2式砲戦車(ホイ)

全長:        5.73m
車体長:       5.73m
全幅:        2.33m
全高:        2.58m
重量:  16.7t(全備重量)
装甲:車体・砲塔前面 50mm
    側面・後面 8〜35mm
乗員数:        5名
武装:21口径75mm砲×1
    7.7mm機関銃×1
動力:100式統制型
    240馬力ディーゼル
    V型12気筒空冷
走行性能:最大速度:44km/h
       航続距離:200km
総生産台数:30両
 2式砲戦車は名前のように昭和17年(紀元2602年)に採用されたのでこの名前がある。しかし開発自体は昭和12年から始まっていた。つまり前年に採用された1式砲戦車よりも開発時期は早い。開発理由は、「山砲に機動性を与えて敵の重要拠点(機関銃座や対戦車砲)を制圧すること」だったとされる。その証拠に「ホイ」という名称の「ホ」は砲戦車の頭文字をとって、「イ」はイロハニホヘト順で開発した順番で当てられた。つまり砲戦車で1番目に開発されたという事である。
 開発は上で書いたように昭和12年で、この開発は主砲の開発で、こういった自走砲の類は既存の戦車を流用するから主砲のみの開発となっている。無論車体は97式中戦車が選ばれた。主砲は昭和15年に完成。3年の月日がかかっているものの、実際には既存の94式山砲の改修型である。改修内容はよく分からないものの、恐らく砲身は同じで、俯角(水平より下の角度)をとるために駐退機を上にかえたのだろうと、現物の写真を見る限りではそう想像される。

 ここで、山砲について話そう
 山砲は、名前のように山岳地帯でもつかえるようにした大砲で、ようは馬なり牽引車なりで引っ張るのではなく、分解して馬などの背中にのっけて移動できるようにした大砲である。
 日本陸軍が山砲に注目したのは満州事変時で、チチハル攻略を担当した第2師団は、中国軍より捕獲した山砲をと連隊に2門(砲弾は各200発)装備させて戦闘させたのが始まりだった。砲身が100キロと2人かかりでならなんとか人間でも運べたので概ね歩兵と行動が共にでき、火力支援もできたから、なかなかに部隊からの評判はよかった。にわかに山砲の要望があり、日本陸軍は94式山砲を開発し、これまでの41式山砲は歩兵連隊に回された。そのためこの41式山砲は俗に「連隊砲」と呼ばれた。火力も大隊砲(92式歩兵砲)と同じ75mmながら、砲身がながく、弾薬も長めのため、射程が倍以上で威力も1.5倍あり、歩兵連隊からの評判はよかった。「山砲があればどんな部隊に遭遇しても負ける事はない!」と訓示した師団長もいた。しかし、運用する兵士からはありがた迷惑な一面もあった。ようは人間でも運べるので、どんな山中でも100キロの砲身を2人かかりで持つのである。1人あたり50キロ。砲身はバラせないから砲身を運ぶ兵士の苦労は並大抵ではなかった。「山砲。それは軍隊が存在してからもっとも苦痛を与えた兵器だ・・・」と嘆いた兵士もいた。ともあれ、90式野砲のように馬ではとても引っ張れない大砲と違って、幹部クラスからの評判はよく、野砲を返品してまで山砲に変える部隊まであった。

 さて、話は戻して2式砲戦車は昭和16年4月に97式中戦車の車体に乗せたタイプが完成し、9月からは戦車学校で試験が行われた。昭和17年には車体を1式中戦車の溶接構造車体に変えてまた試験が行われ、同年に「2式砲戦車」として仮制式となった。ただし、昭和17年当時は航空機と艦船に生産が重点を置かれたため、また、97式中戦車の生産で手一杯だったこともあり、量産は昭和19年になってからだった。しかも生産数もたった30両と、もはや活躍すべくも期待できなかった。結局は本土決戦用に温存されて砲火を交える事はなかった。生産数が少なかった理由として、搭載大砲の山砲は上で述べたように歩兵部隊で不評判な大砲ではなかったから、そっちに優先して供給されたためとされる。
 砲身の短い山砲では対戦車戦として不向きであったが、2式砲戦車には対戦車戦の切り札があった。「タ弾」と呼ばれる対戦車砲弾だった。普通の対戦車砲弾は少しでも初速を速くして運動エネルギーで装甲を貫通するけども、この「タ弾」はノイマン効果を利用して熱噴流で装甲を溶かして車内を焼き尽くす砲弾だった。他国のHEAT弾である。「タ弾」の名の由来は「対戦車」の頭文字をとったという説と秘匿名称だという説がある。この弾は初速が関係ないので有効射程=最大射程である。特に初速の遅さはこの「タ弾」にマッチしていた(初速が速いと砲弾の回転が速くなり熱噴流が拡散してしまう)。言うまでもなく、「当たったら」の話ではあるが。
 砲撃の正確さはアメリカ軍も認めていた日本戦車兵だからこそ、戦場に送られたならこの2式砲戦車は一泡ふかせたかもしれない。しかし、数も輸送手段も当時の日本は持ち合わせていなかった。「優秀な戦車兵の実力を発揮できる戦車を日本は持ち合わせていなかった」これは紛れも無い事実であるが、単純に戦車だけでなく、肝心の輸送手段も生産力も持ち合わせてはいなかったのである。


 2式砲戦車は2タイプ存在する。1つは防盾が前と側面にしかついていないタイプでもう1つは完全に装甲で砲塔を覆っているタイプ。搭載している山砲自体が小型なので、野砲を搭載した3式中戦車や3式砲戦車のように砲塔はデッカくない。ただ、背は高い。幅が小さく砲塔が小さい事もあって、けっこう背高ノッポに見える。オープントップ砲塔型と完全密閉砲塔型がそれぞれ何両づつ生産されたかは分からないものの、恐らく初期型がオープントップ型で後期生産型が完全密閉型だろう。末期になってくると第一線で戦車と対峙する任務が与えられていたからだと考えられる。


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