モシン・ナガンM1891
性能:
(下記データは初期生産型)
全長     1303mm
銃身長     803mm
重量      4.37kg
使用弾薬 7.62mm×54R
装弾数         5発
初速         620m/s
左写真はアンディさんから
いただきました
ほんとありがとうございます
≦(_ _)≧

ちなみに、左写真は狙撃用で
ハンドルが曲がっています
 このライフルはロシア(帝政ロシア)のモシン少佐が機関部を設計し、弾倉部がベルギーのナガンによって作られたためこの名前がある。1891年に帝政ロシア軍によって制式採用された。とはいえ、近代的な設備がなかった当時のロシアでは満足に生産が行えずフランスやスイスに生産を依頼していた。しかし国際情勢は待ってはくれず、1900年には中国(当時の大清帝国)で義和団蜂起による戦闘「北清事変」が勃発。同年6月20日には清が列国に対して宣戦布告を行った。この騒動は首都北京だけにとどまらず万里の長城を超えてロシアが建設中だった東清鉄道(のちに日本の支配化になり満州鉄道と名前が変わった)も破壊された。ロシアの自作自演ではないかとも思えなくはないがこの破壊により東清鉄道の保護の名目で、中国東北部(満州)に軍を進入させた。この時も新鋭M1891は使われていた。その後にロシアはこの中国東北部に居座り、権益を獲得しようとしていた。これには日本も態度を硬化せざるをえなかった。とはいえ政府の一部にもロシアと妥協して朝鮮での権益を確保すべしという意見もあったが、結局日本はイギリスと手を結び、中国東北部のロシアと対峙するようになる。日英同盟は1902年1月に締結。ロシアはあせったのか同年4月には清政府に対して3回に分けて撤兵すると確約した。1次の撤兵は速やかに行われたものの、1903年4月が期限の2次撤兵、そして3次撤兵は結局行われなかった。これが日露戦争の直接的原因となる。
 1904年2月6日。日本軍は仁川に奇襲上陸部隊を送り、ロシア極東の要であった旅順に奇襲攻撃をしかけてきた。同年同月10日には日本はロシアに対して宣戦布告を行い、ロシアでも急速的に兵力を送るようになった。ロシア側は機関銃運用と陣地構築では群を抜いていた。結果日本軍の死傷者は日清戦争の頃とは比較にならないほどの数になった。しかしロシア軍の戦闘を見ると、日本軍の突進を恐れてか密集陣形で迎え撃っていた。日本側では30年式歩兵銃を手にとって戦っていた。前の22年式村田銃では連発能力が劣っていたが、モーゼル式の30年式歩兵銃は連射性に優れ銃弾の装填も楽で、可能な限り兵を散兵させ幅広い火力で数に劣っていた自軍の火力を広げていた。戦史の類では見出せないものの、ロシアの上記の生産状況ではとても全軍にこのM1891ライフルが行き渡ったとは考えられず、旧式のライフルも戦場に登場したのではないかと思える。密集陣形にしたのも劣った火力を少しでも密にするためとも考えられなくはないと思うのだがどうだろうか?
 この時の戦訓で13gの弾丸は9.6gに減らされた。結果初速が上がり低進性が良くなった。日本のライフル30年式歩兵銃の低進性のよさが影響したのだろうか?
 1914年には第一次世界大戦が勃発。同年8月1日にはドイツがロシアに対して宣戦布告を行い、6日にはオーストリア・ハンガリー帝国がロシアに対して宣戦布告を行い、彼らの兵がドッとロシア領内になだれ込んだ。一時期はロシア側もドイツとオーストリア・ハンガリー領内になだれ込んだものの、すぐに撃退され多くの死傷者を出してしまった。ここにきてライフル不足は深刻な問題となり、このM1891ライフルを当時中立だったアメリカに生産を依頼した。その数なんと約160万丁。今ならまず考えられない。しかし、そんな努力も空しく、1918年の単独講和までにロシア軍はドイツ軍を撃退する事はついになかった。(オーストリア・ハンガリー軍は撃退したようだが)ともあれ、ロシアが生産設備を拡充するのは国名がソビエトに変わった後の第二次5ヵ年計画の後だった。1930年頃にトラック生産数は欧州一となっている。
 その工業余力をもってだろうか、1930年にはこのM1891ライフルも改修が行われる。全長を短くしたのと安全装置や弾倉に改造が行われている。このタイプはM1891/30と呼称された。実際7センチほど短くなった。1939年に始まった第二次世界大戦で、このM1891/30は使用された。しかし1941年6月22日からのの独ソ戦ではソビエト側はドイツの奇襲攻撃に大混乱し、多くの兵員と物資を失う事になった。その穴埋めのため、ライフルよりもサブマシンガンに歩兵兵器生産を重点を置く事になった。しかし優秀なライフルには違いはなく、スコープを搭載したM1891/30狙撃型はスターリングラード戦などの都市戦では活躍をしている。戦線が安定してくると猛烈な量産を行ったのは想像に堅くないが、それでも当時の写真を見る限りではサブマシンガンとこのM1891/30が混在して使用されていたらしい。
 戦後は自動ライフルや突撃ライフルに押されて歩兵用としては採用されなくなったものの、狙撃ライフルとしては優秀だったので、後継の自動型狙撃ライフルのドラグノフが出現するまで使用されていた。