百式機関短銃
性能:

全長       900mm
銃身長      230mm
重量       3.90kg
使用弾薬   8mm南部
装弾数       30
連射速度   450発/分

(上記データは百式機関短銃(初期型)のものです)

左の写真は源三郎さんからいただきました。
なお、これは後期生産型です
下記本文の一部資料は愛戦士マクナマラさんから情報提供していただきました。
どうもありがとうございます
≦(_ _)≧
 短機関銃という名称は英語の”Sub Machine Gun(サブマシンガン)”をそのまま日本語に訳したものだが、他にも機関短銃という名称がある。これはドイツ語の”Maschinen Pistole(マシーネンピストーレ)”というのを日本語に訳したものだった。ようは機関銃のスケールダウンモデルか拳銃のスケールアップモデルかというものだが、実際には同一種の兵器であったと言える。日本では自動短銃などとも呼ばれたが、一般には日本軍では機関短銃と呼ばれた。陸上自衛隊になってからは短機関銃と呼ばれるようになる。こういう細かい点でもアメリカに支配されたと言える。

 さて、後に百式機関短銃と呼ばれるこの銃は昭和3年に開発が開始されたといわれている。昭和3年といえば、中国国民党軍が北伐を行なった頃で、北京(当時は北平と呼ばれていた)に居座っていた大軍閥、張作霖は現状維持が不可能と判断。本拠地の満州に引き上げようとした。当時、中国関東州に駐屯していた関東軍は北伐がこっちに波及するのを恐れて満州に引き上げる張作霖軍の武装解除を目論んだ。無論、出向いて武装解除するのだが言うまでもなく海外派兵にあたるので独断で出向くことはできなかった。政府(当時、田中義一内閣)に了解を取ったものの直前で反故(ほご)にされた。理由は田中首相が張作霖軍と妥協できる余地がまだあったという政治的判断を下したためといわれる。「妥協できる余地」とは聞こえはいいが、ようは上手く操作して中国国民党軍と戦わせて日本は疲弊させずに中国軍を弱体化させるという狙いがあったのだろう。
 関東軍はそうは考えなかった。戦場において信頼できるのは自軍のみであるし、だいたい了解しておきながら直前で撤回するなんて許すことができなかったのだろう。関東軍は独自に行動を起こした。昭和3年6月4日、午前5時23分。張作霖が乗った特別列車が陸橋で何者かによって爆破され張作霖は即死した。これは「張作霖爆殺事件」として歴史に残る事になった。この事件が後々に残した影響は計り知れないものがあった。張作霖の後を継いだ張学良は中国国民党軍の傘下に入り中国国民党は血を流さずに中国統一を完了した。、日本国内でも田中義一首相は事件当事者の厳罰を主張したが軍部によって握り潰され、翌昭和4年7月に総辞職。同年田中義一首相は急逝した。憤死したと言ってもいいだろう。特に日本にとって悲劇だったのは「事後承認」という、既成事実を作り上げて政府に了解を貰うというやり方がこの成功により関東軍の常套手段となったという事だろう。軍事が政治からかけはなれて独断で動く国に日本はなったのである。その終着駅は昭和20年8月15日だった。

 満州事変の2年も前ながら、こういう情勢なのだからもう日本陸軍の目は中国大陸に向いていたのは間違いない。この頃にはいくつかの兵器が試作されていた。たとえば90式野砲や92式歩兵砲などがあり、その一貫として百式機関短銃も開発されたのだろう。

 ベースになったのはドイツのMP28とされる。輸入して、いろいろと調査してから国産機関短銃の研究が始まった。使用する弾薬はなぜか、いくつかの種類がチョイスされた。6.5mm弾・7mm南部・7.7mm弾と3種類が選ばれた。6.5mm弾は.25ACPだといわれており、7.7mm弾は.32ACPではないかといわれている。また、なんでこんな威力ない銃弾ばかり選んだのかは良くわからない。結局は3種類ともボツで、8mm南部弾に決定した。日本陸軍では8mm南部弾が制式弾なのだからハナっからこれ使えばよさげなものだが深い詮索はしない。
 さて、弾が決まったら今度はてっぽの方の開発が始まった。昭和5年には試作銃が完成したといわれている。評判の程はあまり聞かないが、「可でも不可でもなく」みたいな感じだったのだろうか?ただ、翌年に満州事変が起こったこともあり予算的な問題で開発は停滞してしまった(あくまで「事変」なので予算は限られていた)。
 ただ、この問題は一気に解決してしまう事が起こった。それは昭和12年に起こった日中戦争で、当時は支那事変と呼んでいたが「事変」とは名ばかりで、大本営も設置されるなど(当時の条例では、戦線布告をしないと大本営が設置できなかった。昭和12年11月に大本営条例を改正し、事変でも大本営を設置できるようにした)実際には戦争だったと言ってもいい。軍事費の3倍の臨時軍事費が宛がわれ、もはや金銭面の問題は解決してしまった。
 機関短銃の開発も継続された。試作機関短銃は騎兵学校でいろいろテストされていた。その過程でバイポット(2脚)や伸縮式の着剣ラグ、ライフルのようなタンジェントサイトが追加されていった。ただ、昭和12年の南京陥落など、日本軍の快進撃もあってか、機関短銃の開発はあまり進まなかったか意図的に進めていなかった。
 昭和14年(1939年)9月1日。ドイツはポーランドに侵攻ここに第二次世界大戦は始まった。ドイツ軍は瞬く間にポーランドを制圧し、ゲッベルスの巧妙な宣伝もあって、「ブリッツクリーク(電撃戦)」は全世界に知られていった。クローズアップされるのは戦車による機動戦であるが、その影には全下士官に持たされたMP38短機関銃の活躍もあった。ここにきて日本陸軍もようやく重い腰をあげ、試作機関短銃の制式化を決定。上の試作短機関銃の簡素化(伸縮式着剣ラグを固定化したり)を行ない、昭和15年に百式機関短銃として制式採用された。

 制式採用された機関短銃の初陣は太平洋戦争初期のパレンバン油田空挺攻撃時だと言われている。このパレンバン油田空挺攻撃には日本陸軍の精鋭329名が攻撃に参加している。この329名の中に俺の爺さんがいるのだが、機関短銃が配備されていたという話は爺さんからは全く聞かなかったので実際の所、本当に使われていたのかはよくわからない。
 このパレンバン油田攻撃自体は地上部隊との連携も上手くいき作戦自体は大成功を収めたのだが、空挺作戦自体は大問題があった。空挺部隊員はライフルなどの長さがあり、かさむ武器類は別のコンテナに入れて投下して、兵士は落下したコンテナから武器を拾って戦う事になっていた。しかしパレンバン油田攻撃時にはコンテナ回収ができず、兵士は携行していた拳銃と手榴弾と銃剣のみで戦った。パレンバン油田を守るオランダ軍は実に1100名を数え、多数の機関銃および装甲車をも配備していた。平和ボケしていたオランダ軍に戦意がなく、なんとか持ちこたえたわけだが、毅然とした攻撃をオランダ軍が加えていたならば全滅は必至だった。そのため、昭和18年になると折りたたみストック型が開発された。上のように兵士が武器を携行できるようにしたのだった。

 昭和19年になると、日本陸軍でも、南方島嶼(とうしょ)のジャングル戦ではボルトアクションライフルよりも機関短銃のほうが使えると判断し百式機関短銃の簡素化を行なった。ようは簡単に作れるようにしたものだった。簡素化された機関短銃は百式改機関短銃と呼ばれ、早速大量生産が行なわれた。
 生産は小倉・名古屋の造兵廠等で行なわれ、生産数は初期型が約1万丁、折りたたみストック型が約7500丁、後期型(百式改機関短銃)が約8000丁生産されたとされる。
 その後もあまり使用されなかったが、昭和20年の沖縄の挺身作戦(輸送機に武装兵士を乗せて敵空港に強行着陸して暴れまわるという特攻作戦)で義烈空挺隊の多くがこの百式機関短銃を装備していた。無論、沖縄上空で、沖縄の敵空港で全て失われたのは書くまでもないだろう。
 百式機関短銃は上記の使用例を除けば実戦投入は稀だったとされる。終戦後生き残った百式機関短銃は殆どが廃棄処分となった。アメリカ兵は土産漁りが好きなのは世界的に知られているが百式機関短銃は土産にする価値すらなかったという事なのだろうか?。現在、現存する百式機関短銃は数丁だと言われている。

 上で何度も書いたように百式機関短銃は戦史にほとんど登場しなかった。これを「日本陸軍の無能うぶりを露呈していた」などと評価する人が多いが、はたしてそうだろうか?。どこの国だって軍上層部は兵器にはなによりも「実績」を重要視する。とにかく戦力になりうるものを要求するのである。その戦力は現実的なものでなくてはならなかった。威力がない命中精度の低い機関短銃などたしかに軍上層部は不必要と考えても不思議ではない。なにせ日本は銃弾の統一すらままならず、特に同じ口径でも陸軍と海軍では銃弾が全く合わなかったのだった。しかも日本の工業力は限られており、そんな逼迫したさなかでの機関短銃の採用は少しなりとも評価をして良いのではないか?。また戦場に投入したくても昭和19年からは日本の輸送手段(海運)が破局しており、送る先から輸送船が沈められたのだ。誰が陸軍上層部を責めることができるだろうか?
 結局は「負けた側には、負けたなりの理由がある」という結論になってしまうのだろうか?


 百式機関短銃は外見的には機関短銃に見えないほど全長が長い。「機関短銃に着剣装置をつけるなんて現実的ではない」とよく言われるが、百式機関短銃は見た目でも着剣しても、そう違和感はない。この着剣ラグは本文でも述べているが、元々は伸縮式だった。それを固定したのだが、その名残りは百式機関短銃の銃身の下に残った。
 弾は8mm南部弾を用いる。威力があまりないのと生産性が悪い(ボトルネック弾は製造行程が多くなる)と評判は良くないが、威力がないという事は反動が軽減されているという事で反動はあまりこなかった。ただ、機関短銃は拳銃と違って銃自体重量があるので威力のない弾を使っての反動軽減というのはあまり意味はなかった。
 弾倉はベルクマン機関短銃のように左横から装填するようになっている。特に百式機関短銃の場合は、かなり前方に弾倉受け(マガジンハウジング)があるために、弾倉交換の際は結構やりにくそうな気がする
 照門(リアサイト)は最大射程1500mまで照準できるタンジェントサイトがつけられた。どう考えても無茶があるのではないかと思えるのだが付いていた。

 百式機関短銃は上の本文でも述べたように昭和19年に省力化がなされた。銃身下の部品が廃止され、照準もタンジェントサイトからV型サイトに改められ100mの固定となった。銃口のマズルブレーキが廃止され、そこそこに生産しやすい機関短銃となった。また、発射速度もこれまでの450発/分から800発/分に上がって、威力のなさを弾数でカバーするようになった。ただ、着剣ラグは残ったし、加工方法も相変わらずの機械切削加工だった。そのために生産性が飛躍的に向上したとは言いがたい。

 バリエーションに空挺部隊用に開発された折り畳み銃床型がある。これは上で述べているように、空挺部隊が持ったまま降下できるようにしたものだが、実際の所はたとえ折りたためようが空挺部隊員は長さのあるものを持って降下しないし(今のパラシュートと違って着地時の衝撃は大きいし、コントロールがほとんどできなかった。その為に柔道の受け身は必須で受け身をする際に長いものは体に当たって危険なのと、それ自体がボッキリ折れる可能性があった)あまり意味がないとも思えなくはない。また、この折りたたみはグリップ先から折りたたむようになっているが、言うまでもなく銃は機関部の真後ろが一番衝撃を受けやすいために、実戦の洗礼を受けた場合、ここが折れる可能性が指摘されている。また、白兵戦で銃剣戦闘になった場合にも欠点と成り得ただろう。余談ながら、ドイツのライフルKar98kも同じ折りたたみ方法を開発して強度不足で失敗している。この強度問題が現実のものとならなかったのは、8mm南部弾が威力がないので反動が弱かったのと、これが一番の理由だろうが、実戦の洗礼をほとんど受けなかったからだろう。

 百式機関短銃は今となっては評価が高い方とはいえない。不必要に長い、不必要な着剣ラグがついているというのもあるが、やはり戦場でほとんど活躍しなかったというのが評判が悪い理由なのだろう。百式機関短銃は30発弾を込めた状態でも3800gと各国の短機関銃と比べると軽い部類に入る。軽い銃は兵士には好評である。理由は言わずと知れたことだが、だからこそ南方戦線で使われなかったことが、日本人として悔やまれてならない。


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