マウス

全長:        10.1m
車体長:       ?.??m
全幅:        3.67m
全高:        3.66m
重量:        188t(!)
装甲:     50〜240mm
乗員数:        5名
武装:55口径128mm砲×1
    (32発搭載)
    36.5口径75mm砲×1
    (200発搭載)
    7.92mm機関銃×1
    (搭載数不明)
動力:マイバッハ
    694馬力ガソリン機関
走行性能:最大速度:22km/h
       航続距離:186km
総生産台数:2両
 第二次世界大戦時のドイツ軍兵器には優れた物が多く、また先を見越した物も多い。たとえば、突撃ライフルや対艦ミサイル・戦略弾道ミサイル・巡航ミサイルなどは第二次世界大戦で実戦投入したのはドイツだけだった。ジェット戦闘機も大量に投入したのはドイツ軍だったし、装備面からいっても迷彩服を採用していたのもドイツだった。ただ、その影で「いったい何を考えているのか?」と思ってしまうような兵器もいくつかあった。たとえば「風砲」。水蒸気を噴射して敵機を撃墜するという、冗談みたいな兵器も考え出されていた(無論、実際には作られなかった)。また、ソビエト戦車に苦しめられると航空機に75mm戦車砲を搭載したりもした。その気持ちはわからんでもないけども、機動性の悪化や、射撃時にものすごい爆風でプロペラが曲がるという事態でとても使えた代物ではなかった。結局は37mm機関砲に落ち着いたのだが。戦車のそれは、以下に紹介するマウスがそれに該当するのだろうか?
 マウスといえば戦車をご存知の人ならわかる、世界最重の戦車で、この記録は今でも破られていないし、破られる事はないだろう。
 マウスの開発開始は1942年6月8日の、ヒトラー・シュペーア(軍需相)・ポルシェ(当時戦車委員会の委員長)の会談で決定したとされる。内容は105mm砲と150mm砲を連装で旋回砲塔に積め込んだ戦車というものだったというが、この時点で「何を考えているのか」と思いたくなる。どう考えても無茶である。装甲厚は砲塔前面が220mm、砲塔側面後面が200mmで、車体前面が200mm車体側面後面が180mmというものだった。ようは、敵のいかなる砲弾も弾き返しいかなる敵の戦車の装甲をも撃ちぬき、あるいは威力ある榴弾で敵陣地を破壊する万能戦車を求めたのだった。たしかに、その気持ちはわからんでもない。特にヒトラーは第一次世界大戦で一兵卒として最前線で戦ったのだから、どういう兵器が兵士の望むものなのかはよく知っていたと思う。ただし、ヒトラーは機械にはあまり詳しくなく、基本的に絵描きで、シュペーアは建築家、ポルシェは博士で近代戦の戦車戦の実態など知らなかったのだからといえばいいわけなのだろうか?当然ながら、当時機甲兵力による電撃戦の生みの親のグデーリアン将軍は反対したものの、この決定は覆らなかった。ヒトラーとポルシェ博士は個人的に3月にこの超重戦車の開発を命じており、6月の段階ではどんな反対があっても作るハラだったのだろう。
 ともあれ、開発は始まった。この超重戦車にタイプ205という名称が与えられた。駆動装置には変速機がいらない、ハイブリッド方式・・・ようはエンジンで発電してモーターを回す方式だった。これはVK4501(P)(ティーガー1重戦車の試作名称)と同じだけども、これまた「何を考えているのか」だった。後知恵ならいくらでもいえるではないかという問題ではない。なぜならVK4501(P)はこの駆動方式の欠点で採用を見送られた経緯があり、この失敗に懲りずに採用しているのだから「何を考えているのか」と思える。しかも、発電機と駆動モーターには大量の電線(銅)を使用するけども、この時点でドイツでは銅の欠乏が露呈かしており(資源小国の日本と比較しても、日本の産出量の3割ほどしか取れなかった)、この点でも欠点があった。発電用のエンジンは当初はディーゼルエンジンの搭載を計画していたものの、開発が間に合わず、結局は航空機用エンジンが搭載された。関係ないけども、第二次世界大戦はアメリカのM4シャーマン戦車や日本の5式中戦車など、航空機用のエンジンを搭載したのはいくつかある。搭載する大砲は当初の150mm砲と105mm砲の連装ではどうしてもムリがあるので、1ランク落として55口径128mm砲と36.5口径75mm砲の連装となった。たしかに、大きい大砲は発射速度が遅いから(弾が重たいので装填に時間がかかる)普通の大砲との連装という気持ちもわからなくはないけども、なんで、36.5口径75mm砲という今までの兵器体系になかった大砲を搭載したのかがわからない。せめて48口径ならば話はわかるのだが。装甲は側面後面でも180mmというのはさすがに無理で、後方は100mmに落ち着いたものの、地雷を踏んでもいいように底面(の前面)も100mmの装甲を施しているのには驚く。足回りはVK4501(P)と同じくサスペンションにトーションバーを組み込みそれぞれ2個の大直径な転輪を配置する方式をとろうとしたもののマウスの重量ではこの方式はできず、オーソドックスにコイススプリング式になった。後述するけどもこれは比較的成功で不整地走行性は比較的よくなった。
 陸軍側はこの超重戦車には意図的な無関心をしていたものの、大量の資材と生産力をもってかれているのにヒトラーとポルシェ博士の間で勝手に決められてしまってはかなわんと1942年末からはハイネル大佐を調整官としてこの超重戦車計画にのめりこませて、開発状況を逐一陸軍に報告させるようにした。陸軍側は1942年12月18日に「試作車両を翌年5月までに完成させよ」と命令したがポルシェ博士は拒否した。たしかにこんな大型戦車をこんな期日に完成させるのは不可能だったろう。翌1943年1月12日には開発を担当するメーカーが決められて、同年1月21日には陸軍側は再度「早急に完成させよ」とハッパをかけた。ただ、この会議では完成期日は討議されなかった。もはや陸軍はあきらめモードだったのだろうか?
 開発状況はといえば1943年5月1日にはモックアップ(木製の原寸大模型。殆どの車両や航空機兵器ではこのモックアップは作られる)が完成。ヒトラーの検閲を受けたがこの際に128mm砲が車体に対して小さすぎるという指摘を受けた。そのため生産車両では150mm砲を搭載せよと指示をしたとされる。この指示は比較的有名だけども、指示の時期については車両が完成した1944年だという説が強く、また、唯一完全に完成した1号車には128mm砲が搭載されていたので、このモックアップ時の審査でヒトラーが指摘したという説は弱いと考えられる。
 1943年12月には車両のみが完成し、同年同月23日には車体製造を担当していたアルケット社で簡単な走行試験が行なわれている。翌年1月には本格的な走行試験が計画されたものの、肝心の砲塔はまだ完成していなかった。理由は元々がデカい砲塔のため開発に手間取ったのと、連合軍による空襲で砲塔開発を担当していたクルップ社が被爆した理由もあった。そのため間に合わないのは目に見えていたため、コンクリート製の重量が同じのダミー砲塔を乗せて試験に臨んだ(コンクリート製ではなく、鋳鉄製のオープントップ砲塔だとする説もある)。翌年初めには車体はヘブリンゲンにある陸軍の戦車試験場に送られて、1944年1月14日にはダミー砲塔を乗せた状態で走行試験が行なわれた。意外な事に不整地での走行性能は良好だった。雪の上でも泥濘地でも軽快に走れたという。ただ、殆ど全員の予想とおり、最高速度は劣悪だった。平地では最高22km/h、不整地では最高速度は13km/hにすぎなかった。歩兵と随伴させるという事を考えたらそれでも十分だったろうけど(10km/hでも歩兵はついていけないから)戦車として考えるならば明らかに失格だった。同年3月1日には2号車も到着。待望の砲塔も5月3日に送られてきたものの、実際には砲塔を旋回させるモーターが到着しておらず、それが到着したのは6月9日になった。早速1号車に搭載されたものの、これを見たヒトラーは主砲(128mm砲)が小さいと指摘している。上で書いたようにこの時のヒトラーの指摘が正しいと思われる。さて、2号車以降からは150mm砲を搭載することになったものの、結論からいえば、この150mm砲砲塔は完成することはなかった。
 ただ、この時期(1944年6月)になってくると、ドイツ軍も旗色が悪くなってきた。すでにアフリカは失われており、イタリア戦線でもローマが陥落(6月5日)。西部戦線でもついに連合軍が上陸を開始し(6月6日)、東部戦線でもソビエト版電撃戦である”パクラチオン作戦”の開始(6月22日)が拍車をかけ、東部戦線ではドイツ軍はなだれをうったように敗走し、ソビエト領内から駆逐されていた。こんな状況だったので、マウスの試験場はヘブリンゲンからベルリン郊外のクーメンスドルフに移されて続行されたものの、もはやこの時期になるとヒトラーも関心を無くしていたといわれている。それもそうで、この時期にはもはや”即戦力”以外の兵器は不要だった。ただ、生産途中の1号車と2号車はそのままスクラップにされる事はなかった。たしかに、マウスという超重戦車は支援兵器もいろいろ開発されておりそれまでがムダになるのはもったいなかったのだろう。支援兵器とはようは鉄道輸送用の無蓋車でこれはマウス用に特別に作られていた。こうでもしないと戦場まで自走できないし、だいいち橋が渡れなかった。戦場での走行の場合、鉄道に乗せて輸送できない場合もあるので、なんとか自力で川を渡る必要があるけども、マウスの場合は防水シールで防水して川を潜水して走るようになっていた。マウスの駆動形式は発電してモーター駆動なので潜水中はモーターの電力で走ればすむから、これも理想的だった。とはあくまでも理屈の話で、実際には川幅にもよりけりだけど電気が渡河途中で切れてしまう事がわかった。当然ながら重量のあるマウスは予想以上に電気を食った。そのため実際には2両のマウスが1組になって、1両が渡河してもう1両が陸上で渡河中のマウスに電気を送るようにして川を渡ろうと計画していた。ただ、しつこいが完全に完成したのは1両なので結局はこの方式で川を渡る事はなかった。
 2号車は1944年11月の走行試験でクランクシャフトを破損してしまい、代わりのエンジンが到着する翌年3月までは全く動かせなかった。結果論だが、この頃のドイツでは空襲の激化のほかにも翌年3月には連合軍はドイツ本土に侵攻してきたから、もはや2号車の完成は絶望的だった。
 もはや、ドイツには爆撃されて鉄道も満足に運行されない。川も渡れない。こんなマウスだったから、もはや向こうから敵が来てくれない限りは戦闘には使えない状況だった。しかし、不幸にも敵は向こうから来てくれた。
 1945年4月。ソビエト軍は最後の攻勢をかけた。目標はベルリン。憎っくきドイツの首都だった。もはやドイツでは満足な部隊はなかったものの、使えるものはなんでも使って最後の抵抗をしていた。クーメンスドルフにあった1号車のマウスも最初で最後の戦闘出撃をおこなった。ただし、戦果は不明。わかっているのは、乗員が、このマウスが敵の手に落ちるのを防ぐためにキャタピラを自壊して撤退したという事実だけだった。2号車にいたってはクーメンスドルフに進入したソビエト軍が無傷で捕獲していた。ソビエト軍はこの2号車と、砲塔は無傷だった1号車を戦利品としてモスクワに持ちかえり、2号車に1号車の砲塔をくっつけて保管している。これは今でもモスクワ近郊のメッペン戦車博物館にあり、我々でも見る事ができる(ただ撮影は別途有料で結構な金額が取られると聞いた事がある)。
 また、クルップ社に進駐した連合軍は組み立て中のマウス3両を発見したとされ、ある意味、ヒトラー以外にも「一発逆転」を狙ってた男がいたという証拠でもあろう。
 結局、マウスは戦場では何ら活躍する事はなかった。ただ、凄いという点をあげればこんな188tもある超重戦車を計画し実際に完成させたという執念であろうか?また他に作る国もなかったのだから(超重戦車の計画自体はアメリカでもイイギリスでもあって、実際に作られているけども、100tを越える戦車は他国では作られなかった)、その意味では技術力は傑出していたともとれる。もしくは同じ土俵にあがらなかっただけなのかもしれないが・・・。


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