M12自走カノン砲"キングコング"

全長:        6.77m
車体長:       ?.??m
全幅:        2.67m
全高:        2.88m
重量:         26.8t
装甲:     10〜50mm
乗員数:        6名
武装:36.4口径
     155mmカノン砲×1
    (10発搭載)
動力:???
走行性能:最大速度:39km/h
       航続距離:???km
総生産台数:100両
  アメリカはモータリゼーションの国である。これは今も昔も変わらない。一時期、日本に自動車生産台数を追い越された時期があったものの、すぐにアメリカはその地位を奪い返している。これは徹底された自動車生産方式によるもので、たとえば、戦前の日本の記者が「いざ戦争になれば、日本人は手先が器用なのでアメリカよりも沢山の飛行機が作れる」と言った人がいたが、これでわかるように日本は1台1台手作り状態でアメリカもそうだろうと思い込んでいた。アメリカの量産性の凄さを知ったのは太平洋戦争中盤以降で、その裏事情を知るのは戦後しばらくしてだった。
 第二次大戦前は支援大砲は牽引式だった。日本ではお馬さんによる牽引が前提だったものの、アメリカでは機械牽引(車両による牽引)だった。日本の歩兵師団の砲兵部隊では75mm野砲と105mm榴弾砲のコンビで戦ったけども、アメリカ歩兵師団の砲兵部隊は、105mm榴弾砲と155mmカノン砲のコンビで、この点での火力差も大きかった。また、ドイツも基本的に馬による牽引だった。そのため、第二次大戦に突入して馬による牽引の限界を知ったドイツではアメリカまではいかずとも、日本よりはうんと進んだ自動車産業があったせいもあり、ドンドンと自走化されていった。ただ、その数は需要には程遠かった。アメリカでは機械牽引が主だったせいもあり、どうも自走化にはあまり乗り気ではなかったフシがある。105mm榴弾砲はM7GMCとして自走化したものの、155mm砲まではなかなか自走化なされなかった。たしかに155mm砲の砲弾は40キロ以上もあったから狭い車内での装填作業はとつてもなく大変だったという事情もあったろう。
 その例外として、1941年6月頃からアメリカ陸軍の兵器局で制式化されたばかりのM3リー中戦車に、M1917型155mmカノン砲を搭載する研究がなされた。M1917 155mm砲は名前からわかるように第一次大戦期の骨董品で、聞こえは悪いけど「廃物利用」の側面もあったかもしれない。試験した結果、M3リー中戦車の車体がそのまま使えない事がわかった。エンジンは車体後ろにあったけども、155mm砲の砲弾装填作業はどうしても広いスペースが必要でエンジンを前に移さないとダメだという事がわかったのである。また、発射実験をしてみると、いくら車体が砲架の変わりをするとはいえ、155mm砲の反動は強力で、撃ってみると反動で車体が後ろに下がる事もわかった。これらの対策として、エンジンを前に移し、車体後ろにブルトーザーのようなブレードを設けてそこで反動を吸収するようにした。
 1942年8月にM12GMC(Gun Motor Carriage)として制式化されさっそく量産を指示した。しかし生産数量は100両に過ぎず、また納入されたM12自走砲は訓練以外に使われる事はなく、訓練で100両も使わないから、訓練車両以外は倉庫でホコリをかぶっていた。
 1944年に入って、ドイツ占領下の西ヨーロッパに上陸が現実なものとなってくる。6月頃と計画されたが、この作戦(結局、「オーバーロード作戦」と命名された)の問題は補給港の問題だった。補給港は「マルベリー」という人工の港をイギリス領土で組み立ててこれを曳航する強引な方法で解決したものの、こんな人工港に155mmカノン砲という重砲が陸揚げできる筈はなかった。作戦開始すぐに港が確保できる保証はない。だからといって支援大砲を航空機で間に合わせればいいという問題でもなかった。常に爆弾を抱えた友軍機がいるわけでもないし、火力の大小は戦術的に勝敗を大きく左右するのは戦術の定石だった。そのため、M12自走砲がクローズアップされ、とりあえず74両が整備されイギリスに送られた。
 1944年6月6日。後に「史上最大の作戦」とまで言われた作戦が開始された。連合軍はフランスのノルマンディー海岸に上陸を開始したのだった。何日かして海岸橋頭堡を確保した連合軍は戦車などの重機材を次々に投入した。その中にはM12自走砲も含まれていた。最初の何ヶ月かは一進一退の攻防だったけども、航空機優勢にモノを言わせた連合軍は2ヶ月半でパリを開放し怒涛のごとく東進した。実際に補給が追いつかなかったほどの攻勢だった。そんな中、機甲師団の進撃速度に牽引重砲はついてこれなかったものの、唯一、M12自走砲だけはその機動力を発揮し機甲師団の進撃と一緒に行動ができた。特に155mm砲の威力は強大で、陣地攻撃などにその威力をいかんなく発揮した。連合軍進撃の裏にはこのM12自走砲の活躍もあったのである。その大威力は、アメリカ軍兵士から、誰となく「キングコング」の別名を与えられたほどだった。その威力のほどが知れる話ではないか。
 M12自走砲はフランスでの活躍の頃にはすでにM40という後継の自走砲が開発途中で完成間近だった。しかし、M40自走砲の実戦投入が終戦間際だったこともあって、このM12自走砲の活躍の場は広かったといえる。だからこそ、生産数の少なさが惜しまれる。

 M12自走砲はドイツのフンメルと似たような兵器であったけども、比較した場合の欠点として、弾薬搭載数の少なさがあった。元々がそれほど大きくないM3リー中戦車が母体だったこともあって10発しか詰め込めなかった。そのため、M12自走砲の大砲を取り除いた弾薬輸送車と常に行動を共にしていた。補給が満足だったアメリカ軍だからこそそれも欠点とは言えなかったといえるけども、あとの欠点として、大砲がむき出しで乗せてあったのも欠点だった。砲弾の破片すら防御できなかったのだから、これは相当に問題だったと思えなくはないけども、そうした欠点の指摘はない。ある意味航空優勢が圧倒的にアメリカ側が上だったし、後方からの射撃が主だったので、それが表面化しなかったのだろう。この主の自走砲はよほどアメリカは気に入ったようで、似たような自走砲を後に175mm、203mmとボアアップして次々に制式化している。203mm自走砲は日本でも採用されたが、これの説明は別項に譲りたい。


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