1式自走砲(一式七糎半自走砲)(ホニ1)

全長:        5.90m
車体長:       5.90m
全幅:        2.33m
全高:        2.39m
重量:  15.9t(全備重量)
装甲:
 砲塔前面  50mm
 砲塔側面  12mm
 (砲塔後ろはガラ空き)
 車体   20〜25mm
乗員数:5名
武装:38口径75mm砲×1
        54発搭載
動力:SA12200VD
    170馬力ディーゼル
    V型空冷12気筒
走行性能:最大速度:38km/h
       航続距離:???km
総生産台数:138両?
   (上記生産数は1式
    10センチ自走砲も含む)
日本陸軍の大砲は重砲を除いて、お馬さんで引っ張っていた。「戦争とは歩くこと」と皮肉られたように、日本陸軍歩兵は基本的に歩いて進軍した。人間の歩く速度はそう速くはないから、お馬さんで重い大砲を引っ張ってもなんとかついていけた。しかし日中戦争時には戦車も投入されるようになり、お馬さん牽引では無論ついて行けなかった。そのためトラックによる牽引がなされるようになったけども、実際に作戦に従事させると、意外な欠点が露出してしまった。道路上ではトラックが早いから戦車がついていけなかった。これはまだいい。トラックが速度を落とせばすむ事である。問題は荒地でトラックが戦車について行けなかった事である。これは問題である。理由はトラックの速度に戦車が合わせるとどうしてもトロくなる。これでは戦車の機動性が失われてしまうし、だからといって野砲を置いていくわけにもいかなかった。また、日本陸軍の仮想的はソビエト(ロシア)で、ソビエト軍の大砲は馬による牽引から牽引車による牽引に切り替えていたので(日中戦争当初の頃はソビエトは欧州一のトラック生産量を誇っていた)それによって、大砲の設計段階で重量を重くする事ができ、結果的に長砲身の長距離大砲を装備できるようになった。実際、ノモンハン事件ではソビエト軍の大砲は日本軍の大砲を常にアウトレンジ攻撃していた)。お馬さんで引っ張る大砲で牽引式大砲を射程で上回らせるなんてできっこなかったといえる。
 1式自走砲は上のノモンハン事件での戦闘の戦訓で開発が開始されたとされる。理由は上記によるものだろう。搭載砲は歩兵部隊で評判の悪かった90式野砲を積んだ。90式野砲はフランスのシュナイダー社の85mm野砲M1927の75mm版を日本陸軍が1門だけ発注させてそれをコピー生産した大砲で、ライセンス料を払った形跡は、どうも・・・ない(^_^;)。この90式野砲は射程が13キロと今までの75mm野砲よりも3キロ以上砲弾を飛ばせた優秀な大砲だったけど、その分重かった。当時、野砲はお馬さん6頭牽引が定数だった。6頭で引っ張れる重さはせいぜい1.8t程度が限界で、90式野砲は一式で2t以上あった。日本国内ではなんとか引けたけども、道が劣悪な中国の道路では6頭牽引は無理だった。これは6頭を8頭に増やせば済む問題でもなかった。理由はそうすると、牽引棒を長くしなければいけないから、新規にそれを設計する必要があったし、8頭だと、曲がりくねった道が通れなくなる。大きい大砲ならそれでも良かったんだろうけども、野砲は歩兵についていってナンボな大砲だったからこれは困った。根本的な問題として、6頭から8頭に増やせば兵隊も施設も装備も増やす必要があった。一定予算内ではこれが結構きいた。8頭にどうしても増やすならば、大砲の数を減らすしかなかったが、これでは本末転倒も甚だしかった。90式野砲の制式採用は昭和7年だったけど、翌昭和8年からは、牽引車で引っ張れるように、タイヤを空気入りゴム式(ようは普通の自動車といっしょ)にした機動90式野砲が作られた。これで解決したかに見えたけど、悪路が走れないという欠点はどうしようもなかった。

 1式自走砲は上記のような機動性に劣る大砲に機動力を与えるために開発されたとは思うけども、詳細は不明。開発自体は昭和14年に開始されたとされる。昭和16年に完成し採用され「1式自走砲」と命名された。「1式」と名がついているものの、実際の生産は昭和18年末からだった。これは、昭和17年と昭和18年の生産計画では航空機と艦船建造が最優先されたためとされる。当時は常に労働力が不足していたため生産設備があっても生産する人間がいなかったのである。昭和18年の後半からは徴用工と呼ばれる半強制的に軍需工場につれてこられた人が多くなったので、戦車生産ラインも稼動していったのかと思える。
 派生型には1式砲戦車というのがある。これは1式自走砲の大砲に直接照準器をつけただけで、配備先は戦車部隊で、47mm砲では対戦車能力に劣ったために緊急的に対戦車兵器として採用された。なぜ名前を「自走砲」から「砲戦車」に変えたからというと「自走砲」だと砲兵部隊の兵器で戦車部隊の兵器ではないから。というのが理由だったらしい。なんとも日本らしい縦割り行政な命名方法とも思えるが、書類上同じ名前だとマズかったからかもしれないし、用途も違っていたから、同じ名前だといろいろと困ったのかもしれない。
 さて、生産された1式自走砲は戦車師団に優先的に配備された。フィリピンに送られた戦車第2師団の機動砲兵第2連隊に送られた1式自走砲4両は、昭和20年3月31日の夜にサラクサク峠攻防戦で、サラクサク峠にいたアメリカ軍(第32師団)に対して、一緒にいた96式榴弾砲(149mm)3門と機動90式野砲2門と一緒に、総計1000発以上という大砲火を浴びせて退却させる事に成功した。普通、大砲の弾は1門あたり200発程度が遂行数だったので、遂行数の半分以上を撃ちまくったことになる。まさしく、砲兵隊のあるべき姿、あるべき戦闘方法を知らしめた戦いだったのだが、時すでに遅すぎた。結局、この4両は全てが撃破されてしまった。ただし、程度のよかった1両は(壕に埋没して身動きができなく放棄された1両)アメリカ軍に持ち去られて、今でもアバディーン博物館に展示されている。


 1式自走砲は正式には「一式七糎半自走砲」と呼ばれる。理由は同じ1式に10センチ(正確には10.5センチ)砲搭載の自走砲があったから。
 車体は97式中戦車のを流用しており、防盾をつけて、90式野砲を載せた。いかにも戦時急造だけど、これは各国も同様だった。防盾は前と側面の前半分しかなかった。そのため「防御力に劣った」と書かれる書籍も多い。実際に砲撃で至近弾を側面や後面に受けたらひとたまりもなかったろうけども、基本的に野砲は戦線後方で射撃するので、さほどの問題はなかったと思える。だって90式野砲は前方に申し訳ない程度にしか装甲がなかったのだから、どのみち同じだった。しかし対戦車戦闘を目的として作られた1式砲戦車ではすごく問題になったと思える。ようは第一線でドンパチやるんだから、砲塔の半分から後ろと上がガラ空きだとすごく人員の被弾率が高かったと思う。もっともM4シャーマン戦車の75mm砲に狙われたら50mmの防盾も役に立たなかったろうから、それでも良かったのか?。
 総生産数は不明。1式自走砲と1式砲戦車と1式10センチ自走砲合わせて138両という説が有力である。
 ともあれ、M4シャーマン戦車に対抗できた貴重な戦力だけに、部隊に配備された1式自走砲は重宝されていた。残念な事は戦場送られた数が少なかった事と、海上輸送途中に潜水艦で輸送船ごと沈められた例も多かったため余計に戦場まで送れた数がすくなかった事であろう。


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