装備更新は補給の問題上、師団単位で行うために戦場にいる部隊にはなかなか配備されなかったと考えられる。中国戦線や太平洋戦線でも登場したらしいが、38式歩兵銃との混在は補給に混乱をもたらした。救いは、威力が確実に向上している点で、38式歩兵銃だと、トラックに命中させても穴があくだけだったが99式小銃では炎上させたという。
 戦争中も主力兵器だった99式小銃は大量に生産され、ご多分に漏れず改悪品が出回った。まずは対空照尺の廃止。これは仕方がない。照門の固定式も行っている。これは長距離を撃つ場合、何もない空中を狙う必要があるため問題だったとも思えるが、当時からして歩兵戦闘は300m以内が大半とわかっていたので致し方ない改悪と言える。99式小銃は1400mまで照準があったがとある兵士は「狙撃銃ならともかく、一般の歩兵銃で500m以上の照準が必要なのか?」と疑問を呈している。そういう意味でも止むを得ない改悪といえるのだが、今の歩兵用ライフルでも、エレベーション(上下調整)とウィンテージ(左右調整)の他に遠距離用と近距離用で照門を切り替え可能になっているのが殆どなので、固定式照門は若干の不利があったとも言える。ボルト部分は38式歩兵銃と機構的に同一なので、撃針はボルトを引いて押し込むときにシアに引っかかって引っ込む方式だった。改悪品にはシアのかかりが悪く撃針が引っ込まず、ボルトを押し込んだら暴発したというのもあった。仕上げも相当に悪くなったと言われている。もっとも、昭和20年になると竹やりを持たされた兵士もいたというから、弾の出る鉄砲を持たされるだけマシという風潮もあったのではなかろうか。

 昭和20年8月の終戦で日本の兵器はここに終焉を迎えたのだったが、99式小銃はまだ歴史があった。東南アジアに残った日本軍はその場で武装解除され帰国したけども、武器は置いたままだった。ベトナムやインドネシアなどでは、始末が悪いことに現地民が日本軍から軍事教育を受けていたこともあって、欧州の再支配に抵抗し、この99式小銃もつかわれたという。ただ、弾薬の補給は一切ないのでベトナムなどではサッサと使われなくなったらしい。
 日本本国でも、アメリカ軍の進駐で兵器の大半が廃棄処分になってしまったけども、99式小銃は廃棄を免れたのも多かったようで、昭和25年の朝鮮戦争の勃発では約13万丁が小改造を行って朝鮮半島の戦場に送られた。小改造とは、99式小銃の7.7mm×58弾ではなく、アメリカ軍の.30-06(7.62mm×63)弾を撃てるように、薬室を薬莢の長さに合わせて削ったのだが、銃身は7.7mmのままだった。ようは0.08mmの隙間があったから、当然射撃精度も悪くなったし、同じ銃で威力のある弾を発射するから反動も相当に強く、評判は良くなかったものの、それでも初期の混乱では銃器が満足に集まらなかったから仕方なく使われた。M1ガーランドが到着すると適宜交代されていった。また、警察予備隊(今の自衛隊)にも配備されていた時期があった。

↑土浦の陸上自衛隊武器学校にある99式小銃と99式短小銃。なぜかダストカバーと単脚が欠落している。
銃床が微妙に異なるが、制式図を見ても両者は同じであり、これは製造場所による違いと考えられる。

 99式小銃は38式歩兵銃と比べると利点がいくつかあった。
 まずは重量。200gほど軽くなった。多少ではあるが、持つ兵士にとってはかなり軽く感じたという。歩兵用ライフルというものは撃つよりももって歩く時間のほうが圧倒的に長いので、これはかなりの利点であったと言える。
 銃の中央部が細くなり、捧げ筒の際に右手の部分がかなり持ちやすくなった。
 照門がV型から丸型に変更になった。これは個人差が大きいが丸型のほうが照準しやすいと評判は良かった。AKシリーズはV型が多いが世界的に見ても丸型が多いことを考えればこっちのほうが照準しやすいのだろう。
 99式小銃は38式歩兵銃と違って完全互換性のあるライフルだった。完全互換性とは、どっかの部品が壊れたらそこだけを交換すれば修理完了というもので、今では当たり前だが当時としては画期的だった。さすがに銃身の交換はできなかったが、当時の銃身の寿命は8000発程度といわれており、この弾数であれば、新兵に新銃を渡せば銃身が寿命を迎える前に戦争が終わるだろうから問題はなかった。

 欠点もあった。
 本文でも触れたが単脚(モノポッド)が役にたたなかった。長さの調整ができたのならまだ使えたのかもしれないが、高さは固定式でしかもかなり高く設定していたため、普通の伏せ撃ちでは物理的にも使える代物ではなかった。ただ、本当のこの単脚の欠点は別のところにあった。単脚は兵士の任意使用で指揮官から使えと強制されないので使いたくなければ使わなければいい。官給品なので勝手に外せないが、さほどの重量でもないので苦にはならない。何が大問題かというと、2脚の基部がちょうど手に持つ所にあるので手入れを怠ると錆びが発生するという点だった。無論、錆びたままにしておくとその兵士の運命は言わずと知れたことだが、そういう点で兵隊泣かせであった。
 ボアアップしたのだがら反動が増大した。撃ち比べた兵士の証言では99式小銃は38式歩兵銃と比べて多少反動が強かった程度という感じだったという。ただ、38式歩兵銃のみを撃った兵士の証言だと反動の話はあまりなく、あっても「反動の強さよりも初めて銃を撃ったという心の衝撃が大きかった」などあまり反動に関しては言及していないが、99式小銃だと「反動が強く肩が痛くなった」という証言している兵士が多い。実際、新兵訓練の際には「肩付けのしかたを間違うと鎖骨を骨折するぞ」と訓練教官が脅すというのがしきたりとなっていた。ただ、鎖骨を骨折したという兵士の話は聞かない。