22年式村田銃
性能:

全長       1210mm
銃身長       750mm
重量       4.00kg
使用弾薬     8mm
装弾数        8
初速       565m/s


左写真は上が村田連発騎銃で
下が歩兵用の村田連発銃です。
 最初に断っておくが、本銃の制式名は「村田連発銃」だった。ややこしいと言うことで後に採用年度をとって「22年式村田連発銃」と呼ばれるようになった。ここでは22年式村田銃という名称を使うことにする。

 日本のライフルの歴史は幕末から始まった。ライフリングを施した銃身を使った銃自体は18世紀には盛んになるが、当時の日本はといえば、18世紀は元禄から始まっており、この元号から分かるように忠臣蔵を除いては平和な時代だった。そのためにライフルには全くといっていいほど興味を示さなかった。必要がなかったと言える。

 幕末になって、さすがに諸外国相手で槍と刀と火縄銃で戦うのは無理があるというのは、アヘン戦争で実証された。エンフィールド銃やスナイドル銃やシャスポー銃など雑多なライフルが輸入されていた。普通に考えて分かるように、数多くのライフルを兵士に種類の違うライフルを支給するのは問題があったし、だいいち銃弾ばかりは大量に浪費するし、現地調達も不可能なので銃弾自体は統一させる必要があった。当時、比較的親日であったフランスの銃であるシャスポーM1866ライフルを参考に、陸軍の村田経芳(むらたつねよし)が日本初の国産軍用ライフルを作り上げた。これは村田銃と呼ばれる。後に18年式村田単発銃と呼ばれた本銃は参考にしたシャスポー銃と同じく単発だったし、発射薬に黒色火薬を使っていた。

 明治18年(1885年)、フランスで無煙火薬が発明された。この発明は画期的だった。黒色火薬の燃焼速度は火薬調合比率と気象条件(温度とか湿度とか)で異なってくるが、だいたい300〜400m/秒ほどだった。早い話が、どんなに合理的に設計した銃を、銃弾を作ろうが、銃弾をこれ以上の速度にすることはできなかった。しかも黒色火薬は一気に燃焼(一般に爆発という)してしまうために、銃身内部で加速がつく時に燃焼しきってしまうので、その分初速は落ちた。また、黒色火薬は大量の煙を発生し、射撃したら次の弾を撃つ時に照準が大変だった。無煙火薬は名前のように煙がほとんど出ないし、燃焼速度もゆるやかで(皿の上で燃やすと分かるが、皿の上に黒色火薬を乗せて火をつけると「バン!」と爆発するが、無煙火薬は燃えるだけ。といっても「シュワシュワ〜」とすぐに燃え尽きるが)それでいて燃焼力が大きかったし、その燃焼力も安定していた。この火薬の発明で自動式銃器の開発が容易となり、また、ライフルの口径も小さくできた。
 ライフルの口径は無煙火薬の発明以前は11mm以上だった。上で書いているように初速を大きくできない以上、銃弾に重量をつけて飛ばしてそれで殺傷力を求めるしかなかった。無煙火薬の発明で銃弾が音速を超えて、一気にマッハ2以上になると銃弾に重量をつけなくても十分な殺傷力が得られるようになった。発明国フランスでの無煙火薬使用のライフルの開発は早く発明された。銃弾は8mm×50R弾を新規開発して、翌年の1886年1月23日にはルベルM1886として制式化された。諸外国でもそれに触発されて無煙火薬のライフル弾が開発されていった。日本も例外ではなく、明治20年(1887年)10月に陸軍は無煙火薬使用の連発ライフルの明治21年中の製作開始を政府に上申している。ストレートに言えば「来年までに連発銃作るから金よこせ!」という意味だった。当然ながら、開発期間はやたらと短く設定された。翌明治21年1月には小口径連発銃選定委員が選定。同年度中に3度も試験がなされた。このスピードぶりは官僚体質以前だからこそできたのだろうと思うのだが、同時に設計者に大きな負担となった。
 「早く作れ!」
 村田経芳大佐(当時)の苦労のほどが知れよう。

 構造は後で詳しく述べるが、今のショットガンみたいなチューブ式弾倉(前床管弾倉)を装備して8発装填できた。当時はドイツ・フランスでも同様な弾倉式ライフルだったので平均的だったといえたし、堅実だったと言えた。ちなみに、これが22年式村田銃の評判を落とす直接的原因となった。

 明治22年1月23日。後に22年式村田銃と呼ばれる「村田連発銃」は日本陸軍に制式採用。量産のペースに乗ったのは同年末からだった。ちなみに、この22年式村田銃は悪評が付きまとう事になる。それを知っていたわけでもなかろうが、開発した村田大佐は翌年に少将昇進・貴族院(今の参議院。当時は選挙制ではなかった)議員に選ばれる事と引き換えに予備役編入されて、その後に銃器史の表舞台に立つことはなかった。

 さて、22年式村田銃が最初に実戦を経験したのは明治27年(1894年)から始まった日清戦争からだったとされる。ただし、この時点で支給が完了していたのは近衛師団のみだった。終戦前には、前線に行かなかった第4師団にも支給が完了しているが、両方の師団ともに前線の戦闘には加わっていないので、本格的には使われなかった。つまりはほとんどの日本軍の最前線にいる兵士は単発の13年式村田銃で戦ったことになる。

 最初に本格的に戦場で使用されたのは明治28年の台湾鎮定作戦だった。近衛師団が主力として投入されたため、ここで初めて本格的な戦場の洗礼を受けたことになる。

 次に使われたのは明治33年の義和団事件(北清事変)で、大清帝国が各列強諸国に宣戦布告した時に多国籍軍として、また地理的に一番近かった日本が大兵力(といっても旅団レベル。1万人ぐらい)を送った時だった。ちなみにすでにその頃はチューブ式弾倉を使ったライフルは各国では使われていなかったため、「日本は後進国」と各国の軍上層部は思っただろう。後の日露戦争で日本を侮ったロシアはこれが原点だったのかもしれない。ちなみに、当時の日本は既に傑作ライフルである30年式小銃が完成・配備されており、恐らく動員に間に合わなかったのだろう。

 三度目にして最後に使用された戦いは明治37年(1904年)から翌年まで行われた日露戦争だった。この戦いの頃にはさすがに、最前線の兵士全てに30年式小銃が配備されていたが、後備旅団にはまだこの22年式村田銃が配備されていた。30年式小銃の生産が間に合わなかったからという説もあるがそれは正しくない。当時の日本における銃器製造所のメッカは東京砲兵工廠(小石川にあった)は日露戦争前から月産5千丁を生産していた。日露戦争開戦直前にここを訪れた、後に日露戦争でロシア極東軍の総司令官を務めたクロパトキン将軍も警戒文書をロシア本国に送っていたぐらいだった。日露戦争開戦前においても、一説には30年式小銃の在庫は25万丁あるとされた。それなのに22年式村田銃を使いつづけた理由としては、装備させた後備旅団は22年式村田銃で訓練を受けたからだろう。現実問題としては余剰在庫品を使い切ってしまおうという貧者の発想もあったろう。ちなみに、22年式村田銃は数にして1万6534丁が使われた。この戦いで銃を持った歩兵の数が18万9601人なので、9%弱が装備されてた事になる。

 後で詳しく述べるがこの時の評価は散々で、愛想つかされた22年式村田銃は日露戦争後に全て30年式小銃と換えられた。余剰になった22年式村田銃は全て中国(当時は大清帝国)に売り渡されて日本の銃器史から消えた。その後、少なくとも記録に残る限りでは戦場に出る事はなく、恐らく、中国でも後にはるかに高性能なボルトアクションライフルが購入されて、さらに後には自国生産がされたし他のライフルと使用弾薬も異なったために、雑多な装備で知られた中国軍でさえも使わなかったのだろう。

 そのために現存する22年式村田銃は極端に少なく、アメリカではコレクターが探し回るほどに希少価値があるものとなった。平成になって日本で無可動実銃ブームが起こった時に38式歩兵銃は相当な数が日本に輸入されたが22年式村田銃はついに輸入されることはなかった。



 22年式村田銃は上の写真を見ればわかるように外見的にはその後に登場したボルトアクションライフルとそう変わらない。原型のルベルM1886ライフルと違うのはチューブ弾倉が銃口と同じぐらいまで伸びている点にある。ここまで伸ばさないと弾が8発収まらなかったからかもしれないが、もうちょっとぐらい銃身を長くして収められなかったものなのだろうか?
 本文でも書いているように22年式村田銃はチューブ弾倉を使用している。これはショットガンと同じ方式で、銃身と平行に弾が収まっている。弾込めは機関部下から1発ずつ行う。ちなみに、8発込めてから薬室に1発手込めすれば9発にもなった。8発というのはボルトアクションライフルとしては多い部類であり結構有利に戦えるはずだった。
 しかし、日本陸軍の試験では8発込めるのに平均で14秒かかったという結果がある。モーゼル式ボルトアクションのKar98kの場合、自分で試した結果だといい調子の時には5秒弱、タイミングが悪いときだと9秒ちょっとかかった(ボルトオープンの状態からクリップ入り5発弾を弾入れから取り出して装填してボルト閉鎖して構えるまでの時間)。無論、戦場経験は無論の事、軍隊経験が全くない自分のタイムなど当てにはならないだろうし、当時の兵士はタイミングの悪い時などはないだろうからだいたい5〜6秒ぐらいだと想像される。つまりは22年式村田銃は1.75秒に1発、Kar98kは1.2秒に1発発射と、装弾数の有利さはなかったと言ってもいい。ただし、途中から継ぎ足せるという利点はある。たとえば撃ち方止めの時とかに継ぎ足せるし、また、射撃して前進して、突撃発起地点で待機している時にも便利だったろう。ただし、平時に弾倉に銃弾があるのは危険だから、大抵の場合は銃弾を抜くが、22年式村田銃は銃弾を取りにくいといった欠点はあった。

 22年式村田銃にはセレクターがあった。無論、フルオートのそれではなく、連発と単発モードがあった。このセレクター(正式には「搬筒匙軸転把」というややこしい名前)を単発にするとチューブ弾倉から薬室への装弾が止まる。なぜこういう機能が必要かというと、連発モードでは弾を薬室に押し上げるバネにテンションがかかった状態になるので、そのままにしておくとこのバネがヘタってしまうために通常は単発モードにしておいて戦闘状態になってから連発モードにした。また、日露戦争時の中国東北(トンペイ)地方(いわゆる満州地方)は砂塵が舞うし、その砂塵が結構細かい粒子状のものだった。38式歩兵銃にダストカバーがついているのもこの戦訓からだが、22年式村田銃の機関部にも容赦無く舞いこんだ。連発モードで使っていて砂塵が機関部に入ってボルト操作が不能になる銃が続発し、ボルト操作不能=射撃不能なので、それをいやがった兵士は意図的に単発モードにして1発1発弾を込めていたという。そのために日露戦争後になって、22年式村田銃を使った後備旅団の兵士たちの評判は最悪で「弾倉に予備弾が入っている単発銃」と酷評した。この酷評が今になっても定説となるほどだった。これは頻繁に手入れ(掃除)をすれば解決できたのだが、娑婆っ気の抜けていない現役でもない後備旅団にそれを求めるのは酷だったのだろうか。

 上記のように22年式村田銃の評価は悪い。ただ、あまり論じられないが一番の欠点は命中精度の悪さにあった。明治29年に行われた検閲射撃(師団長なり偉い人が兵士の訓練状況を確認する事)の成績をトータルすると単発の18年式村田銃のほうが命中精度が良かったという。決定的だったのは明治30年6月に行われた日本陸軍の射撃試験で、遠距離での残存エネルギーの確認のために、600m離れた死馬を狙って撃った所(ようはそれだけ離れて命中したら人体にどういう影響を与えるかどうかの試験)1発も命中しなかった。どんなに優秀な射手でも命中させることができなかった。ちなみに、22年式村田銃の照尺は2000mまで刻まれていたが、実質的に命中させられるのは300m程とされた。いくらなんでも制式採用されて8年後に初めて気づいたとは到底思えず、実際には兵士の士気を損ねないように隠蔽されたのだろう。22年式村田銃が最前線で主力ライフルとして使われなかったのはこの意味では救いだったろう。
 命中精度が悪い理由に口径に比べて銃身長が短すぎたのではないか?という意見もあるがそれは正しくない。真の原因はチューブ式弾倉にあった。無論直接的原因は銃弾なのだがチューブ式弾倉もその一因だった。チューブ式弾倉は銃弾が真っ直ぐ一列に並ぶが弾頭をとんがらせておくと雷管を刺激しやすくなり衝撃で雷管が撃発する可能性があった。そのために弾頭を丸くせざるを得ずそのために弾道性能が劣った。普通に考えて弾頭は丸いよりも尖らせたほうが空気抵抗が小さくなるというのはわかるだろう。また、無煙火薬を使用し銃弾が音速を超えたせいもあるだろう。物体は音速を超えると衝撃波を発生する。そのために先をとんがらせておかないと衝撃波を上手く逸らすことができなかった。実際音速を超える航空機で後退翼が主流になったのは機体先端で発生する衝撃波を翼に与えないためという理由である。ただ、音速の力学は第二次大戦後になって初めて分かったことで、当時の人間が知る由もなかった。現実的な問題として、今の銃弾の先はとんがっているが、実際には少し丸みを帯びている。これは弾道力学と試行錯誤の結果だが、この少し丸みを帯びた銃弾を製作するには特殊な機械が必要で、当時の日本ではその機械が作れなかった。

 ともあれ、つくって制式化した以上は命中率を少しでも上げるように努力した。たとえば銃の命は照準だとして絶対に保護するようにと取扱説明書で書いていた。たてかけた銃を倒しただけで鉄拳制裁を食らうようになった日本軍の悪習慣はここが原点だといえる。そういう意味では兵士にとっては命中精度が低い以上にイヤな銃であったと言えなくはないだろう。