チャレンジャー

全長:        11.6m
車体長:       8.33m
全幅:        3.52m
全高:        2.49m
重量:         62.5t
装甲:       ???mm
乗員数:        4名

(上記データはチャレンジャー2のものです)
武装:55口径
     120mmライフル砲×1
    (50発搭載)
    7.62mm機関銃×2
    (4000発搭載)
動力:1200馬力ディーゼル
走行性能:最大速度:56km/h
       航続距離:???km
総生産台数:706両
  イギリスの戦車開発は戦後になって他国より盛り返してきた感がある。チーフテン戦車の完成は諸外国を驚かせた。なぜなら機動力以外は今の戦車と大差がなく、戦車の外見にしたって「1980年代後半に開発された戦車だ」と言われたら、戦車に疎い人はだまされるだろう。
 しかし、「チーフテンとビッカースでずっといける」と楽観視するほどイギリス陸軍は単純ではなく、さりとて新しい戦車を開発するには金がかかる。取った道は、80年代に向けたNATO標準主力戦車”MBT80”を各国共同で開発した。結果は大失敗といえるものだった。各国の要求をそのまま盛り込んだためコストがかさんでしまったのだった。
 同じ時期にロイヤル・オードナンス社はイランから新型戦車の開発を委託されていた。名前は「シール・イラン」(イランの獅子)というものだった(ロイアル・オードナンス社での社内型式は”FV4030/3”)。チーフテンをベースに開発が進められた。既存の戦車を、特に完成度の高い戦車をベースに開発したため開発は順調に進んでいた。しかしとんでもない自体が起こった。1979年のイラン革命でパーレビ王政が倒れ、ホメイニ・イスラム政権が誕生してしまったのだった。パーレビ王政はアメリカべったりの態度だったせいもあって、ホメイニ政権はアメリカとの仲は嫌煙となり、アメリカの友好国イギリスへの態度も硬化した。結果、シール戦車はキャンセルとなった。
 MBT80の失敗に頭をかかえていたイギリス陸軍はこのシール戦車に目をつけた。これなら新しい主力戦車としていけるのではないか?。と考えたのだろう。また、ロイヤル・オードナンス社を助ける政治的目的もあったろう。このシール戦車を小改良したものが1980年にイギリス陸軍に採用され、「チャレンジャー」の名前がつけられた。
 以上から、チャレンジャーはチーフテンの発展型と取れるものの、その外見は大きく変わっている。チーフテンは曲面加工な砲塔だったけども、チャレンジャーは角張った装甲を施している。これは、中東戦争で、HEAT弾を用いた小型対戦車ミサイル「サガー」の影響だった。強力な戦車が歩兵にやられるといった事態も中東戦争では頻繁に見受けられた。HEAT弾は弾直径の4倍とも5倍とも言われる貫通能力をもち、理屈の上では戦艦大和の砲塔正面装甲も撃ちぬけた。この戦訓で戦車装甲は単純に厚くするだけではダメという事がはっきりわかった。
 ところで、チャレンジャーは「チョバム・アーマー」と呼ばれる装甲を採用している。戦車好きな人間なら知らない人はいないほど有名な装甲ではある。開発経緯は恐らく、第二次大戦でドイツ軍のパンツァーファウスト(戦車用げんこつ)やパンツァーシュレッケ(戦車脅し)などのHEAT弾の歩兵用対戦車兵器を投入しており、イギリス軍戦車は少なからずその餌食となっていた。この戦訓から戦後まもなく開発がなされたと思われるが実際にはよく分からない。ただ、中東戦争でのサガー対戦車ミサイル対策でこの新型装甲の開発が加速されたのは間違いないだろう。「チョバム・アーマー」は複合装甲といわれ、ようは普通の装甲板を蜂の巣のように穴をあけて中空にしてそこでHEAT噴流を止める方法だとか、セラミック(陶磁器なので熱に強い)などをはさんだりとか、いろいろな素材(前述のセラミックやアルミや劣化ウランやら)を交互に織り交ぜているとか、ハニカム構造(蜂の巣のような形)で衝撃を吸収する仕組みとかいろいろな説があるものの、実際にはよく分からない。言うまでもなく最高機密だからで、これは致し方ないだろう。
 チャレンジャーの転輪のサスペンションは一般のトーションバーではなく、油圧式を採用している。油圧式サスペンションを使った戦車は日本の74式戦車が有名だけども、74式戦車の場合は車高を上下したり車体を左右にふる機構を盛り込む必要があったためだけども、チャレンジャーの場合はイギリスで伝統的に使われているからという意味合いが強いのだろうが、油圧式のはユニット方式で、たとえばその転輪が地雷なんかでやられた場合に、そこを新品と交換すればすぐに戦闘に参加できる利点はある。ただし、油圧は油を使うので被弾時に発火しかねない欠点もあるしだいいちトーションバーに比べて高くつく。そのため、多くの戦車はトーションバー方式を採用している。
 チャレンジャーの外観はチーフテンとはかなり違っているとは上でも書いたけど、外観としてはどちらかというと、アメリカのM1エイブラムズに似ているといえる。両者を比較した場合、全長がチャレンジャーの方が長い。ただ高さはチャレンジャーの方が低い。ローシルエットな事がよくわかる。あと、チャレンジャーは63tもある重量で、その重厚感は世界一な印象を受ける。ただ、1200馬力とM1エイブラムズに比べてエンジン出力で劣るため、最高速度は当然劣る。なにせ60km/hも出せないのだから。
 チャレンジャーの照準装置は砲塔上右側にある。この部分は射界確保のために装甲が削られているため、この部分の装甲は多少薄い。まぁ敵の戦車砲弾を食らう場所とも思えないから問題はないのだろう。問題といえば夜間照準装置はなぜか砲塔右側にある。敵の砲弾があたりにくいからという理由なのだろうが、照準補正に時間かかるだろう。実際、他国の戦車との共同訓練では射撃速度が劣っているという。この夜間照準装置は砲手は操作できるし当然見ることもできる。戦車長もそのモニタを見る事はできるのだが、操作はできなかった。これでは的確な指揮はとれないだろう。
 大砲はチーフテンと同じ55口径120mmライフル砲だった。あとの武装は同軸機銃の7.62mm機関銃が1つと戦車長用に砲塔上に同じ7.62mm機関銃を搭載している。話は大砲に戻して、砲弾搭載数はAPFSD徹甲弾が20発でHESH弾と発煙弾が合わせて44発の合計64発を搭載している。HESH弾という弾種には説明がいるだろう。HESH弾とは日本語風にいえば「粘着榴弾」で砲殻が薄くできていて信管が弾底にある。目標にぶつかると薄い殻のためぐにょっと変形し、丁度命中物体に粘着するようになる。粘着して弾低の信管にぶつかって爆発するようになっている。この衝撃波で敵戦車の装甲を内部から崩して、その破片で乗員を殺傷する砲弾である。HEAT弾と違って、炸薬がめいっぱい入っているので、普通の榴弾としても使えなくはない。このHESH弾および発煙弾の射撃時には発射薬がAPFSD徹甲弾の半分でいいので、多く積めるという計算になる。ちなみに、戦車砲弾はチーフテンと同じく、弾と発射薬が分離されているせいもあるからその理由もあるだろう。余談ながら、発射薬の包みは燃えにくい素材で作られていて(急激な燃焼・・・ようは爆発・・・でしか発火しないようになっている。それを液体入り防火コンテナに収容して極力誘爆しないように配慮がなされている。
 チャレンジャー採用当時は戦車研究者の注目の的だった。63tもの重量・チョバムアーマーという謎にみちた装甲・・・といろいろな要素があった。ただ、それだけにしか興味をもたなかったという面もあった。たしかに55口径120mm砲というのはコンカラー重戦車から使われてきた大砲だったから、いまさら研究の余地などはなかったのだろうか。
 1990年8月2日。イラク軍は突如として、隣国クウェートに攻め込んだ。イラクはクウェートを瞬く間に占領し18番目の州に併合すると発表した。無論そんな無法な行動を全世界が許す筈もなく、アメリカを中心とした多国籍軍が結成され、イラク軍との対決に備えた。イギリスも積極的に参加した。今の中東情勢の不安を作ったのはイギリス自身だったし、だいいち「ロイヤルアーミー」の誇りは・・・大国から脱落したからといっても・・・捨てたわけではなかった。あらゆる軍事力をサウジアラビアに集結させていた。チャレンジャーも当然ながら派遣された。ドイツに駐屯していた第一機甲師団(チャレンジャー176両装備)を派遣したのだった。派遣にあたっては何箇所かの改良が施された。本来が砂漠用に設計されたわけではないので、砂漠戦用に防塵フィルターなどを取り付けて、追加燃料タンクを増設した。なにもない砂漠で燃料切れを起こさないための措置だった。派遣された第一機甲師団の兵士の士気は非常に高かったものの、チャレンジャーの諸外国の評価は決していいものではなかった。装甲はともかく、時代遅れとも言えるライフル砲を搭載していたチャレンジャーはアメリカのM1A1エイブラムズや、敵のイラク軍でさえ滑腔砲を採用していたし、他の大国をみても西ドイツ(当時)でも120mm滑腔砲だったし、フランスは105mmライフル砲だったけども、前年に120mm滑腔砲搭載の戦車(ルクレール)の採用を決定していた(引渡しは1991年からだったけど)。日本でさえ、湾岸戦争の4日後の1990年8月6日に120mm滑腔砲搭載の90式戦車の制式採用がなされていたのだった。特に照準装置はその位置の都合上、修正に手間がかかった。事実照準補正に時間がかかるせいで、各国戦車の射撃競技大会での成績は常にドン尻だった。そんなゴタクよりも戦車の乗員は「本当に自分の命を託せる戦車なのか?」それが心配だったろう。何度かの外交折衝が行われたものの、結果は不発。開戦は時間の問題となってくると、その心配は増えていったろう。しかし信じるほかなかった。第一機甲師団の第7機甲旅団長のコーティングレー准将は信じていた。
「チャレンジャーは世界最強だ。決して橙戦車ではない・・・」
と。(橙戦車=橙(だいだい)は正月用などで使われるがそれ以外には使い道がないという意味で、ただの置物戦車という揶揄。俺の造語。)
 1991年1月17日。多国籍軍は最後通牒を蹴ったイラクに空爆を開始。1ヶ月以上空爆で痛めつけた後で地上部隊を攻め込ませた。地上部隊の進撃は2月24日だったものの、第1機甲師団の第4機甲旅団のチャレンジャーの部隊はその初日にはイラク軍との戦闘を経験することとなった。真夜中のしかも雨という天候だったものの、チャレンジャーの暗視装置はイラク軍戦車を捕らえた。T-55戦車のようだ。照準補正が手間取るって?。いや、戦車の大砲は素早く撃つためにあるのではない。敵に確実に食らわせるためにあるのだ。チャレンジャーは照準を済ませ遠慮なく砲弾を叩き込む。命中!。T-55戦車は炎に包まれた。これが多国籍軍の最初の戦果だった。その後の戦闘ではなんと5000mも離れたT-55戦車を撃破したという。M1A1エイブラムズでも3000mあたりが命中させられる限界だと考えると、ライフル砲は文字通りの狙撃ができたといえるだろう。ライフル砲という選択も決して間違いではなかったのだ。その後もチャレンジャーは次々と戦果を上げたが、損失は微々たるものだった。エンコで何両かが戦線離脱したものの、敵にやられたものは絶無だった。特に派遣されたチャレンジャー176両は開戦時にはすべて稼動状態にあったし、第4機甲旅団に配備されていた59両は停戦までに6両がマシントラブルで脱落したものの、残り53両はいつでも戦闘体勢OKな状態にあったという。機械的にもチャレンジャーは完成されていたのだった。戦後、第7機甲旅団長のコーティングレー准将はマスコミの取材に胸を張って答える事ができた。

「チャレンジャーは戦うために作られた戦車なのだ。射撃競技用のために造られたのではない。」

 戦後しばらくして、イギリス軍はチャレンジャーの戦果に大満足し、後継機種の開発を行なった。開発ではなく改良といった方がただしいだろう。この車両はチャレンジャー2と命名された。外見上のおもな違いは、照準装置が大砲の上にきたのとサイドスカートの形状がかわったぐらいだが、中身は大きく進歩した。特に暗視装置やFCS(射撃統制装置)やGPS航行装置などの電子機器の強化はかなりのレベルで行なわれている。戦車長用に専用の暗視装置がつけられたのも大きな進歩といえる。また、チョバム・アーマーも新型になっている。メーカー発表ではこれまでのチョバム・アーマーはHEAT弾対策を重点に置いてきたものの、新型はAPFSDS弾などの徹甲弾用に運動エネルギー弾にも十分対応できるという。言うまでもなく詳細な情報は極秘でどういう仕組みかを知っているものはほとんどいない。

 チャレンジャーは1990年までに420両が生産されてチャレンジャー2の方は386両が生産された。また戦車回収型も80両がつくられて、いくつかの特殊車両があるけども、詳細は省く。イギリスではチャレンジャー2の輸出を狙った型も開発しており、これはチャレンジャー2Eと呼ばれる。エンジン馬力を1500馬力にあげて、最高速度を70km/h出せるようにしたものと言われている。ただ、今の情勢を考えるとどの程度輸出ができるのかはわからない。


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