MP18
性能:

全長        818mm
銃身長       201mm
重量        4.35kg
使用弾薬    9mm×19
装弾数        32
連射速度 350〜450発/分

(上記数値データは紅葉饅頭さんからいただきました。ほんとありがとうございます)
 第一次大戦でデビューした兵器は数多い。機関銃搭載の戦闘機・本格的な爆撃機・本格的な迫撃砲・本格的な潜水艦・近代戦車・などなど・・・。爆撃機を除けば今の戦争でも必要不可欠な兵器に違いはなかった。ある意味、第一次大戦はこれら新兵器の実験場であったと言える。

 銃器においてもいくつかの新ジャンルの銃器が戦場に投入された。自動ライフルと短機関銃の2つである。自動ライフルは第一次大戦前から既に存在はしていたが、本格的に使用されたのは第一次大戦が最初だった。ドイツ軍では実験的に少数が投入されたがフランス軍においては万単位で使用がなされた。ただ、新兵器ゆえかあまり戦績は芳しくはなく、その影響で、ドイツ・フランス共に次の第二次大戦では自動ライフルを全軍に行き渡らせる事はなかった。
 さて、短機関銃の方だけど、その原型は第一次大戦前から存在はしていたものの、本格的に完成された短機関銃はイタリアのビラール・ペロサ短機関銃だった。完成したのが1915年とまさに第一次大戦真っ只中のことで、まさに第一次大戦が生んだ申し子と言える。この短機関銃の使用用途は航空機用機関銃としてだった。開発開始時期(1914年頃)の航空機は固定武装(いわゆる機関銃)を積んではいなかった。そのため、第一次大戦開始時期では偵察目的の我彼航空機が遭遇したら手を振って挨拶していたという話も残っている。無論、敵に有益な情報をもたらすわけにはいかないから、フックで引っ掛けたりして落とそうと試みたが当然上手くいかず、銃を航空機に持ちこんで撃ち落そうと考えた。当初使われたのは拳銃かライフルで、ライフルの方は飛行機を操縦しながらボルト操作&照準&射撃などサーカスなみの事をやらねばいかず、またデカいために、早々に諦められた。拳銃のほうは当時から自動拳銃は存在したので小型で片手で撃てるのでまだ実用性はあったと言える。ただ、あっちもこっちも100km/h以上の速度で3次元に飛び回るのだから当てるのは難しかった。不可能だったと言ってもいい。「連発して撃てる拳銃を!」と考えたのは当然の成り行きであったかもしれない。ペロサ短機関銃の不幸は完成直後に、機関銃を固定武装とした戦闘機が続々誕生した事だった。威力のない短機関銃よりも普通の機関銃のほうがいいに決まっている。こうして、短機関銃は大戦の中に埋もれようとした。

↑土浦武器学校にあるMP18(手前中央の銃)
安全のためか、弾倉がはずされている。
 第一次大戦末期の1917年になると社会情勢の変化が起きた。ロシア国内では長引く戦争の影響で国民が武装蜂起し、ロシア・ロマノフ王朝を打倒したのだった。ロシアの新政府はドイツとの戦いの継続を望まず、また、ドイツ側にしても東西に敵を持つのは戦略上でもまずかった。両国の思惑が一致し、休戦協定を締結。ドイツ軍は全てロシア国内から撤兵し、3年も膠着状態にあった西部戦線の戦局打開にとその兵を向けた。
 ドイツ軍では何がなんでも西部戦線の膠着状態を打破したかった。もう戦争が行って4年もたっており、国内では厭戦ムードが漂っていたし、海軍のUボート(潜水艦)による無差別攻撃はいたずらに敵を増やした(アメリカが参戦した)だけで、海軍力による攻撃では西部戦線の打破は不可能だった。

「もう一度4年前の栄光を!。パリを包囲するのだ!今度は陥落させるのだ!」

 何がなんでも、塹壕が掘りめぐらされた戦線突破が急務となった、1918年以前からといわず、ドイツ軍がパリ包囲を解いて塹壕を掘りめぐらせた時点から戦線突破は連合軍・同盟軍ともに戦略上の課題ではあった。毒ガスはそれなりに効果はあったが天候(風など)にモロに影響する兵器なため信頼性はなかったし、それ以前に国際条約で禁止されているからおおっぴらには使えなかった。戦車の運用も当時は故障が多く、信頼性に欠けた。各国では、小口径歩兵砲(37mmクラスの大砲)や軽機関銃の運用などを試みたが、当時はこういう新戦術は手探りな部分が多く、組織だった運用にはまだ時間がかかった。

 ドイツ軍が他に試みた方法として、短機関銃の運用だった。塹壕に突進させて、肉薄すればライフルよりも短機関銃のほうがずっと有効であるとされた。事実そうであったと言える。銃器設計技術者のルイス・シュマイザーが設計を行い1917年には短機関銃が完成し翌年には制式化された。MP18と命名されたが、製造を担当したセオドール・ベルクマン武器製造社の名前を取って、一般には「ベルクマンMP18」と呼ばれている。
 早速彼ら短機関銃部隊の訓練が始まった。何がなんでも戦線を突破するために。もう後がなかったのだ。アメリカの敵対で連合軍はみるみる戦力を増してゆく。ドイツ側は長期の総力線で国力は疲弊しきっており、もはやこの一戦にかけるしかなかった。ロシアから引き上げてきた、鍛えぬかれたドイツ軍兵士と、そして塹壕突破の期待をかけられた彼ら短機関銃部隊にドイツの命運はかけられた。
 1918年3月21日。朝。突如、4000門ものドイツ軍大砲が火を吹いた。従軍記者が「大地を揺るがす・・・」と書きそうな情景が現実のものとなったアミアン郊外ではドイツ軍最後の大攻勢が展開された。短機関銃部隊も戦場へと投入された。実に60kmにおけるイギリス軍戦線を突破し、60kmも前進した。しかしそれが限界だった。やがてイギリス・フランス連合軍に押し戻され、最後の大攻勢は失敗した。もはや、ドイツには攻勢を取る余力は無論のこと、イギリス・フランス連合軍の猛攻をも食い止める力も残されてはいなかった。1918年7月の連合軍の反攻でドイツ軍は7個師団を撃滅され、戦線は崩壊。ドイツ国境まで退却せざるを得なかった。潰走であったと言ってもいいだろう。そして1918年10月。ドイツ国内のキール軍港での水兵の反乱から発端となった革命で帝政ドイツはついに崩壊。長い第一次大戦は終わった。

 この大攻勢で使われたMP18は世界ではじめて実戦投入された短機関銃といっていい。ただ、あまり戦局に影響は与えなかった。その理由をドイツ軍では「短機関銃は実際に役に立たない」と結論つけた。そのために第一次大戦後に残ったMP18は全て警察に引き渡されてしまった。また、ベルサイユ条約で口径8mm以上、銃身長100mm以上の兵器は開発が制限された影響もあったろう。
 弁護のためにいうが、この結論は間違っていた。実際問題としては矛と盾として見立てると、西部戦線は圧倒的に盾の力が上回っていた。これは両軍とも同じだったといえる。ただ、専守防衛では絶対に勝つことがないために大出血を承知の上で両軍とも攻勢をしかけていた。後々の戦いのように航空機や戦車のパンチ力が当時では絶対的になかった以上は、国力の我慢くらべだったと言える。ようは、疲弊して内部崩壊しない限りは突破はできることはなかった。

 MP18の方はといえばまだ注目はされていなかった。ただ、第一次大戦後にドイツのラインメタル社やオーストリアのステアー社やスイスのソロータン社などが短機関銃が市場(軍や警察など)で通用すると判断しMP18をベースにいくつかの短機関銃を作り上げて売りこみを計った。スイスのソロータン社のMP34がオーストリア陸軍に採用がなされている。ドイツ国内でもMP18をベースにセミ・フル切り替え可能なMP28という短機関銃がヘーネル社で生産されていろいろなところに売りこみを計っている。このMP28の存在がドイツ短機関銃の命運を分けた。

 1933年、ドイツではヒトラー内閣が成立。翌年にはヒトラー首相は大統領を兼任し総統となった。さらに翌1935年には再軍備を宣言し徴兵制が復活。いろいろな兵器の開発が加速した。3号戦車やメッサーシュミットBf109やワルサーP38などドイツ電撃戦を飾る兵器はこの時の開発開始および試作機完成ながされている。この頃になると、幾度となく行われていた演習で、戦車の機動力には歩兵の随伴が必須で歩兵の火力向上も必須であると痛感していたドイツ軍は短機関銃の採用を決定。1934年からMP28が大量にドイツ軍に納入された。

 1936年にスペインでフランコ将軍の反乱を発端としたスペイン内戦が勃発。フランコ将軍を支持したドイツはコンドル軍団と呼ばれる義勇軍をフランコ軍に加勢させた。この戦いでMP28も戦場に投入され、その有効性が実証された。その有効性に注目したドイツ軍はさらに新たなる短機関銃を作らせた。これがMP38だった。
 1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発。その翌年の1940年にドイツ軍はフランス領内へとなだれ込んだ。ドイツ軍下士官の全てに短機関銃を持たせ、戦車を主軸にした装甲師団をもってフランス軍を蹂躙。1940年6月。パリは陥落した。よくクローズアップされるのは戦車による装甲師団の機動的運用だが、短機関銃の装備がなされていた点も大きかったといえる。アメリカ・イギリスでもこの点は注目され、トンプソンM1短機関銃やSTEN短機関銃が作られ配備されていった。第一次大戦末のMP18の思想は決して間違ってはいなかったのだ。この短機関銃はやがて出現する突撃ライフルにその地位を奪われたものの、その火力および機動戦の思想は今でも充分生きているといえる。
 肝心のMP18であるが、第二次大戦期には既に第一線装備からは外れていたものの、後方保安部隊で使用されていた。大戦末までにはほとんどが運用消耗(戦闘時に失われたとかではなく、訓練射撃や時間の経過による金属疲労なんかで部品がヘタって修理不能になって廃棄処分されること)されたと推定されるが、大戦末期の戦局悪化で使われていたとも想像される。


 MP18はフルオートオンリーでセミオートでは撃てなかった。形状的には固定木ストに短い銃身といささか古い短機関銃という印象があるのは否めない。なぜかマガジンハウジング(弾倉受け)が左横にあった。この理由はよくわからない。横に弾倉を装填すると残弾数で重心がかわってくるのであまりいい配置とはいえない。伏せ撃ちする際にはたしかに有利だろうが、そうまでして撃つ銃器の類でもないだろう。また、MP18はルガーP08のスネイルマガジン(かたつむり型のドラム弾倉)をそのまま使用していた。弾が沢山入るのは利点であったといえようが、重たいために射撃の際に銃が左に傾くんではなかろうかと想像される。多くの書籍で「MP18は決して成功作とはいえなかったが・・・」という記載を多く見かけるが、それが原因とも考えられる。


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