ビショップ自走砲

全長:        6.54m
車体長:       5.45m
全幅:        2.63m
全高:        2.80m
重量:         17.6t
装甲:      8〜60mm
乗員数:        4名
武装:30.8口径88mm砲×1
    (25ポンド砲)
    7.7mm機関銃×1
動力:131馬力ディーゼル
走行性能:最大速度:24km/h
       航続距離:145km
総生産台数:150両
 昔の支援大砲は大抵は牽引式だった。第二次大戦前の戦闘車両の能力では大口径の大砲は積めなかったし、大砲自体も大きくなる一方だった。そこで、馬による牽引(繋駕)から、機械牽引(トラックなど)に変わっていった。機械牽引になって、より大きな大砲をより速く牽引可能になったものの、戦車の機動にはついていけなかった。また、ついていけても牽引砲は牽引車から切り離して展開する必要があったので、時間がかかった。防御力向上を望むなら陣地構築は必需でさらに時間がかかった。これを車両に乗せれば、機動力も上がるから戦車の機動についていけるし相対的に防御力も上がる。砲架の問題もなくなる。かくして自走砲は生まれたといえる。
 1941年6月、25ポンド砲(88mm砲)を支援大砲にしていたイギリス軍は、この砲の自走化を要求した。それに応じたのがバーミンガム・キャレッジ&ワゴンという会社だった。同年末までには完成するという開発スピードの速さだった。後に”ビショップ”と命名されるこの自走砲は、バレンタイン戦車の車体の砲塔を外してかわりに大きな箱のような装甲板を乗せて25ポンド砲を乗せるというものだった。2ポンド砲(40mm)搭載の戦車に88mm砲という大型の大砲を積むせいもあって、この箱型装甲は車体に比べて相当大きなものとなった。ある意味違った威圧感をあたえていると言える。大型の箱型装甲にした理由は、装填作業にスペースを食うための措置だけども、それでも広さが足りず、射撃の際は箱型装甲の後部ドアを開いて射撃をしていた。当時の各国の自走砲は防御力を犠牲にしてでもオープントップにして、広さを稼いでいるが、このオープントップ方式の方が選択が正解といえ、このビショップのように全周を装甲板で覆う方式は、自動装填機構がなかったこの当時ではいい選択とは言えなかった。ただ、乗っている乗員にしてみれば、安心感は計り知れないものがあったろう。狭い欠点はまだいいとして、この全周箱型装甲の本当の欠点は別にあった。狭い箱型装甲に砲架ごと収めたために、大砲の仰角(水平方向から上の角度)が4度しか取れなかった。この数字は戦車よりも劣った。当然ながら味方後方に陣取っての超過射撃は難しかったし、射程も25ポンド牽引砲の半分以下の5800mしかなかった(元の25ポンド牽引砲の射程は12194m)。これでは戦車砲と殆ど変わらないといっていい。これでは自走砲ではなく、ドイツの突撃砲のようなものだと言える。
 ただ、このビショップ自走砲は北アフリカ戦線で自走砲を欲していたイギリス軍では有効に使われた。1942年9月からはアメリカからM7プリースト自走砲(105mm榴弾砲搭載)が供給されたけども、それでも平行して使われていた。員数が不足していたからというのと砲弾の補給の問題があっての事だった(105mm砲弾はイギリスでは生産されていなかった)。
 北アフリカからドイツ軍を駆逐し、継いで1943年7月にはシチリア島に進攻し、間伐を入れず1943年9月にはイタリア本土へと進攻していった。この頃まではビショップ自走砲は使われていた。ただ、イタリア本土に上陸したあたりから適宜M7プリースト自走砲に変換していき、ビショップ自走砲の後継機種のセクストン自走砲が配備されると、ビショップ自走砲も姿を消していった。
 総生産台数は150両と極端に少ない。ある意味イギリス軍も「応急的兵器」と認めていたのだろうか?。


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