ルノーFT17

全長:        4.88m
車体長:       4.88m
全幅:        1.74m
全高:        2.14m
重量:         6.7t
装甲:      最大16mm
乗員数:        2名
武装:21口径37mm砲×1
    または8mm機関銃×1
動力:39馬力ガソリン
    水冷4気筒
走行性能:最大速度:8km/h
総生産台数:3187両
  第一次大戦は今の戦いの多くの兵器が実戦的に使用された戦いでもあった。たとえば飛行機はそれ以前の戦いでも用いられてはいたものの、偵察任務以外での戦いは第一次大戦が最初だったと言われる。制空戦闘や爆撃などがそれだった。潜水艦も、南北戦争の頃までさかのぼれるけども、本格的な魚雷を装備して戦ったのは第一次大戦からだった。戦車もその1つだった。紀元前から戦車と呼ばれるものはあったものの、鉄の装甲を施して、大砲を積んで敵陣を突破すという戦車が使われたのは第一次大戦からだった。飛行機・潜水艦と共に戦場にはなくてはならないのがやはり戦車だった。
 第一次大戦で最初に戦車を登場させたのはイギリスだった。ただ、その目的は塹壕の突破だった。そのため、菱形で縦に長く、操縦性はいいとはいえなかったし、鈍足だった。菱形戦車はある意味「古典な戦車」の代名詞ともいえただろう。当時「陸軍大国」と謳われ、19世紀にはヨーロッパ全土を席巻した事もあるフランスでも戦車の開発は行われていた。その戦車製作を指示したのはエティエンヌ将軍と言われている。1917年2月には試作車1号車が完成している。イギリスの戦車と違って、外見上で特徴的なのは、砲塔を搭載していたという事で、これは360°旋回が可能でどこへでも射撃が可能だった。また、車体も、前方から、操縦席・戦闘室・エンジンルームというレイアウトは現代でも変わらない(一部の例外はあるけど)。ある意味、現代戦車の先駆け的な戦車であったといえる。砲塔に載せた武装は当初は8mm機関銃だったけども、後には21口径37mm砲のSA18歩兵砲を搭載した。余談ながらこのSA18は俗に「プトー砲」と呼ばれている。車体の特徴として、結局はこのルノーFT17も塹壕突破を目的としていたので、車体が小さいからそのままでは幅広い塹壕を突破できないので車体後方にテールと呼ばれるシッポをつけていた。これで広い塹壕を突破しようとしてもわたりきった際に後方に転げ落ちないようにするものだった。実際には乗員の物置場所としても重宝された。
 このルノーFT17の初陣は1918年5月31日のレッツの森での戦いと言われている。半年後には停戦を迎えるため、大活躍したとはいいがたい。しかし、ルノーFT17はイギリスの菱形戦車とちがって、小型だったので、大型トラックでも搬送が可能で、移動中に故障しまくったイギリス戦車よりは活躍する状況は充分にあっただろう。1918年11月のドイツの革命で停戦となった第一次大戦だったけども、ルノーFT17はその性能を買われ世界の20ヶ国以上に輸出された。ただ、第一次大戦後の嫌戦ムードにあっても戦車の進化はなされていっていたから、ルノーFT17はじわじわとその活躍の場は失われつつあった。なにせ最高速度が8km/hだから機動性などないに等しかった。なおルノーFT17を輸入した国には日本もあった。日本に輸入された台数はわからないが、騎兵学校や歩兵学校(歩兵学校の戦車教導隊)などに配備されていたので、教育目的で輸入されたのだろう。ただし満州事変ではハルピン郊外で実戦を経験しているし日中戦争でも上海で戦闘を行っている。ただ、この上海での戦いの戦績は芳しいものではなく、この戦いの後に第一線装備から外された。
 当のフランス陸軍でも骨董品とは自認はしていたと思うが、第二次大戦勃発時にも多数が存在していて、1940年5月のドイツ軍侵攻の際でも実に2500両以上が配備されていたという。殆どは警備程度でしか使われなかったものの、一部には第一線配備がなされていた。馬力が今の250ccの単車よりも劣るのに重量は7t近くもある戦車なので機動性は劣悪。その馬力のない車体を引っ張る必要があるから装甲も薄い。しかも大砲は所詮歩兵砲なので威力はなかった。言うまでもなくドイツ戦車の敵ではなく、単なる的にすぎなかっただろう。フランス占領後、警備目的で使用されていたルノーFT17は多くがドイツ軍に摂取された。言うまでもなく第一線で使うのは不可能で、占領下の治安警備に使われた。治安警備とは聞こえがいいが、ようは占領地住民用の威圧目的だった。言うまでもなく、占領下の地域に貴重な戦車を回すほどの余力はドイツ軍にはなかったからだが、こういう目的でしか使えないという事情もあったろう。
 上でも書いているけども、ルノーFT17は形自体は古めかしいがその構造は現代戦車ともあまり相違はない。その意味では画期的な戦車であった。ただ、数量がそろった頃には戦争が終わり、その旧式のまま次の戦いに突入したという不幸を背負った戦車ではあった。出現があと1年早かったら、世界の戦車史に「大活躍した偉大な戦車」としてでも名を残したのではないか?。ある意味出現時期が悪すぎた戦車であったと言える。


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