2号105mm自走榴弾砲"ヴェスペ"

全長:        4.81m
車体長:       4.81m
全幅:        2.28m
全高:        2.30m
重量:          11t
装甲:      最大30mm
乗員数:        5名
武装:105mm砲×1
    7.92mm機関銃×1
動力:マイバッハ
    140馬力ガソリン機関
走行性能:最大速度:40km/h
       航続距離:220km
総生産台数:676両
 1941年6月22日にドイツ軍は突如としてソビエト軍に襲い掛かった。快進撃で、ヒトラーもその進撃速度を驚くほどだった。しかし10月あたりから進撃が急激に鈍った。理由は、この頃に初雪が降って、すぐに溶けたものの、その溶けた雪がソビエトの道路を泥濘に変えていた。当時のソビエトの道路事情はかなり悪かったのだった。一番困ったのは砲兵隊で、一応は車両で引っ張っていたものの、車輪なので容易には進めなかった。キャタピラでも苦戦する泥濘を車輪の、しかも重い大砲を乗せている車輪のやつを引っ張っていくのは無理な話だった。この頃は砲兵隊は1日1キロ程度しか進めなかったという。ただ、幸いな事といえばこの年は例年になく早く冬将軍がやってきた事で、道路は例年より早く凍結したため、それからは進撃速度もそれなりに回復した。もっとも寒いは寒いで作動油が凍ったり駐退器が使えなくなったりはしたのだが、この点は省く。
 翌年1942年4月4日になって、ヒトラーから「暫定的にでもいいから使える車両を使って自走砲を作れ」という指示が出された。詳しい理由はわからないが、上記の泥濘でもちゃんと進めるようにキャタピラ車両に榴弾砲を載せろという考えだと思える。ヒトラーも言ったように、急造でもいいのだから、戦車として価値がなくなっていた2号戦車を母体として開発された。外見上の違いは、操縦部が出っ張っている感じになっているのと(操縦部以外が後退したのだけど)上部転輪が4つから3つに減っている点が大きな外見上の違いとなっている。
 1942年中には試作車両が完成し、いろいろな試験が行われたようで、翌年の1943年2月から量産が始まった。生産を担当したのはポーランドのワルシャワ近郊に工場を構えていたFAMO社だった。ヴェスペは装甲擲弾兵師団(擲弾は「てきだん」と読む)の第1大隊(機甲砲兵連隊の中にある)に配属されて実戦に投入された。当時は雪解けの季節で、攻勢どころではなかったから、ヴェスペが実戦投入された記録はなく(細々とは使われていたと思うけど)、大規模に使用されたのが1943年7月のクルスク戦だった。その後も各戦線で使用され、戦時急造ながら、部隊からの評判は上々だった。実戦部隊からの装備要請は相次いで、それに対してヒトラーも「2号戦車の車体は全てヴェスペにせよ」という指令も出している。そんなヴェスペも1944年7月には生産が止まってしまう。理由はFAMO社があるワルシャワが陥落したためというが、たしかにこの時点ではソビエト軍のパクラチオン攻勢(1944年6月22から始まった)でワルシャワのビスワ川の東岸まで進出しているものの、ワルシャワ自体は陥落しておらず(1945年1月17日陥落)、依然ドイツの支配下にあった。FAMO社がビスワ川東岸にあったのかもしれない。また、8月からはポーランド蜂起が発生。翌月までには鎮圧されるものの、ワルシャワは完全に廃墟と化しており自走砲の生産どころではなかったのだろう。
 生産数は676両とそう多くはないものの、結局は終戦まで各戦線で使用された。前線の後方で使う兵器のため、損耗がそう激しくはなかったためと考えられる。


 ヴェスペは上で書いたように2号戦車の車体を少しいじっているのを搭載している。搭載している大砲は18型105mm軽榴弾砲でこれは歩兵師団の砲兵部隊で運用されていたのと同一。この大砲は榴弾はもとよりHEAT弾(成型炸薬弾)も撃てたので、対戦車攻撃にも使用ができた。ただし、防御力がないので1発で仕留めるか、外したらサッサと逃げる必要があった。サッサと逃げられるのも自走砲の利点と言えるだろう。また、ヴェスペは完全なオープントップでようは上と後ろがガラ空きだった。ただし、前線で使用する兵器ではないので、さほどは問題はなかったと考えられる。ただし、雨が降ったらかわいそう(;_;)。もっとも牽引砲の砲兵も雨が降っても射撃する必要があるから、どっこいだろうけど。


一覧に戻る