ドライゼM1862
写真ないっす(;_;)
性能:

全長      1365mm
銃身長      840mm
重量       5.00kg
使用弾薬    17mm
装弾数        1
初速      295m/s
 銃の出現は戦闘に大きな影響を与えたといわれる。当時の弾は加工しやすい鉛弾が使われていたが、鉛は毒のために人体に命中した場合、その個所が致命傷でなくとも死に至らしめた。ちなみに、毒であるのは後になって知られるようになり、銃創(銃弾の傷)の場合の処置方法は、煮えた油を弾痕に注ぐという方法が取られた。よく考えなくても拷問と同義の治療方法で、これで命を落とすものもいただろう。普通に考えても「銃弾を受けたらイヤだな」と思うのは当然の理であり、相手が大量に銃を持っているという点での心理的威圧感もまた大きかった。
 また、発射音が凄まじく、人間はもとより、特に馬は臆病な生き物なので銃撃の音に慣らしておかないと、戦場ではビビッて逃げることもあった。

 ただし、全ての兵が銃を持って戦う時代にはなかなか到達しなかった。その理由はいくつかある。火縄銃は文字通り火縄で点火させる。火縄銃は自分で火薬と銃弾を詰めこむために火薬と銃弾は別に持ち歩いていた。銃弾はともかく、火薬というのは火花を受けても大爆発を起こすから、火縄銃兵はお互い間隔をあける必要があった。最低でも1.5mはあける必要があった。密集体系ができないから、騎兵の突撃に弱いという欠点があったために間には槍兵を置く必要があり銃兵のみというわけにはいかなかった。やがて銃剣が開発されると槍兵はいなくなった。火打石式銃が発明されたし、パーカッションロック式銃も発明されていくと兵士間の距離は詰めることができるようになった。騎兵の突撃には銃剣を突き立てた槍衾で対抗ができた。また、一列横にずらりと並んだ銃兵の一斉射撃は敵に近寄りがたい威圧感を与えるに十分だった。

 18世紀から19世紀初めにかけての銃撃戦は塹壕に篭ることがなく、立射が多かった。普通に考えても死傷者が多くでるんだろうなというのは分かりきったことで、実際、この頃の銃撃戦だけでも死者が2割に達したという。負傷者を含めたら半分以上は死傷したことだろう。自分が死にたくなかったら相手を先に殺すしかない。ではどうすればいいか?。素早く弾を込めて素早く撃つ以外になかった。当時から精鋭として知られたプロイセン(ドイツ)兵は1分に5発も撃てたという。ただ、兵士個人の能力に頼るには限界があり、やはり銃自体の発展を望むしかなかった。

 前込め式の銃は普通に考えても装填の手間がかかるというのはわかりきっている。では銃尾から込めればいいではないかという結論に達するのだが、なかなかそれができなかった。その理由は発射ガスにある。作用反作用の法則でどこかに飛ばす力があるとその反対側にも同じ力がかかるというのがある。つまりは銃弾を発射するとその反対側・・・つまり射手にその力がくるということになる。その力は発射ガスであり、前込め式だと銃身尾は完全に閉鎖されているのでガスは銃を射手に押す力となるからそれは腕で受け止めることができる。ただ、当時はこの高圧の発射ガスを食い止める方法が前込め式銃でないとできなかった。後込め式だとこの高圧な発射ガスをシャットアウトできることができなかった。ただ、発射速度の向上にはこの後込め式銃は絶対に必要とした。銃剣を銃口に装着する関係上、操作面からも後込め式銃は必要だったと言える。19世紀の戦いは銃の性能が左右したために各国ともに開発に勤(いそ)しんだ。

 1つの答えが、プロイセンのニコラウス・フォン・ドライゼが開発したライフルだった。1830年代から開発が始まったと想像されるが、具体的にいつから開発されたかはわからない。1841年には完成し同時に量産が始まり配備されていった。型式名はなかったが、後の銃器史家が識別のためにドライゼM1841と呼ばれるようになった。ドライゼライフルは1869年に最後の改定が行われるまで最低でも7回は改良がされている。特に大量に作られたのは1841年型(M1841)と1862年型(M1862)だった。

 ドライゼM1841が生産されていた、1840年頃の世界情勢といえば、ヨーロッパに限っていえば平穏だった。ただ世界全体が平和だったわけでもなく、ヨーロッパ諸国は他の諸国を侵食していった。1840年にはアヘン戦争が起こり、イギリスは大清帝国を侵食した。この大清帝国の敗北をきっかけとしてヨーロッパ列強諸国は次々と干渉し、特にロシアは沿海州を条約を結んで獲得。イギリス・フランス・ドイツ等が中国で獲得した利権が中国に奪還されていったのに対して、ロシアが獲得した沿海州は今でもロシアの領土となっている。さて、これらヨーロッパ列強諸国は後の米ソ冷戦のような構図と違い、陸地で接している上にお隣同士だったという地勢上、陸軍の増強は必要不可欠だった。なぜなら、何かあったら即座に攻めこむ必要があったし、逆にいえば何かあったら即座に攻めこまれる可能性もあった。1860年代になると、たとえば1860年にはアメリカで南北戦争が始まったし、クリミア戦争も起こった。植民地争奪による現地軍との戦いだけではなく、大国同士の戦いも考慮しなければならなくなりつつあった。その頃にはドライゼライフルもM1862型へと進化していた。

 1870年、フランスとプロイセンの軍事衝突が起こった。いわゆる”普仏戦争”で、この戦いは大国同士が初めて後込め式ライフルで戦ったものだった。プロイセン軍はこのドライゼM1862ライフルを、フランス軍はシャスポーM1866ライフルを手に戦った。後込め式なので再装填が容易なせいもあり、この戦いで過去の戦いとは桁違いに弾薬消費量が増えた。1日の戦いで何十万発もの弾薬を消費するのは珍しいことではなくなった。消費量が増えたのだから当然発射量も増え、敵は余程でない限りは銃剣突撃することはなかった。フランス軍は銃剣突撃を1度だけ行ったと言われるが、プロイセン軍は1度も行わなかったという。恐らくは発射速度を訓練して高めていたのだろう。結局は翌年にプロイセン軍がフランスの首都パリを陥落させる事で決着。50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌ地方の割譲、そしてドイツ帝国の成立とプロイセン側が完膚なまでの勝利を収めた。ドライゼM1862ライフルはその勝利の立役者であったと言えるだろう。

 ただ、欠点もあった。ドライゼライフル(M1862型だけではなく全ての型)は薬包(薬莢)が紙でできており、その底部に雷管を装備していた。そのために発射時に発射ガスが射手に吹きつけるという欠点があった。そのために射手は恐る恐る射撃をしていたのだろう。閉鎖方法が不完全だったのも影響していたとも思える。実際、普仏戦争では騎兵がサーベルや槍をもっての突撃攻撃も有効であったと言われ、事実何度かそうした攻撃は行われている。当時のライフル性能では有効射程は200mちょっとで、またいくら装填が容易とはいえ1発1発込めていたのだから騎兵突撃を銃撃での阻止は難しかったのだろう。ただ、それはモーゼルが開発した閉鎖方式と装填方式で改善されるようにはなった。
 また、撃針が細い針状のもので何度か射撃したら折れてたんじゃないかなぁと思えなくはない。

 ドライゼライフルは初の近代的ライフルだと言えるが、不幸だったのは後に登場したモーゼルライフルがあまりにも有名になりすぎたので、その影に完全に隠れてしまったことにあるだろう。