スオミM31
性能:

全長        875mm
銃身長       314mm
重量        4.87kg
使用弾薬   9mm×19
装弾数    (本文参照)
連射速度    800発/分
初速        396m/s

左写真はU-333さんからいただきました。
ありがとうございます
≦(_ _)≧
 短機関銃というジャンルの銃器は第一次大戦後に急速に進化したと言える。第一次大戦でも使用されていたが、さほど戦果がなかったにもかかわらずである。たしかに、塹壕内部の狭い場所の戦闘ではたとえ拳銃弾であろうがそれを連発できる短機関銃は使えると判断したのだろうか?。塹壕や建物内部では長いライフルは不利だったし、重たい機関銃もしかりだった。だったら拳銃は?という意見もあるだろうが、拳銃も意外と役に立たない。最近の事件だが、アメリカで弁護士に逆上した男がその弁護士を拳銃で銃撃する事件があった。距離にして1m弱のほんとの近距離でナイフで刺したほうが早いんじゃないかっていう距離で1マグ(10発)全て撃ちつくして当たったのは1発程度でしかもかすっただけの軽症だった。その理由は木を1本挟んで弁護士が右に左にと逃げていたのが原因で犯人も狙いがなかなか定まらなかったことによる。これは日本でも映像が流れたので見た人もいるだろう。つまり、静止目標でなおかつ狙う時間があるならともかく、咄嗟の行動を要求される戦場では命中精度はよほど訓練していないと期待できないということでもあった。

 1920年代から各国で、いくつかの短機関銃が作られた。その売り込み先は主に警察だった。警察は塹壕戦なんてしないが、犯人を数百mも先から銃撃することはしないし、あとは治安維持としてもハッタリを利かせるには十分だったからだろう。同時に各国の軍用としても採用されつつあった。第一次大戦の塹壕戦の影響なのだろうが、既存のライフルの後継として採用したわけでもなく、分隊長に持たせたり、歩兵以外の兵科(砲兵など)の護身用として使われたに過ぎなかった。数量的に大多数を必要としたジャンルではなかったが、当時は作っているメーカーが少なく、また設計・製作は比較的簡単にできた短機関銃だから各国で試作・設計・配備されており、また外貨獲得の目的で輸出も試みられていた。

 スオミM31はそんなさなかに設計された。設計はフィンランド造兵廠で働いていたアイモ・ラチティという技師が1920年代初め頃から設計を行い1930年には試作銃が出来上がった。翌1931年にはフィンランド軍に制式採用され「Simply KP-31」という名称が与えられた。ただ、一般には「Suomi KP Model 1931」の名称で知られている。KPとは「Konepistooli」の略で、日本語でいえば機関拳銃となる。ここではスオミM31と呼ぶことにする。

 当時の世界情勢といえば、ニューヨーク株式市場の大暴落、いわゆる世界恐慌の真っ只中であったが、大きな戦争などない平和な世の中であったといえる。その当時において、スオミM31はデンマークやスウェーデン、そしてスイスでライセンス生産が行われており、短機関銃としては秀逸であったと言えた。スウェーデンでは国防軍用に制式採用もされている。

 1933年にドイツでヒトラー内閣成立。これを契機にドイツとソビエト間の関係は冷えていくことになった。逆にドイツはフィンランドと友好関係になり、経済的にはもとより軍事的にも少なからず友好となっていった。フィンランドは地図を見てもわかるように大国ソビエトと面している国境線が長い。ロシア帝国時代からロシア国境線を面している国々では侵入されるか侵入される恐れがあり、彼らはそのための防衛が課題だった。ロシアからソビエトに国名と政権がかわってもその恐れは十分にあったしだいいち脅威が軽減される訳でもなかった。たとえば、バルト3国(ラトビア・エストニア・リトアニア)は軍事的な圧力に対抗できず後にソビエトに併合された。再独立を果たすのは50年以上の月日を必要とした。
 フィンランドは対ソビエト用にマンネルハイム線という、長さ135km、幅90kmにおよび永久要塞を建設した。この建設にはドイツの技術提携もあったと言われている。また、ドイツの他の西側諸国の援助で軍事用飛行場もいくつか完成したが、フィンランド空軍の保有機数をはるかに上回る機体を収納・運用可能なこれら飛行場はソビエトにしてみれば「いずれ西側がフィンランドを軍事基地化してソビエトになだれ込むのではないか?」という疑心暗鬼を生じさせた。少なくとも、ソビエトがフィンランドに攻め込む口実にはなった。
 1939年9月1日にドイツはポーランドに侵攻。その17日後にはソビエトも「ソビエト系住民の保護」を名目にポーランドに侵攻した。ポーランド戦は1ヶ月後に終了し、しばらくは小康状態となったが、ここにきてソビエトに隣接する国々は慌てた。ポーランドが次は自分の番ではないかと。それは現実なものとなった。
 ポーランド戦が終了してからすぐに、フィンランドとソビエトの外交交渉は行われた。交渉内容はといえば、簡単にいえば「フィンランドの要塞地帯をソビエトに譲れ」というものだった。そうすればソビエトも安心できるというものだろうが、普通に考えてもフィンランド側は承諾するはずもなかった。日本で例えていうならば「原潜が太平洋で活動しにくいから壱岐・対馬をロシアに譲れと言ってるというようなものだろう。当然交渉は決裂した。
 1939年11月26日からフィンランドとソビエトの国境で散発的な国境紛争が行われた。銃弾を撃ち込み合うというどこにでもある国境紛争の典型だったが、射撃自体はソビエト側から行われた。この行為が直接的戦闘行動に拡大する火種だったので、撃ち込んだ責任者を処分するのは当然だろうが、ソビエト軍はそれを行わなかった。だからこれもソビエト側の挑発行為だったのだろうか。

 1939年11月30日。ソビエト軍は4個軍、総計約50万人の兵力をもってフィンランドへと攻め込んだ。ちなみにこの時点でのフィンランドの総人口は約370万人。兵力も平時は3個師団で約2万人の戦力でしかなかった。スターリンは「1週間でヘルシンク(フィンランドの首都)を落とす」と豪語し、事実そうなるだろうと考えていた諸外国も多かった。フィンランド軍は即座に国家総動員体制を敷き、30万人を徴兵してソビエト軍に対抗した。
 戦闘となるとフィンランド軍は奮闘した。マンネルハイム線の強固な要塞線と、フィンランド兵の愛国心、また攻められたという地の利を生かして各所でソビエト軍を撃退していった。特に、ソリやスキーを使ってソビエト軍の補給線に神出鬼没に出現して襲撃しては撤退するという戦術にソビエト軍は悩まされた。ソビエト軍も兵力を50万人から55万人に増強し、1940年になってからは75万人に増強。停戦時には85万人の戦力を投入することとなった。
 結局、数量的に劣勢なフィンランド軍はソビエト軍の猛攻を支えることができず、1940年2月14日にはマンネルハイム線が突破された。ここにきてフィンランド軍は軍事的な勝利は絶望的と考え、外交交渉での解決を図った。フィンランド側は西側諸国の軍事援助を受けてなお戦う決意を示した。実際西側諸国からの武器援助はかなりの数に登ったし、11500人の義勇兵もはせ参じていた。ソビエト側もフィンランド全土の制圧は時間がかかりすぎると判断したし、だいいち長引けば長引くほど国際的孤立してしまうだけではなく、極東地域での日本軍の動向も不安材料だった(この時点ではまだ日ソ中立条約は締結されていなかった)。両国の利害がここで一致し、フィンランド側はカレリア地峡の割譲を条件に講和を行った。時に1940年3月12日のことだった。

 ソビエト軍は最終的に84万8570人の兵士を投入。死者だけでも9万5348人に達する大損害を蒙った。戦傷病・捕虜も23万7736人という膨大な数に登った。結果でいうならば、ソビエト軍の圧勝と言えるが、ソビエト軍将校をして
「今回の戦争で得た領土は戦死者の埋葬墓地分」
と言わしめるほどの損害で、実質的には敗北に近いものがあったろう。
 ちなみに、フィンランド軍は投入兵力31万8000人、戦死者4万8243人、戦傷者4万3000人とされる。戦死者の中には捕虜もカウントしていると考えられる。

 かなり本題から逸れたが、この戦いでスオミM31短機関銃は大活躍した。戦争期間が冬場だったために戦場の殆どは雪で覆われた地での戦いだった。雪は砲撃を受けると衝撃を吸収するために砲撃の効力が弱まる。実際、普通の戦闘では銃撃での死傷は砲撃での死傷を下回るが、この冬戦争では銃撃での死傷者が圧倒的に多かった。そのために兵士1人で持ち運べて連射できる短機関銃が大活躍できた。
 フィンランド軍の戦術としては、まず、敵が利用しそうな村落を焼き払って利用不能にした上で撤退し、自国の道路はあまり広くないという点を考慮して撤退する際には大木を切り倒しておいて敵の進撃を阻害した。その行動停止時を狙って森林という視界が利かない点を最大限に利用して側面から攻撃を仕掛け即座に撤収。追撃してきたソビエト軍を待ち伏せしてこれを撃破するもので、冬戦争初期には大戦果を挙げた。
 こうした行動にスオミM31短機関銃はうってつけだったといえる。視界が利かない森林ではあまり射程が必要ではないから拳銃弾でも問題はなかった。また、銃自体が重く反動が小さいので、スキーを履いたままでも射撃ができたと考えられる。ちなみに、フィンランド軍のスキーは靴とスキー板の留め金が簡単に外れるために、通常はスキー板を外してから射撃していたと考えられるが、不意に敵と遭遇したときなどは反動が少ないのは利点であったろう。
 また、70発のドラム弾倉があったのも利点であったろう。こうした襲撃時は軽装で行うので、多弾数は有利であった。作動方法も単純なブローバック方式で故障しにくい利点もあった。

 このスオミM31短機関銃は冬戦争終結後にも使われた。1941年6月22日に開始されたドイツによるソビエト侵攻作戦「バルバロッサ」ではフィンランドは中立を宣言したが、即座にフィンランド軍基地がソビエト軍機の爆撃を受けたためにソビエトに宣戦布告。一時は冬戦争で失った領土を回復しレニングラード(今のサンクトベテルブルグ)包囲まで漕ぎ付けたが、ドイツ軍の戦局悪化で、フィンランド軍もじわじわと押されていった。結局、ソビエトはドイツ占領をアメリカ・イギリスに先を越されたくないためにフィンランド侵攻は行わず講和の道を選んだ。突きつけられた条件は「2週間以内にフィンランド内のドイツ軍を撤退・賠償金の要求・ソビエトに開戦させた責任者の処分」だった。もはや勝てる見込みのない戦いをしたくなかったフィンランドは講和を行った。要求は過酷だったが結局フィンランド内に敵軍隊を進駐させるようなことはなかった。フィンランド兵の勇敢な戦いぶりがそうさせたと言えるだろうが、スオミM31短機関銃の存在もその勇敢な戦いができた要因であったと言えるだろう。

 戦後しばらくして、日本の中曽根首相(当時)が、「(国家の)防衛努力をしないとフィンランドのようにお情けを請うような国になってしまう」という発言を行った。実に軽率な発言だった。フィンランドはたしかに他国の援助を受けて戦ったが、決して頼りにせず自分たちのみで戦い抜いた。カレリア地峡の旧国土を除けば決して敵軍の軍靴の蹂躙を受けてもいない。ちなみに、ソビエトと国境を接していて共産国化しなかった国はフィンランドだけでありソビエトも簡単に手を出せなかったという証明でもあったろう。

 さて、スオミM31短機関銃は戦後も継続して使用された。さすがに突撃ライフル全盛になると歩兵用の短機関銃は徐々に退役していったが、ストックをカットした戦車兵用は使い勝手がよく、21世紀になっても継続使用された。最後のスオミM31短機関銃が退役したのは2005年の事だった。


 
 スオミM31短機関銃の特徴は、初弾装填をボルトアクションライフルのように行う事にある。これは射撃中にコッキングハンドルが動かないから安全という利点はあるが、途中でボルトが動かなくなった時に分解しないと対処できないので、その辺は欠点ではなかったと思えなくもない。
 弾倉は20発・36発・50発装填可能な箱型弾倉と40発・70発装填可能なドラム弾倉がありバリエーションが多い。マガジンポーチなどアクセサリーを作るのが大変ではなかったろうか?。ちなみに、70発ドラム弾倉はソビエトのPPSh1941短機関銃にパクられた。ちなみに、各弾倉の重量は
 20発箱型   500g
 36発箱型   700g
 50発箱型  1200g
 40発ドラム 1400g
 70発ドラム 2000g
 となっていた。つまり70発ドラム弾倉を装着すると総重量は7kg近くになり、凄まじく重たくなる。
 野戦分解は簡単に行えた。また、短機関銃としては珍しく銃身のみが分離可能だった。そのために銃身交換が容易に行えたために銃自体の寿命も長かった。70年以上も使われたのも銃身交換が行えたからだろう。

 スオミM31短機関銃のバリエーションとして、スタンダード型の他に騎兵型、塹壕型、戦車兵型があった。騎兵型は少し銃身長を長くした型で射程を延長した型だと推定される。塹壕型は軽量化された型で、使用用途は良くわからない。戦車兵型はストックを廃止してピストルグリップをつけて戦車内から外に射撃を容易にできるようにした型で、これは長らく使われた。


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