モーゼルM71
性能:

全長     1345mm
銃身長     850mm
重量      4.54kg
使用弾薬    11mm
装弾数       1
初速     440m/s
左写真はアンディさんから
いただきました
どうもありがとうございます
≦(_ _)≧
 銃というジャンルの兵器はだいぶ前から出現はしていた。火縄銃から始まり、フリントロック(火打石式)などと発達していったが、格段の進歩は遂げなかった。たとえば火縄銃隊と火打石銃隊が戦った場合、小雨が降ったら火縄銃隊が圧倒的に不利だが、晴天か風雨の時はほぼ互角だったといっていいだろう。両者とも発射速度や射程が極端に違ったわけでもなかった。銃が飛躍的な向上をしなかった理由は2つある。1つは点火の問題、もう1つは閉鎖の問題だった。

 火薬が発明されてから銃が出現したが、火薬自体を燃焼(爆発)させるには点火源が必要だった。この方法で昔の銃器設計者は行き詰まった。どう考えても外部からの点火源に頼るしかなかった。それは火縄から火打石に代わっても本質は変わらなかった。19世紀になってパーカッションロック式銃が発明されると、そこから誰かがヒントを得たのだろう。パーカッションロックとは、陸上競技に使われるあの「パン」となるああいった火薬を点火源にしたもので、これを銃内部に埋め込めば雨風など関係なく撃てるし発射ミスも減るだろう。と考えた人がいたのだろう。
 閉鎖の問題も何世紀にわたって銃器設計者を悩ませた。銃を発射するときには反動が来るのは誰でも知っているだろう。黒色火薬のデータがないので無煙火薬のデータを使うが、無煙火薬使用のライフル弾を発射するときの最高ガス圧は3500気圧以上にもなる。つまりは1平方センチメートルあたり3.5トン以上もの圧力がかかることになる。実際には一瞬の事なので射手にその反動が到達する頃には10何キロ程度に軽減されるが、たとえ一瞬だろうがその圧力がかかるためにそれに耐えうる仕組みが必要だった。ナポレオン時代以前のように銃口から火薬と弾を込めていた際は銃口後方はボルト(ネジ)を使って固定していた。掃除の際にネジを取れば簡単に掃除ができたし銃の量産も容易だった。ただ、なかなか後込め式に達しなかったのは当時の技術では高圧に耐えられる閉鎖方法がなかなかできなかったことで、無論、ネジを緩めてそこから弾と火薬を詰めてネジを締めて発射すればいいという問題でもなかった。そんなことするヒマがあるならば前から込めたほうがいいに決まってる。

 まず解決したのは閉鎖装置で、閉鎖装置は普通のねじ込みボルトではなく、ボルトにハンドルを設けて90°回転させて固定する方法が考えられた。それはプロイセン(ドイツ)ドライゼM1841で、その原型が完成した。このドライゼライフルは何度かの改定を経てM1862型で一応の完成を見た。このドライゼライフルは各国に少なからぬ影響を与えることとなり、フランスでも似たような閉鎖方式のシャスポーM1866ライフルが完成した。1870年から起こった普仏戦争ではこのライフル同士が撃ち合いを演じた。銃の性能でいえばシャスポーM1866ライフルの方が良かったが精鋭で知られたプロイセン軍がフランスの首都であるパリを制圧し、多大な賠償金とアルザス・ロレーヌ地方を獲得した。
 上でドライゼライフルが劣っていると言ったが、ドライゼライフルはスライドさせて弾薬を装填するがスライド方式では閉鎖が不完全で、なによりも薬莢にあたる部品が紙でできていたために発射ガスがどうしても後方に噴出した。後方とはようは射手に降りかかった事を意味する。

 ライフルの代名詞として知られる”Mauser”。パウル・モーゼルは普仏戦争時にドライゼM1862ライフルを手にとって射撃したことがある一兵士だった。実際に撃ってみて、発射ガスを顔に受けるのはどう考えてもイヤだったろう。後方噴射ガスを食い止めようというのは当然の考えだと言えた。モーゼルにとって幸運だったのはちょうどその頃に金属製の薬莢が発明された事にある。弾薬の金属ケース式は恐らくは過去にも多くの人が考えただろうが”点火”の問題がどうしても解決できなかった。雷管を設ければそこに打撃を与えれば発火した。この弾薬を使えば発射ガスの後方噴射はなくすのは容易だった。ただ、もう1つ課題があった。金属薬莢だろうとボルトでガッチリ固定していないと発射の衝撃でズレてしまって完全閉鎖の意味もなくなった。特に当時の火薬製造技術では不良弾も数多く作られたのは想像に固くはなく、ようは想定していた燃焼エネルギー(爆発力)以上の力がある弾薬をも射撃する可能性があった。これらに対処するにはドライゼライフルのようなスライド式では不完全だった。
 モーゼルはまずこのドライゼライフルの閉鎖方法から、過去に戻ったボルトを捻って固定する方法を考えた。無論、ネジを締めるように何回転もさせては発射に時間がかかる。モーゼルはボルト前方に突起を設けて90°回転させて銃本体と固定させる方法を考えた。この方法は大成功で、たとえ強装薬の弾を撃っても持ちこたえたし、また異常高圧(発射薬が一気に爆発してしまって、銃弾が銃口から飛び出す前に銃身内の圧力が高くなりすぎてしまう事。これが起こると銃身が破裂する可能性がある)が起きた際でも、たとえ銃身が破裂してそこから爆発的にガスが噴き出そうがボルトは持ちこたえるから射手の安全性は高まった。この閉鎖方式はボルトアクションと呼ばれ、俗に”モーゼルアクション”とも呼ばれる。この方法は100年以上たった今でも立派に現役を守っている。

 金属薬莢とボルトアクション機構を備えて完成したのがモーゼルM71ライフルだった。名前のように採用は1871年と考えられる。当時は普仏戦争でプロイセン側が勝利を収めた頃で、戦費の捻出に追われていたし、戦争に勝ったのだから早急な軍備拡張の必要性もなかったからか、採用には慎重論もあったと言われている。それでもなお採用された理由は、当時の皇帝ウィルヘルム2世が強引に採用を行ったからだと言われている。皇帝自身が銃マニアだからだとする向きもあるが、実際には当時、プロイセンを中心として出来あがったドイツ帝国は東(ロシア)に西(フランス)に北(イギリス)に南(オーストリアハンガリー)にと敵を抱えていた以上陸軍の増強は必要不可欠であり、特に大国ロシア帝国は(今の地図では分からないが、当時はドイツとロシアは国境を接していた)脅威であったろう。また、普仏戦争では、前のナポレオン時代と違って銃剣戦闘が雌雄を決する戦いではなく、銃撃でほぼ戦闘が決着していたせいもあり、今後の戦闘では銃器性能が戦局を左右するのは目に見えていたため、軍の上層部が皇帝にその(優れたライフルの)必要性を皇帝に説いて首を縦に振らせた可能性もなくはない。
 ともあれ、これで無煙火薬の発明によるライフルの飛躍的向上の障害は無くなったと言ってもいい。このモーゼルアクションがあったからこそ無煙火薬の発明による銃器性能の飛躍的向上が果たせたと言えるだろう。

 その後もモーゼルはいろいろと改良・新規開発を行った。モーゼルM71ライフルは単発のために、銃本体に何発か弾を込められるようにと銃身と平行にしたチューブ式弾倉(8発(9発?)装填できた)を設けたM71/84が作られた。ただし、チューブ式弾倉は残弾数で銃の重心が変わってくるし、8発めいっぱい込めた場合に重心が前にきすぎて行軍時の兵士の疲労もかなりあったと言われる。また、全弾撃ち尽くしたときの再装填に手間がかかるなど欠点が多かったために数年後に5発1パックを一気に装填できるGew88が制式化された。後の棒状クリップと違い箱型クリップごと詰めこむ方式だったが、さらに10年後に棒状クリップを用いて銃弾のみを装填できるようにしたGew98が完成して、ここにボルトアクションは完璧な完成を見た。最終型であるKar98k戦時生産型が使われた1945年までドイツ軍によって使われ続けた。ドイツ軍はモーゼルに始まりモーゼルに終わったと言えるのかもしれない。

 さて、肝心のモーゼルM71ライフルの方は8発装填型のM71/84が最終的な発展型で後にGew88やGew98がドイツ軍に制式化されると、予備兵器として倉庫に仕舞い込まれた。第一次大戦勃発(1914年)までには完全にGew98が行き渡り、第一次大戦中もライフル生産は怠り無かったために不足することはなく、倉庫から出されることはなく終戦(1918年)を迎えた。
 ただし第二次大戦ではそれまでとは比較にならない数の人間(兵士だろうとそうでなくても)が動員されるようになり、また、航空機・戦車・戦闘艦など他に作るべき兵器が数多くあった。さらに第二次大戦期のドイツの不幸は、アメリカ・イギリス連合軍による爆撃で工場や輸送網が破壊されていたために満足な数のライフルが作れなかった。大戦末期になると絶望的な状況下で、倉庫に何十年も眠っていたこのモーゼルM71/84や単発のM71でさえ国民突撃隊(子供やおじさんで編成された部隊)に支給されていたという。弾はとうの昔に生産を停止しており新規に作られたとは思えないし、火薬は年月がたつと腐る(発火しなくなる)ためにどこまで活躍したかはわからない。常識的に考えれば敵に一矢も報いることはなかったろう。
 しかし、最後の最後まで国家にご奉公したライフルではあった。