ソミュアS35

全長:        5.38m
車体長:       ?.??m
全幅:        2.21m
全高:        2.63m
重量:        19.5t
装甲:     最大40mm
乗員数:        3名
武装:34口径47mm砲×1
     7.5mm機関銃×1
動力:190馬力ガソリン
走行性能:最大速度:45km/h
総生産台数:500両前後
 騎兵といえばかつては戦場の華だった。騎士(ナイト)といえば昨今のロールプレインゲームでわかるように主人公になりやすく、騎士道精神で我彼が1対1で戦っていた時期もあった。ただ、集団戦が主体になってくると騎士の戦術も大きく変わってしまった。とにかく機動力を求められ突撃を行い敵戦線に大穴を空けて歩兵の突撃を容易にする任務だった。ただ、集団戦が成熟してくると騎兵の突撃も無意味となりつつあった。1815年、ワーテルローの戦いでのフランス軍のネイ将軍による5000騎による騎兵突撃はこの戦い最大の華であった。日本の戦いのように何十騎ずつの騎馬隊突撃とは違う。ユーロ平原のだだっぴろいところで5000騎もの騎兵が一度に突撃するのだ。想像するだけで壮大さをうかがわせるではないか。ただ、イギリス軍は落ち着いて方陣を組み銃剣をネイ将軍の騎兵隊へと突き付けた。結果、方陣を崩すことには成功したものの、戦線崩壊とはならなかった。砲兵支援もままならなかったフランス軍は崩壊。ナポレオンはセント・ヘレナ島へと流された。
 この後、騎兵という存在は小さくなった。機動力を生かしての襲撃や機動戦術、はたまた偵察任務とそれなりの活躍はあったものの、主力は歩兵に移りつつあった。理由として、ライフルの発達にある。ライフルというのは前込め式の時代は1分に2〜3発程度しか撃てなかったものの、19世紀中ごろから1分に5発以上は撃てるように改良された。特に19世紀末には最高傑作といわれるモーゼル式ボルトアクションライフルが完成。騎兵隊が突撃しても到着する前に壊滅されるのは目に見えていた。拍車をかけるように機関銃が完成すると、騎兵隊の突撃はもはや自殺行為同様となっていった。ただ、日露戦争での天王山の戦い”奉天決戦”では秋山中佐率いる騎兵隊の活躍がよく知られるが、あくまで騎兵部隊の機動力が際立ったもので、実際の戦闘では下馬して戦っている。第一次大戦になると塹壕戦での騎兵隊などお呼びではなかった。
 ただ、騎士精神は廃れてはいなかった。乗馬技術は絶やしてはいけないと、各国とも騎兵部隊の乗馬訓練は絶やさなかった。いや、乗馬技術だけではない。騎士精神をも絶やしてはいけないと思っていたのだろう。ただ、その精神はともかく、時代の流れは、装備の機械化が求められていたのだった・・・。

 1934年。フランスの騎兵監部では装備の機械化が愁眉の的だった。Somua(ソミュア)社が開発を行った。ちなみに戦車はフランスでは歩兵監部の管轄とされてはいたが、その辺はおおらかだったようで、後にフランス軍によって採用されるこの戦車は”Char 1935S(1935年型戦車。SはSomuaの略か?)”と一応は戦車という名称が付けられた。縄張り意識で、”重装甲車”と称した日本騎兵部隊や、Cambat Carと称したアメリカ騎兵部隊とは器が違うということか?
 さて、翌1935年8月には完成し、性能テストに給された。その能力は満足いくもので、特に最高速度45km/hは当時としては快速だった。不整地も難なく走行しフランス騎兵監部も、おおいに満足いくものだった。
 「これぞ現代の騎兵だ!。我がフランスに新しい鉄騎兵が誕生だ!」
 どう思ったかは知らないが、直ちにこの戦車は採用された。名称は”Char 1935S”と命名された。ただ、一般にはソミュアS35と呼ばれるため以下ではソミュアS35と呼称したい。
 たしかに、ソミュアS35は戦車ではなく騎兵だったと言える。ソミュアS35は3人乗り。操縦手と戦車長とあと1名だっただった。あと1名はどういう任務だったのかはわからない。もしかしたら、無線手だったのかもしれないが、当時のフランス戦車は無線装備されている戦車は中隊長車クラスで、ないし小隊長車にも装備されてたかなといった程度だった。戦車長は砲塔に陣取って指揮をおこなった。いや、指揮だけではない。砲塔は戦車長1名しか乗り込めなかったため操縦以外の全てをこなす必要があった。ようは戦車は馬、操縦手は手綱(たづな)だったと言えなくはない。操縦手には失礼であるが、戦車長はそれこそ騎士そのものだった。誇りをもって任務を遂行しただろう。しかし、騎士と決定的に違うのは、中世の騎士は手綱を握るのとあとは槍を突くのが仕事だったが、ソミュアS35の場合の戦車長の任務は戦車操縦の指揮・砲弾の装填・射撃・排莢・同軸機銃の射撃・同軸機銃弾の装填・周囲警戒をこなさないといけなかった。戦車長はまさに苦労の連続だったろう。

 1940年5月。ドイツ軍は「まやかし戦争」と言われた独仏国境での沈黙を破り低地諸国とフランスに襲いかかった。不意を突かれたフランス軍であったが、各地で小反撃を開始。ソミュアS35はこの時点で416両しか配備されていなかったものの、当然ながらドイツ軍への反撃に使用されている。軽快に疾駆しドイツ軍に勇敢に襲いかかったソミュアS35はまさに騎兵だった。なお、敵のドイツ軍でも戦車を騎兵に見立て、戦車搭乗員の服はプロイセン騎兵を模範とし黒基調の野戦服だったが、ドイツ軍は戦車は戦車としていた。乗員は5名。戦車長は指揮に専念して戦うものだった。大砲の射手にしたって専門の装填手が乗りこんでいたのだから、発射速度に大きな差がでたし、周辺警戒が徹底しており、また無線機も装備されていたためチームワークも徹底していた。フランスのソミュアS35はドイツ戦車と比較しても決して劣ってはいなかった。むしろ優れていた面すらある。しかし、以上の差はいかんともしがたく、各個撃破されていき、自国の首都を護る事はできなかった。
 1940年6月14日。フランス共和国首都”パリ”は陥落。その8日後、フランスはドイツに降伏するのだった。

 残念ながら、騎兵の活躍の時代は100年以上も昔に終わっていたのである・・・。

 生き残ったソミュアS35は当然ながらドイツ軍に接収された。ただ3人乗りのため、ドイツ軍からはあまり好まれず、1941年6月のソビエト侵攻作戦”バルバロッサ作戦”でも絶対的に戦車数が不足していたにもかかわらず、ここでの実戦使用されなかった。東部戦線で使われた形跡はないようで、西部戦線では1944年以降に使われた形跡がある。ただ、4年前の中古戦車がいかほどの活躍をしたかは容易に想像ができる。たぶん、一矢も報いず撃破されたのだろう。

 第二次大戦はそれ以前の戦いとは比較にならないほど民間人に死傷者がでた。騎士道精神の終焉は戦闘を無差別殺人へと狩りたてた契機だったのかもしれない。


 ソミュアS35は砲塔がフランス得意の鋳造砲塔だった。3つに分割して作られて、それをボルトで結合して作られていた。そのため、生産性が高いという利点があった。ただ欠点もあった。鋳造砲塔は普通の装甲板式と比べて、強度が弱く、同じ防御力を求めるなら重くなるという点がある。まぁこれは若干の差であり致命的ではない。現実にアメリカ・ソビエトを勝利に導いた、M4シャーマン戦車やT-34戦車は鋳造砲塔だった。致命的だったのはボルト結合式で、これは被弾した場合、砲弾を防げてもこの結合部が剥離するという欠点が実戦で露出した。中の乗員は砲弾から守られても砲塔がバラバラになった戦車など、もはや戦車ではない。ただの屑鉄である。しかも、ボルト頭が剥離して乗員に襲いかかるという欠点もあった。電気溶接は小さいものならともかく、戦車の装甲板を全周溶接を均一に行うには当時としては高度な技術だった。フランスは鋳造は産業革命期から十八番(おはこ)としてきたが、電気溶接の点では劣っていた。ちなみに、ドイツでは特に海軍で電気溶接技術が発達していた。ドイツ海軍は第一次大戦の敗戦で海軍軍備が大きく制限されていた。そのため船体をボルト結合ではなく、電気溶接にしてボルトの重さを浮かそうという試みがなされた。この狙いは成功し、ポケット戦艦と呼ばれた”グロス・ドイッチュラント”では500tもボルト重量分が浮いたと言われている。以上余談。
 武装は47mm砲1門と同軸の7.5mm機関銃1丁。当時としては平均的な武装といえた。ただ2人乗りで戦車長と操縦手なので、個別に前方機銃というのはなかった。日本の軽戦車でさえ前方機銃があったのを考えればクラシックなのは否めない。騎兵としての運用だから別によかったのか?。ちなみに、7.5mm機関銃は大砲と切り離して別個の操作が可能となっていた。


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