3号戦車(PzKpfw3)
全長:        ?.??m
車体長:       5.52m
全幅:        2.95m
全高:        2.50m
重量:  21.5t(全備重量)
装甲:     10〜50mm
乗員数:        5名

(上記データは3号戦車J型のものです)
武装:60口径50mm砲×1
            (78発搭載)
    7.92mm機関銃×2
           (2000発搭載)
動力:マイバッハ
    320馬力ガソリン機関
走行性能:最大速度:40km/h
       航続距離:155km
総生産台数:5621両
      (試作型・派生型除く)
 1933年にドイツで、ヒトラーが首相に任命され、ナチスが主軸の連立内閣が成立した。翌年にはヒトラーは大統領も兼任に、さらに翌年の1935年には再軍備を宣言するにいたった。ここで、軍需産業は堤防が崩れるように急激に活性化していき、いろいろな兵器が開発された。
 3号戦車も1935年に製作指示が出された。要求項目としては
・250馬力で40km/hで走れること。
・5人乗りであること。
 だった。馬力と速度が決まってくれば重さもおのずと決まってくる。だいたい15t程度だった。
乗員の5人だけど、これが特筆すべき点だった。5人の内訳は
・車長
・操縦手
・砲手
・無線手(兼、前方銃手)
・装填手
 という編成。乗員が多くなると車体がデカくなるという弊害もあった。たしかに性能がほぼ同じ日本の97式戦車(4人乗り)に比べれば一回り大きい。しかし上で「特筆すべき点」と書いた理由は、戦車長が指揮に専念できるという事だった。隣国フランスの戦車は2人乗りで、車長と操縦手の編成だった。車長はようは操縦以外の全てをこなさければいけなかったのである。この戦車長が指揮を専念できる点がドイツの電撃作戦を可能にしたといえる。
 こまごました点をいえば、37mm砲を搭載の事で、これが「ドイツ戦車も対戦車戦闘を想定していなかった」と言われる理由だけども、当時のドイツの47口径37mm砲は1000mで30mmの装甲貫徹が可能だった。30mmという数値は開発当時としては戦車の装甲がそこまでなかったから、明らかに威力不足ではなかった。しかし何年かすると、軽戦車でも40mm以上の装甲をもつのがあらわれ、普通の戦車でも50mm装甲が常識となっていった。
↑3号戦車A(?)型
 1937年5月には試作車両が完成。これがA型と呼ばれているものの、重量が予定より重くなり、機動性が失われた。いろいろと追加試作が行われた。エンジンは300馬力まで上げられて、転輪も6個にしたE型が完成するにいたり、ようやく実用のメドがたった(右写真を参考にしてほしいが、転輪はE型までは8こだった)。時に1938年12月。第2次大戦を9ヶ月先に控えた頃だった。結局この遅延が登場時には旧式化という事態を招き、また数量もそろわないという弊害を招いたといえるが、これは後知恵なら何でも言える事柄だろう。しかし、ポーランド戦まで実戦配備された数は96両にしかすぎなかったため、「主力」というには程遠かった。
 主砲は47口径の37mm砲で、戦車部隊側は50mm口径を要望していたものの、結局は「50mm砲を搭載可能にしたマウント」を装着した37mm砲を搭載していた。戦車部隊側の危惧はフランス戦時に表面化した。イギリス軍の「マチルダ2」戦車や、フランスの「ソミュアS35」戦車相手に苦戦したのだった。特にマチルダ2は前面装甲78mmと、37mm砲では零距離でも貫通しなかった。救いは、マチルダ2は鈍足な事、S35は2人乗りで迅速な対応ができなかったという敵の不幸やドイツ軍の戦略の巧妙さに助けられてフランスはドイツに制圧される事となった。
 これによって50mm砲搭載が決定となるけども、実際に50mm砲(42口径)が搭載されだしたのが独ソ戦の始まった1941年7月でソビエトのBT戦車相手には問題なかったものの、T-34やKV-1相手には力不足だった。そこで60口径の50mm砲を搭載したJ型を戦場に登場させたけども(1941年12月)それでも力不足だった。結果論だけど後手後手に回ってしまったのである。
 結局は長砲身の75mm砲を搭載した4号戦車が登場するにいたり主力戦車の地位から外れたけども、この4号戦車の元々の短砲身の75mm砲を搭載したN型をなんとか作って歩兵支援用として再復活した。しかもこの頃になるとHEAT弾の実用化で短砲身の大砲でも戦車を撃破可能になったため、対戦車戦力としてもそこそこ活躍している。ただ、3号戦車と4号戦車の任務が逆転してしまったのは皮肉だろう。
 主力戦車としてはパッとしなかったものの、歩兵支援用としては、またこの3号戦車の車体を流用した派生型としては活躍をしている。旧式な戦車というよりは、縁の下の力持ちだったとも言えなくはない。


 3号戦車のバリエーション

 3号戦車E型:
 最初の量産型。47口径37mm砲を搭載している。上で書いたようにポーランド戦では主力戦車と定義されたけども、「主力」と呼ぶにはあまりにも数が少なかった。96両が生産された。また、この型を利用した指揮戦車も作られた。指揮戦車は1号戦車改造型もあったけども、車体が狭かったので3号戦車E型をベースに作られた。砲塔はあるけどもその機能はせず、溶接固定されていた。大砲もダミーだった。砲塔後ろにフレームアンテナ(手すりみたいなアンテナ)を装着していた。

 3号戦車F型:
 E型と基本的には同じで435両が生産された。生産途中で最後の100両には42口径50mm砲を搭載し、追加装甲で前面装甲が30mmとなった。残りの335両も後に50mm砲に変えられた。

 3号戦車G型:
 F型の装甲を厚くして各部分を改良した型。600両が生産された。最初の50両は37mm砲がついていた。ただ、この50両も後に42口径50mm砲に変えられた。また、キャタピラ幅が従来は36cmから40cmに広げられ不整地走行能力が若干向上した。

 3号戦車H型:
 308両が生産された。詳細は不明。

 3号戦車J型:
 当初は42口径50mm砲搭載で生産されたものの、途中から60口径50mm砲を搭載した。前面装甲は20mmの追加装甲を行い50mmになっている。これで、攻撃力・防御力ともに向上したものの、ソビエトのT-34相手には役不足だった。3号戦車としては最大の2616両が生産されている。

 3号戦車L型:
 初めから60口径50mm砲を搭載して生産された。653両が生産された。前面装甲がスペースドアーマー(装甲板の間に空間がある。HEAT弾に有効)を取りつけている。最大装甲は57mmと結構重装甲となったものの、それでもT-34との撃ち合いでは苦しい戦いを強いられた。

 3号戦車M型:
 250両が生産された。詳細は不明

 3号戦車N型:
 1942年になってくると、4号戦車に43口径75mm砲を搭載しだしたため、従来の24口径75mm砲が余ってしまった。3号戦車は75mm砲搭載を想定していなかったものの、砲マウントはなんとか短砲身であれば75mm砲を搭載可能だという事がわかり、搭載された。短砲身の大砲では戦車相手には戦闘ができないというのは前年の戦訓で承知の上だったので、歩兵支援として使われた。しかし途中でHEAT弾の実用化がなされたため、対戦車戦闘にも従事している。しかし対戦車戦から見れば「穴埋め」的存在だった。また、側面に追加装甲を施している。これでなんとか終戦まで戦い抜いた。663両が生産された。

↑3号戦車潜水型。これはたぶんF型がベース
 3号戦車潜水型(Tauchpanzer):
 1940年にイギリス本土上陸作戦が計画され、これは「ゼレーヴェ(あしか)作戦」と命名された。世界最強のルフトバッフェ(ドイツ空軍)による空爆で完膚なまでにイギリス軍を叩いたのちに上陸を敢行するというものだった。いろいろと訓練やら装備更新がなされたが、この潜水型3号戦車もこの作戦用に作られた。ベースは3号戦車のF型とG型とH型が選出されたとされる。数量的にF型が改造された数が多かったと思われるが、実際にはよくわからない。合計で168両が改造された。改造点は言うまでもなく全て防水構造にするもので各部に防水コムを貼りつけて、空気取り入れ用のシュノーケル用がつけられ。右の写真を見ればわかるようにでっかいホースがついている点を除けば外見上での大きな違いはない。さすがにこの方法でもドーバー海峡を渡りきるのは不可能で、輸送船で輸送ののち阻止砲火の届かない地点で潜水させ、海底を進撃させる計画だった。無論海水中では前が見えないので、シュノーケルにつけていた無線とジャイロコンパスと併用して進撃させるようになっていた。海底は岩盤であることはまずないので、常に進んでおかないと砂にめりこんでスタックしてしまうから、進撃途上で大きな岩なりガケがあったらその時点でアウトだった。ちなみにシュノーケルはUボート用のそれと違い単純な構造で波を被った場合の保護がなされていなかった。ドイツ陸軍はドーバー海峡を渡るのは単純に渡河作戦の延長線上にあるとしかみなしていなかった事がわかる。海は川とはちがう。潮流もあるし、波もある。イギリス海軍は健在だから、補給に絶対に苦心するはずである。ドイツ海軍のエーリヒ・レーダー元帥が再三にわたってこの作戦そのものの危険さをドイツ陸軍側に指摘してきている。ただ、幸か不幸かイギリス上陸作戦は航空優勢獲得失敗のために無期延期となり、結局は実施されることはなかった。なお、15mの海底を20km走れたという記録がある。それ以上走らせると空気供給量が需要に追いつかず一酸化炭素が蔓延するためだった。そうなったら車体を捨てて脱出となるわけだが、海底15mの場所でハッチが開けられる筈もないし(水圧があるので)、開けられても、高い水圧をモロに被った乗員の健康に害をきたす可能性は高かった。最悪の場合は死ぬ事もあったろう。この点もドイツ陸軍は全く考えていなかったのだろうか。
 しかし、ここまでして使わないのはもったいないと思ったのか、翌年の1941年6月に始まった、バルバロッサ作戦(ソビエト侵攻作戦)で第18装甲師団がブ−グ川の渡河作戦で実際に使用された。問題はさほどは生じなかったようで、やはり海を渡すべき兵器ではなかったという事だろうか。


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