全長: 5.61m 車体長: 5.61m 全幅: 2.59m 全高: 2.51m 重量: 26.9t 装甲: 13〜78mm 乗員数: 4名 |
武装:52口径40mm砲×1 (2ポンド砲) 7.7mm機関銃×1 動力:95馬力ガソリン 走行性能:最大速度:24km/h 航続距離:???km 総生産台数:2987両 |
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「マチルダ」という名前の戦車はイギリスには2つある。それぞれマチルダ1とマチルダ2だけども、名前は同じだけど両車とも兄弟戦車というわけでもないしバリエーションというわけでもない。詳しくは下を参照してほしい。 1935年にドイツではヒトラー総統によって再軍備が宣言された。ようはベルサイユ条約の破棄だった。イギリス・フランス両国の事情はといえば、イギリスでは厭戦ムードはまだなお漂っていたし、フランスでも国内事情が悪化していた。そのため両国ともドイツに対して強硬な姿勢がとれず、ドイツに対して欲望を満たしてやろうという政策・・・いわゆる「宥和政策」・・・をとっていた。この宥和政策には東のかなたのソビエトに対抗した(ようはドイツとソビエトを対立させる)という戦略上の意味があったけども、1939年8月の独ソ不可侵条約で脆くも崩れ、追い討ちをかけるように翌月の9月1日にはドイツはイギリス・フランスの攻守同盟国だったポーランドに攻め込んだ事でこの構想は吹き飛んだ。後にイギリス首相チャーチルが 「この戦争ほど阻止するのが容易な事はなかった」 と漏らすほど、イギリス・フランスの外交政策の甘さが露呈したといえるだろう。 さて、宥和政策をしてたとはいえ、イギリス・フランスとも「これで大丈夫」と思っていたほど単純ではなく、自国の軍備強化も忘れなかった。フランスでは壮大な無駄と揶揄されたマジノ要塞の建設を急がせた。イギリスでも後にスピットファイアと呼ばれるイギリスを救ったと言われる戦闘機の開発や各種の大型爆撃機などが開発され陸上でも各種の兵器が開発された。このマチルダ2もその中の1つだった。 1936年にこのマチルダ2の開発が開始された。とにかく、ドイツの再軍備がなされていたため、事態は急を要しており1からの開発ではなく、試作に終わったA7E3戦車をベースに開発が行なわれた。要項としては24km/hで走れる事。エンジンは軽油以外の燃料でも動かせる事。2ポンド砲搭載。装甲は厚くする。といったもので、おおよそ歩兵支援戦車としては妥当な選択だった。この計画はA12計画よ呼ばれたものの、開発コードは"Matilda"だった。ようは最高速度13km/hの鈍足戦車マチルダ1と同じ名前だけども、これは秘匿する意味合いがあった。 1938年初頭に完成し1938年4月に「マチルダ2」として制式採用された。最大装甲は78mmとこの当時としては最強の装甲で、ソビエトのKV-1初期型よりも装甲厚が厚かった。 実戦投入がなされたのは1940年5月。ドイツ側呼称「黄色の場合」作戦からだった。ドイツ軍は低地諸国を次々と制圧しフランスをまさに電撃戦で飲み込もうという作戦だった。ユーロ大陸に展開していたイギリス軍はやられっぱなしだったが、ロイヤルアーミーの意地はまだ健在だった。1940年5月21日、マチルダ2が16両とマチルダ1を58両とで、アラス戦線でドイツの「幽霊師団」と恐れられたドイツ第7装甲師団に襲いかかった。第7装甲師団の師団長は後に「砂漠の狐」とイギリス軍に恐れられた名将「ロンメル」将軍だったものの、この攻勢は防げなかった。理由は最大装甲厚78mmを誇るマチルダ2を貫通させる戦車砲をもっておらず、当時のドイツ戦車ではたとえ距離5mでもマチルダ2の装甲を撃ちぬく事はできなかった。逆にマチルダ2の大砲は軽々とドイツ戦車を撃ちぬいた。当時のドイツ戦車は機動力を重視しており、特に装甲もとりたてて厚いものではなかった。この戦いで大戦果をあげたが、マチルダ2の損失はゼロだった。まさにパーフェクトな戦いだった。この敗戦はドイツ軍首脳の度肝を抜き、ティーガー1重戦車開発促進の直接的原因となった。また、ロンメル将軍もこの戦い以降、自軍の対戦車砲の無力さを悟り高射砲にその任務を任せる戦術をとった。アフリカ戦線では高射砲を対戦車砲として使う事が組織的に行なわれ、大戦果をあげたのはよく知られている。さて、ユーロ戦線で活躍したマチルダ2ではあったが、戦局を左右するまではいかず、結局イギリス軍はダンケルクからの撤退を余儀なくされ、撤退は人間が優先的に行なわれたため、戦車などの重機材は全て置き去りだった。無論、ユーロ大陸に展開していたマチルダ2は全てが失われた。結局、フランスは1940年6月22日に降伏。ユーロ大陸での陸上戦は以後4年間は行なわれる事はなかった。 ユーロ大陸の戦闘は終わったが戦争が終わったわけではない。マチルダ2は今度はアフリカ戦線に送られた。1940年9月12日。イタリアのドゥーチェ(頭領)のムッソリーニが突如リビア(当時イタリア領)からエジプト(当時はイギリス領)に侵攻を開始した。もはや、イギリス軍は先の陸上戦と航空戦で弱体化しているとでも思ったのか。イギリス軍も早速増援を派遣。特にマチルダ2は主力戦車として活躍した。対するイタリア軍は戦車の質、兵隊の質ともに劣悪でイギリス軍の敵ではなかった。「戦場の女王」と言われたマチルダ2の最高の至福の時期であったとも言える。ただしドイツが黙ってみているはずもなく、軍を派遣しイタリアを助けた。派遣されたアフリカ軍団の長は皮肉にも、マチルダ2に痛い目を見せられたロンメル将軍だった。今度ばかりは黙ってやられるはずもなく、高射砲をもってマチルダ2に対抗した。本来高射砲は言うまでもなく航空機に対する兵器だったものの、高くに砲弾を飛ばす必要があったので初速が速く戦車の装甲も簡単に撃ちぬけた。実際、高射砲をベースに作られた戦車砲もあった。また、高射砲は何百発もの砲弾を素早く打ち上げて弾幕で落とす兵器なので発射速度も高く、これも対戦車戦闘にはうってつけだった。ただ、高射砲はあくまでも第一線兵器ではないので、防御力が弱く、陣地構築が大変という欠点もあったものの、ロンメル将軍は積極的に高射砲を対戦車戦闘に使った。さすがのマチルダ2も88mm高射砲から発射される徹甲弾(本来でも自衛用に何発かは装備されていたが、ロンメル将軍の要望で大量にアフリカに持ち込まれていた)は防御できなかった。また、マチルダ2は砲塔が狭く、より強力な大砲に換えることができなかった。この当時からもより強力な6ポンド砲(57mm砲)があったものの、それに換えられなかったのだった。そのため、「戦場の女王」も活躍の場はなくなりつつあった。78mmの装甲もドイツの新型戦車4号戦車F2の43口径75mm砲も防げなくなった。またマチルダ2は速度が遅く、上で書いたように大砲の破壊力もなくなっていた。対するドイツ軍戦車は装甲はますます厚くなっていたのだ。ドイツ対イギリス軍のアフリカの戦いは文字通りの一進一退で「振り子戦争」とまで呼ばれた。この機動戦にマチルダ2は不向きだった。 1942年7月1日。第一次エル・アラメインの戦い。ドイツ・アフリカ軍団が戦略上の要衝エル・アラメインを奪取すべく攻勢を開始。しかし、イギリス軍は着任したばかりのモントゴメリー将軍の巧みな陣地構築でこれを阻止 1942年8月30日。第二次エル・アラメインの戦い。ドイツ・アフリカ軍団は迂回攻撃でエル・アラメインの攻略を目指した。しかしイギリス軍は偵察行動でこれを察知。強力な地雷原を敷設し、ドイツ軍の夜間行軍を阻止した。夜が明けると同時に強力な航空攻撃と砲撃にさらされたドイツ・アフリカ軍団は撤退を余儀なくされた。これ以降ドイツ・アフリカ軍団は攻勢を取る事はなかった。 1942年10月23日。第三次エル・アラメインの戦い。疲弊したドイツ・アフリカ軍団にイギリス軍が襲いかかった。作戦としては戦力的に格下だったイタリア軍を攻撃しそこから突破口をうかがうものだった。この作戦は成功した。ロンメル将軍は装甲部隊による機動反撃を試みたものの、補給が続かずそこをイギリス軍に攻撃され撤退を余儀なくされた。この攻撃でアドバンテージは完全にイギリスサイドに移った 上記の戦いでマチルダ2は活躍をしている。しかしこの戦い以降は第一線から姿を消す。この頃になるとアメリカからM3グラントなどの戦車を供給されだしたからである。ただ、生産自体は1943年8月まで続けられて、総生産数は2987両も作られた。本国イギリス軍では上記のように1942年までしか使われなかったものの、オーストラリア軍では終戦まで使われた。太平洋戦線にも姿をあらわしたという。 エル・アラメインの戦いは第二次大戦のアフリカ戦線の天王山とも言える戦いだった。その戦いに勝利し、それを境に第一線から引退したマチルダ2に、すがすがしさを思わせるのは私だけだろうか?これぞ「戦場の女王」の潔い引退ではなかったのだろうかと思えてならない。 |