Sten Gun
性能:
(下記データはMk2のもの)
全長        762mm
銃身長        196mm
重量         2.95kg
使用弾薬     9mm×19
装弾数          30
連射速度     550発/分
初速         381m/s

左の写真は源三郎さんからいただきました
どうもありがとうございます
≦(_ _)≧
なお、左はMk2型です。
 1940年5月10日。ドイツ軍はフランス侵攻作戦”ファル・ゲルプ”(黄色の場合)作戦を開始した。余談ながらドイツ軍の作戦コードは色がつくのが通例だった。対するフランス・イギリス連合軍はベルギー・オランダの低地諸国での迎撃を試みたものの、ドイツ軍は森林地帯であったアルデンヌから機甲師団を進撃させるという第一次大戦とは全く違った攻撃を行い、フランス・イギリス連合軍の意表をついた。連合軍は第一次大戦と同じ防御方法をとっていたからである。同じ作戦は通用せず、連合軍はダンケルグの海岸とフランスに分断された。ダンケルグからの撤退作戦”ダイナモ”作戦は民間の漁船やヨットまで動員しての撤退作戦は多数の犠牲を払いながらなんとか成功。多数のイギリス大陸派遣軍とフランス兵10万人を救出した。しかし装備は置き去りであった。素手の兵士が役にたつはずもない。
↑土浦武器学校で撮影
 またドイツ軍は機甲師団だけではなく兵士装備としてもMP38/40サブマシンガンを下士官全てに装備させ、その火力をもって機動性に富む戦術を行いボルトアクションしか装備していなかったイギリス・フランス連合軍を翻弄した。

 同年7月からは、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれるイギリスとドイツの空中戦が展開された。イギリス空軍はドイツ空軍と比較して、装備機数で劣っていたものの、敵戦闘機の航続力のなさやレーダーの効果的運用による戦術(つまり少ない機体を効果的に使った)やドイツ空軍の作戦変更(主要爆撃目標を飛行場からロンドンなどの都市に変更した。結果空軍基地が攻撃を受ける事が減った)などに助けられ、辛うじて勝利し、”ゼレーヴェ”作戦(ドイツ軍よるのイギリス本土侵攻作戦)は無期延期となった。イギリス本土での地上戦闘は行われる事はなかったものの、イギリス軍が多大な損害を被ったのに違いはなかった。

 上記の状況から、安価なサブマシンガンを大量にイギリス軍が欲したのは当然の理であったのかもしれない。

 1941年初頭に、イギリスのエンフィールド造兵廠の技師、レジナルド・V・シェパード技師とハロルド・J・ターピン技師が共同して開発に取り組み、特にドイツ軍から捕獲したMP38/40を徹底的に分析して新しい安価なサブマシンガンの開発を行った。使用弾薬はドイツ軍と同じ9パラ(9mm×19弾)を使用した。なぜイギリスの兵器体系にない銃弾を使用したのかは、イギリスがイタリアとの戦いで9mm拳銃弾を大量に捕獲しており、当時イギリスには軍用自動拳銃がなく(将校の個人購入程度しかなかった)、リボルバー拳銃のリム付き弾がサブマシンガンに使えるはずもないから、このイタ公の9mm弾を使っちゃえ!ということになったというのが定説になっている。しかし9パラは後に拳銃およびサブマシンガンの世界的な標準弾となっていくので、それなりに先を見越す力があったと言える。数ヶ月後に完成し、その完成したサブマシンガンの名前は両技師の名前の頭文字(シェパードのSとターピンのT)とエンフィールド造兵廠のENを合わせて”STEN”ガンと命名された。
STEN短機関銃用装填器。
短機関銃用弾倉は多くの弾が入るので、
こうした装填器があると便利である。
円形のところに指をひっかけて回転運動で
弾を装填するようになっている。
理屈の上では理想的だが
実際の評判は最悪で、ほとんど使い物に
ならなかった言われている。
 6月頃には完成し、BSA(バーミンガム・スモール・アームズ)と政府との生産の契約を行う。8月からはテスト的に25丁が納品され、9月には約200丁、10月には約1000丁、11月には2000丁とじわじわと生産力を上げていった。しかしながら急造を狙ったわりには比較的ペースは遅いように思える。まぁ同年6月にはドイツはソビエトに侵攻を開始しイギリスには敵の飛行機と工作員以外には来なかったからかもしれない。しかし、その後は町工場やカナダの兵器工廠でも生産が開始され、その生産数はうなぎ上りとなり、1943年のピーク時には1週間に約47000丁が作られたという。ただし、生産でごたごたしてたのは事実なようで、結果的にどの程度が作られたかは分からない。375万丁ほどが生産されたという説がありその10倍の弾倉(弾入りで)が生産されたといわれている。ただ、後で述べるけど、真実性はあまりない。

ステンガンには6種類のタイプがある。

 最初の生産型はステンMk1型で、約10万丁が生産されたとされる。これは生産コストが2ポンド半(当時の価格)という驚異的な安さだった。おもちゃと同じくらいの値段だった。配備は主にヨーロッパ大陸の対独レジスタンスに送られたといわれる。イタリアの9mm弾はドイツの9パラとサイズがほぼ同じなので(装薬量が若干イタリアのが弱装)レジスタンスがドイツ軍の弾薬を分捕って使用できたという強みもあったろう。

 Mk2型は約20万丁ともっとも生産されたタイプである。上で総生産数が約375万丁と書いたけども、この最大に生産されたMk2が20万丁という数字と矛盾する。どちらが正解かはわからない。ともあれ、Mk1の弾倉ガイドに扉式の防塵カバーがつきMk1の装弾不良を改善したタイプである。しかし装弾不良はある程度は改善されたものの、完全には直らなかった。余談ながら、装弾不良は最後の型までステンガンに付きまとう事になる。普通、「ステンガン」と呼ばれるのはこのタイプである。
 バリエーションとしてサウンドサプレッサー(減音器)をつけたMk2Sもある。

 Mk3型は1943年から1944年にかけて生産されたタイプで、この頃になってくると各戦線で連合軍が有利になっておりまた、イギリス本土への海上輸送も順調になってきたため(Uボート狩りが本格化してきた)各部に改良がなされ、精密な作りとなってきた。外見上はMk2とは大差ないけど、ストックが変化した他、細部が変更されている。

 Mk4型は空挺部隊用で、銃身を半分ほどにカットしてまで短くしたタイプ。銃身を短くする事は単純にやかましい発射音が射手に響くので減音器がつけられた。バリエーションにはMk4Bがあるものの、詳細は不明。

 Mk5型は1944年半ばから生産されたタイプで、ストックも鉄パイプ状のものから木製にかわり、給弾不良の改善のため精密な加工を施すようになったタイプ。この頃になるとドイツ軍は敗北のまっさなかであり、もはや低コストにしてまで作る必要はなくなっていた。敵国のドイツ軍の兵器がどんどん省力化していったのとは好対照である。ストックが金属でなくなったから、多少は撃ちやすくなったと思われる。

 Mk6型は上記Mk5型に減音器をつけたタイプである

 共通して言えるのはMk4までのストックは金属パイプ製で、グリップはそのパイプに穴をあけた鉄板を溶接しただけで本当にこれで本物の銃弾を発射していたのかと思えるぐらい単純でしかも保持は悪かった。フォアグリップはなく、弾倉受け前方下に通したヒモを左手で握って撃っていた。これは実戦の写真でも確認できるが、本当は弾倉を持って射撃してたのではなかろうかと思える。こうでもしないとコントロールが難しいだろうから。これが給弾不良の原因とも言えなくはないと思える。セフティはドイツのMP38/40と同じくコッキングハンドルをミゾにいれこむ方式で、これはこのMP38/40を習ったものだろう。しかし、セミ・フル切り替えスイッチがあった(MP38/40にはない)。ともあれ、イギリス軍はこんなサブマシンガンよりはアメリカからの補給物資のトミーガンを好む傾向にあった。
 戦後はMk5タイプはそれなりに優秀だったため、1950年代にスターリングSMGが採用されるまで、イギリス軍によって使用されつづけた。

 アメリカでは第二次大戦を勝利に導いた兵器として、M4シャーマン、B-17、P-51マスタングという3種が言われるが(ジッポライター・ジープ・M1ガーランドとも言われるが)イギリスのそれは、レーダー・スピットファイア戦闘機、そしてこのステンガンであったといわれている。結果的にはステンガンは戦時急造の成功作であったと言えよう。


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