チャーチル歩兵戦車

全長:        7.44m
車体長:       7.44m
全幅:        3.48m
全高:        2.74m
重量:         41.0t
装甲:    16〜152mm
乗員数:        5名

(上記データはチャーチル7型のものです)
武装:75mm砲×1
    7.92mm機関銃×2
動力:12気筒水冷
    350馬力ガソリン
走行性能:最大速度:21km/h
       航続距離:161km
総生産台数:5460両
 何度も書いているようにイギリスは世界で始めて近代的な戦車を実戦投入した国だった。第一次大戦の頃で、この戦いは塹壕戦で機関銃を装備して塹壕に立てこもった敵兵の陣地をどのように突破するかだけの戦いだった。この答えの1つが戦車だった。この戦車の開発に乗り気だったのは、後に首相となる、ウィンストン・チャーチルだった。「鉄砲玉が恐いならそれを弾く装甲を施した車を作ればよい。塹壕を突破したいのなら全長が長いキャタピラ車両を作ればよい」。案外誰も発想しなかった事を実行に移したのだからその決断力は立派だと言える。さて、目的が塹壕の突破で、歩兵の支援にあったから、重要なのは塹壕を超えられるほどの長い車体に銃弾を防ぐ装甲板を施しただけでよかった。速度は遅くてもよかった。ただ、当時は搭載するエンジンが非力なせいもあって、速くしたくてもできない事情もあった。
 今から紹介するこのチャーチル歩兵戦車はこの思想を引きずって開発された。開発されたのが第一次大戦直後とかなら話は分かるが、原型の開発がなされたのが1939年9月。ちょうど第二次大戦が始まった頃だった。本格的に開発に入ったのが1940年6月。ちょうどこの月にフランスはドイツによって制圧された頃だった。当然イギリス軍はこのドイツ軍の機甲師団に散々に蹴散らされ、重装備をすべてデンケルクの海岸に置き去りにした屈辱を味わったのにかかわらず、こんな鈍重な戦車を開発していたのだった。完成は早く1940年11月には完成し、Mk.4歩兵戦車”チャーチル”として採用された。チャーチルとはいうまでもなく、当時のイギリス首相”ウィンストン・チャールズ”から取られているが、この名前がつけられた理由は、チャーチル首相がこの戦車の開発を何がなんでも急がせたからだと言われている。
 さて、初陣は1942年8月19日のフランスのディエップ上陸作戦だった。このディエップ上陸作戦はいずれ起こるであろう本格的なフランス上陸作戦(いわゆるD-DAY)への予行演習な意味あいもあったし、データ採取な意味もあった。結果からいえば大失敗だった。特に作戦の主力だったカナダ軍は損害9割(戦死・戦傷・捕虜の合計)という文字どおりの全滅だった。チャーチル歩兵戦車は30両が投入されたものの、ドイツ軍の迅速な対応による反撃で撤退は潰走に近い状態だった。ダンケルクと同様に撤退は人間優先だったため、チャーチル歩兵戦車30両はすべて失われた。ただ、イギリス兵がドイツ軍レーダーサイトから持ち帰った部品がその後のイギリス軍レーダー研究に役にたった点もあったし、作戦面でもいくつか分った点はある。それはいきあたりばったりの作戦ではダメな事。上陸の際には迅速に港を奪取して、そこを拠点にしなければいけない事(浜辺への上陸では大量の物資を揚陸できない)。また、戦車でも戦訓があった。浜辺では機動力が劣ってしまう事。支援大砲は戦車砲では威力不足な事。厳重に構築されたトーチカは多少の攻撃を食らってもビクともしない事。などだった。結果、チャーチル歩兵戦車はさまざまなバリエーションを生む事になる。浜辺でも機動力が落ちないようにカーペットを敷く装置を搭載したチャーチル歩兵戦車や(チャーチルのボビンと呼ばれた)。拠点攻撃用には290mm臼砲を搭載した型も作られたし(ごみ箱投擲器と呼ばれた)、頑強なトーチカに浴びせるために火炎放射戦車型も作られた(クロコダイルと呼ばれた)。
 1944年6月6日。ついにD-DAYがやってきた。2年もの準備期間をへて、アメリカ・イギリス連合軍は大挙、フランスのノルマンディーにやってきた。揚陸港の確保は”マルベリー”という人工の港をイギリスから曳航するという大胆な発想で、ノルマンディー海岸にやってきた。アメリカ軍のオマハビーチでの死闘はいろいろな映画で取り上げられているから知っている人も多いだろう。ただ、イギリス軍が担当した浜辺は陣地構築が未完成なこともあって、抵抗はさほど大きいものではなかった。上でかいたチャーチル歩兵戦車とその派生型(火炎放射戦車など)は大活躍する事になった。290mm臼砲は射程は短いが、威力は絶大でいやおうにもドイツ軍の士気を削いだし、チャーチルボビンは戦車の揚陸を容易にした。火炎放射戦車型のクロコダイルはトーチカ内部にいるドイツ兵を焼き尽くした。いろいろな型のチャーチル歩兵戦車は大活躍した。この同一機種多種類の兵器が活躍したのはそうはないだろう。多種にわたったため、この部隊を指揮したホバート准将の名前をもじって「ホバーツファニーズ(ホバートの変な連中)」と誰がいうまでもなく呼ばれていった。ある意味、活躍できたからこそ付けられたとも言えなくはない。
 話はさかのぼって、チャーチル歩兵戦車はユーロ戦線にしか投入されたわけでもなく、北アフリカ戦線の天王山といえる”エルアラメインの戦い”にも参加している。ただ、装甲以外はドイツ戦車の敵ではなかった。
 チャーチル歩兵戦車の総生産台数は5460両にも達した。こんな鈍足旧式戦車がよくもまぁこんなに作られたなぁというのが正直な気持ちだが、単に戦車としてではなく、上記の特殊車両のほかにも、工兵用に改造されたのもあったし、架橋戦車に改造されたのもあった。やはり、デカい車体だと改造のしがいがあるのだろうか?。第一線兵器ではすでになくなっていたものの朝鮮戦争でも使われていた。最後のチャーチル戦車(工作車両)が引退したのが1965年の事だった。実に25年も同じ国で使われた長寿命な戦車であった。

 チャーチル歩兵戦車は上で書いたように装甲が厚く速度が遅い、典型的なイギリス歩兵戦車だったけども、形状は第一次大戦の菱形戦車を長方形にしてその上に砲塔を載せた印象をうける。全長が長いせいもあるだろうが、砲塔が小さくみえる。足回りはコイルスプリング式で、9個の小さな転輪がある。この時点で旧式な感じがある。装甲は当初は最大100mmだったけども、改良されるにしたがって、Mk.7型では152mmにまで厚くなった。ドイツのティーガー2重戦車なみと言える。問題は砲塔の方で、小さめなため、最初の3インチ(76.2mm)榴弾砲搭載型では砲塔には1人しか入れず、ようは1人で装填・射撃・戦闘指揮をする必要があったため効率がわるかった。そのため一時期は機関銃しか搭載しなかった型もあった。Mk.3型からは6ポンド砲(45口径57mm砲)を搭載していた。ただ、この大砲も装甲が時間がたつにつれて厚くなっていたドイツ軍には役不足だった。後には75mm砲も搭載されるが、これが限界で、また速度も遅かったため、戦車としての戦力価値は徐々に薄れていった。車体が大きいのだからもっと大きな砲塔を積んで17ポンド砲(60口径76.2mm砲)を積んでいたら、もう少しは使えたのではないか?ドイツもソビエトも速度には目をつむって大火力・重装甲の重戦車を作っていったが、伝説的ともいえる戦果を残しているのはこれら重戦車だった。チャーチル歩兵戦車もこの仲間入りを果たせたのではないかと思える。もっとも、後知恵ならいくらでもいえる事なのはわかっているのだが・・・。


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