ティーガー1「6号E型戦車」(SdKfz 181)

全長:        8.45m
車体長:       6.28m
全幅:        3.70m
全高:        2.93m
重量:          57t
装甲:     25〜110mm
乗員数:        5名
武装:56口径88mm砲×1
        (92発搭載)
    7.92mm機関銃×2
       (5700発搭載)
動力:マイバッハ
    694馬力ガソリン機関
走行性能:最大速度:38km/h
       航続距離:140km
総生産台数:1354両
 第2次世界大戦の初期、ポーランド戦でのドイツ機甲師団の活躍はドイツ軍首脳部の想像以上の大戦果を上げた。続くフランス戦でもドイツ機甲師団はアルデンヌの森突破という敵(イギリス・フランス連合軍)の意表を突く作戦を取り、わずか1ヶ月ちょっとで陸軍大国フランスを制圧した。しかし個々の戦車能力はドイツ側が優れていたというわけでもなく、単純にカタログデータなら連合軍の方が優れていた。特にマチルダ2の前面装甲は78mmでドイツの47口径37mm砲や24口径75mm砲では零距離でも貫通できなかった。これはドイツ軍にとってショックであった。
 「何が何でもこれらを上回る戦車を作れ!」
の命令がヒトラーから出されなくとも、ドイツ軍はその必要性を痛感していた。
 開発開始はソビエト侵攻直前の1941年5月で、ヘンシェル社とポルシェ社にVK4501(VKは試作車両の意味)の名称で試作命令が出された。結果からいえば、ヘンシェル社のが採用された。当初は45tクラスの長砲身75mm砲の装備を予定していたけども、その何ヶ月か後にKV-1という化け物重戦車との遭遇を経験するとより威力のある88mm砲の搭載を要求してきた。たしかにドイツの56口径88mm砲は上記のマチルダ2戦車をも正面から軽々撃破できたので、その要求は理がかなっていた。しかし、威力があるという事は反動もすごいという事にもなる。高射砲にはなかったマズルブレーキ(砲身の先っぽの穴。ここでガスを後ろに逃がして反動を少しでも前にやるようにしている)を搭載しているけども、それでも反動はすごかった。言うまでもなく戦車は正面にだけ撃つのではなく真横にも撃つ。その時のねじれ剛性を確保するために強度計算も行わなければいけなかった。そのため完成してみたら10t以上も重くなってしまった。後述するけども、このためいろいろな問題を抱えてしまった。
 1942年中ごろまでには完成し、早速量産が始まった。1942年中に完成した8両がレニングラード戦線の第502重戦車大隊に配備され実戦投入された。しかし戦果はあまりなかった。初陣こそパッとしなかったティーガー1重戦車だけども、1942年中にアフリカ戦線にも派遣され、その威力は遺憾なく発揮された。しかしアフリカ戦線への投入は時すでに遅かった。結局翌年にはドイツ・アフリカ軍団は降伏してしまうのである。
 しかしながら東部戦線に配備されたティーガー1重戦車はその威力を遺憾なく発揮できた。これに驚嘆したソビエト軍はJS戦車などの開発を急がせた。実際、ティーガー1重戦車1台でT-34戦車5台を相手にできたとされている。「ティーガー1は飛びぬけて優れた戦車ではない」ととある戦車兵も言ったようにやがてソビエト軍もJS-2重戦車やSU-152重自走砲などを投入してくると旗色が悪くなっていった。また、T-34/85戦車も大量に投入されるようになると寡兵のティーガー1重戦車も食われることが多くなった。
 1944年6月にノルマンディーに連合軍が上陸してくると、ここでもティーガー1重戦車は遺憾なくその威力を発揮できた。ティーガー1重戦車は東部戦線では苦戦する相手もいたものの、西部戦線では無敵の存在だった。正面装甲110mmを貫く西側連合軍戦車は殆どなく、また88mm砲弾を防ぐ装甲をもった戦車もまたいなかった。不幸な事は、ソビエト軍よりも空軍力が強かったという事で、ドイツ空軍が殆どアテにならなかった事もありP-47サンダーボルト等の戦闘爆撃機には弱かったのである。戦車というのは上面の装甲は薄いからだった。結局は数に勝る連合軍とソビエト軍にじわじわと押されていく事となった。総生産数は1944年までに1346両生産されているものの、終戦まで生き残ったのはわずかだった。戦闘での消耗だけでなく、退却時に燃料切れで遺棄されたものも少なくなかった。退却は自力で行うのが建前だったから、その部隊に燃料がなければもはやそれまでだった。動けなくなった戦車など、ただの装甲板付き大砲に過ぎないからである。
 上でも書いているけども総生産数は1354両とドイツ戦車総生産数の5%ほどとさほど多くはない。理由はコストがかかるからだけども、ドイツ軍の戦車の写真ではティーガー1重戦車が写っている写真が数多いし、だいいちドイツ軍の戦車といったら真っ先にこのティーガー1を思い出す人も多いだろう。それだけ活躍し、また敵に恐れられた戦車でもあった。


 ティーガー1は上でも書いているように元々が45tクラスの重戦車だったのがいろいろあって最終的に57tとなった。また、T-34戦車との遭遇前に開発が開始されたので、装甲は垂直装甲だった。「(T-34は傾斜装甲だから)効果的ではない」という文献が多いけども、ある程度設計してしまったから後戻りはできなかったのだろう。12tも増えてしまったので、転輪を増設したので、キャラピラが52cm幅から75cm幅の大きいのが新たに採用された。ここで困ったのが、この措置で全幅が3.7mに達してしまい、ドイツの鉄道の積載幅限界(3.4mチョイ)を超えてしまったのである。言うまでもなく、戦車は自力で戦場まで行かない。理由は壊れやすいからと貴重な石油を浪費してしまうからである。そこで、鉄道輸送時には52cm幅のキャタピラに履き替えるといったメンドくさい方法が取られた。この交換は好条件では25分で終了できたというが、交換する兵士はさぞ大変だったろう。これで、鉄道輸送の条件は済んだというわけではなく、安全のために、ティーガー1重戦車の輸送時には頑丈にロープ固定した上で前後に4両の貨車を連結させて走行させるように指示されていた。しかし、当時の写真を見る限りではロープ固定されてない場合が多いし、前後4両貨車接続された輸送中のティーガー1重戦車の写真など見た事がない。
 装甲も垂直で、これはT-34戦車との遭遇前に開発が開始されたからというのが定説になっている。戦場では敵とは1時半か10時半方向(左右の斜め前)で敵と対峙して水平面での傾斜効果を狙うようにそて戦っていたらしい。特に東部戦線ではT-34戦車も76mm砲から85mm砲にパワーアップしだしたので、それなりの防御方法が必要となったからだろう。
 また、大抵のティーガー1重戦車は車体前面に予備キャタピラ用ラックを装着しているけども、これは基本装備ではなく、現地で取りつけられた物が多い。現在で、イラストに予備キャタピララックが描かれていない事が多いのは正式装備ではなかったからだろう。
 転輪は外内交互に8つついている。ここがティーガー1重戦車のアキレス健で、人間には2つのアキレス健があるように(脚が2本だからだけど)ティーガー1重戦車の転輪にも2つの欠点があった。1つは第一転輪(一番前の転輪)でこの転輪は外側についていた。ここがティーガー1重戦車の欠点で、ここに泥が溜まって機動性に悪影響がでた。そのため実戦部隊では第一転輪を外してしまう事が多かったという。ただし現存する写真ではあまり見受けられない。勝手な改造を写真に取られて上官に見られると怒られるからだろうか?。第2に、これが一番の欠点なのだが、ティーガー1重戦車の転輪は他の戦車と同様にゴムが外側にあったけども、冬のロシアではこの転輪に泥や雪がこびりついて夜のうちに凍り付いて動けなくなってしまう事も多多あった。そこでスチール製転輪をつけてゴムは無論必要なので、中に内臓式にしている。東部戦線への配備数が少なかった1942年冬にはあまり表面化しなかったものの、配備数が多くなった1943年冬には大問題となり、早速翌年の1944年に改善される事となった。


 ティーガー1重戦車のバリエーション

 初期生産型:
 初期生産型にも2種類があるけども、ここでは統一する。
 外装式エアクリーナーが標準装備で、57tの重量では渡れる橋に制限があるため、潜水装置がついていた。ただ、生産に手間取るし列車に載せて橋を渡せばすむから、この2つの装備は1943年生産型から付かなくなった。この装備の有無が初期生産型を2つに分ける理由でもある。また、操縦手用のペリスコープ穴があったけども、これは戦場で銃弾が入り込みやすいのですぐに埋められる事になった。

 中期生産型:
 車長用キューポラが円筒形の視察穴付きから背の低い新型に改められ、ハッチが縦開き式から横スライド式に改められた。理由は、縦開き型ではストッパーが外部にあるので、一刻を争う戦場ではストッパー解除が結構大変な上に撃たれる可能性があったから。これは1943年7月以降の生産分からそうされている。また、砲塔左側にあったピストルポートが廃止された。理由は射角が制限されるので、あまり実用性がなかったためとされる。1944年1月生産分以降のティーガー1重戦車では省略されている。また、一部の車両であるが、トラベルロック(移動中に砲身を固定する装置)が車体後ろに装着された物もあった。それまでのティーガー1重戦車は砲塔内部にトラベルロックがあった。

 後期生産型:
 砲塔周囲に防弾リングが追加。また、これが最大の変化なのだが、転輪がスチール製になり、緩衝ゴムを内臓している。理由は上で述べているように、転輪が凍ってしまうからで、これは既存の車両にも適宜交換されていった。また、転輪の配置構成が車体前方からみて従来のは外内外内・・・となっていたのを内外内外・・・と変更している。ようはティーガー1重戦車のアキレス健であった第一転輪を内側にもってきたので、泥つまりも改善されたと思われる


 Sturmmorser Tiger(シュトルム・ティーガー):
 これは、厳密には戦車ではなく、38cmロケット砲を搭載した自走突撃砲の一種である。開発自体は1943年8月5日に開発が提案された。一説にはヒトラーが開発を指示したという。元々、この38cmロケット砲は海軍が開発を開始しており、本来の目的はUボートに搭載して沿岸基地を攻撃するというものだった。結局この開発は放棄され陸軍に引き継がれそれをそのままティーガー1重戦車の車体に乗せたという経緯がある。砲塔は言うまでもなく新規製作だけども、車体はティーガー1重戦車と同一で、この車体は、生産ラインから完成したのを分けてもらったのではなく、修理目的で戦場から本国送還されたティーガー1重戦車を改造したというのが定説となっている。しかし、現存するシュトルム・ティーガーの写真を見る限り、後期生産型(1944年以降の生産型)の車体を使っているのもあるので、一部は生産ラインから分けてもらった可能性もある。さて、38cmロケット砲は324kgもあるロケットなので人力装填は無論不可能で、新規製作の固定砲塔の上にクレーンを追加している。また、ロケット砲共通の欠点として、自分でガスを噴射して飛翔するので、爆煙がすさましいぐらいに後に残る。実際、ロケット砲装備部隊は発射時には退避していた。ただし、このシュトルム・ティーガーの場合はそうはいかない。発射のたびに乗員をいちいち車外に退避させるのは効率的ではない。そのため、砲身を2重砲身としてその間にロケット砲発射時の爆煙をそこの穴から逃がすようにしていた。装甲もオリジナルのティーガー1の上をゆく150mmの装甲(前面のみ)を搭載し、重量も65tとなり、機動性がかなり犠牲となったと思われる。
 総生産数は10台ちょっと(諸説ある)。戦場での活躍は分からないが、こんな少数ではさほどの活躍はできなかったものと思われる。


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