3式中戦車
全長:        ?.??m
車体長:       5.73m
全幅:        2.33m
全高:        2.61m
重量:  18.8t(全備重量)
装甲:
 車体・砲塔前面  50mm
 上記以外の装甲  8〜20mm
乗員数:5名
武装:38口径75mm砲×1
        70発搭載
    7.7mm機関銃×1
       3670発搭載
動力:100式統制型
    240馬力ディーゼル
    V型12気筒空冷
走行性能:最大速度:39km/h
       航続距離:210km
総生産台数:166両
    (66両とする説もある)
 太平洋戦争中、空の脅威はB-29だった。1万メートル上空を悠々と飛ぶこの爆撃機を落とすためにいろいろな戦闘機が開発され、しまいには殺人光線なる兵器まで設計されていた。陸のそれはM4A3シャーマン戦車だった。最大装甲3インチ(76.2mm)というユーロ戦線の戦車からみえばごく平凡な戦車ではあったが、ロクな対戦車兵器がなかった日本軍にとっては脅威以外の何物でもなかった。「天敵」といっても良かったろう。昭和17年と昭和18年の陸上戦闘で、日本軍の誇る97式中戦車改の47口径47mm砲でもM4シャーマンの正面装甲を零距離射撃(砲を水平にして撃てる距離。初速によって違うけどこの場合は400m程度か)ですら撃ちぬけないという現実があった。昭和19年5月になってくると、日本軍が提唱していた絶対国防圏(千島列島・マリアナ諸島・フィリピンの防衛線)が危うくなってきていた。「何が何でもM4シャーマンの装甲を撃破できる戦車を作れ!」という指令がこの月に出された。この時期には56口径75mm砲を搭載した4式中戦車の試作車両が完成していたものの、その実用化はすぐにできる状態ではなかった。もうアメリカ軍はそこの角まできていたから車体を新規で作るヒマはない。1式中戦車の車体を流用し、大砲は余っていた90式野砲が流用されていた。38.4口径のこの75mm砲はもともと歩兵用の野砲だったけども、歩兵部隊からは嫌われていた。重たいのである。90式野砲以前に採用されていた38式野砲は全ての重量(大砲とそれ用のワゴン(弾やら備品が入っている)と牽引棒)の合計が1.7tちょっと。これをお馬さん6頭で引っ張っていた。この38式野砲は射程向上のため重量が200キロ近く増えて最大重量が1.9tになった。この改造38式野砲は日中戦争初期に南京攻略戦に使われたけども、200キロ増えたにもかかわらず引っ張るお馬さんは6頭のままで、南京までの道のりには過労死した馬が転々と転がってとても歩兵についてはいけなかった。90式野砲一式の重量はこの改造38式野砲よりさらに重い2t強で、当時の教本ではやはり6頭で引っ張るようにしていた。これでは戦場では立ち往生するのは目に見えていた。そのため、この野砲を返却してまで軽い山砲を装備して戦場にむかっていたため、90式野砲は余っていたのであった。余談ながら、この90式野砲はフランスのシュナイダー社の85mm砲M1927の75mm版で、日本陸軍は1門だけ発注して、届いた製品をコピー生産していた。ライセンス料を払った形跡がないのだった(^^;)。無論戦車で使う分には問題は全くなかった。むしろ威力が増えた分歓迎されたのである。しかし90式野砲は基本的に間接射撃に使う大砲なので直接照準器が無かった。また、基本的に牽引砲なので砲架なんかも邪魔っけだった。直接照準器はつけられたものの、砲架はほぼそのままで、ようは90式野砲をそのまま1式中戦車の車体に乗っけてそれを全周装甲で覆った。そういう理由で車体幅のワリに高さが異様に高くなって、車体大きさのワリに異様に砲塔がデカくなった。
↑土浦の武器学校にある3式中戦車。
車体の大きさ自体は97式中戦車と大差がないが、靖国神社にある97式中戦車と
比較した場合、砲塔の大きさの違いなのか本車は
かなり大きく見え、威圧感がかなりある。
 試作車両は昭和19年9月に出来上がった。車体や大砲を流用したせいもあるけど、三菱重工の開発陣が泊り込みでの開発作業を行った理由が大きい。10月には試作完了し、直ちに量産に移された。充分なテストもするヒマもなかったのだろう。主砲は500mほどなら90mmの装甲を撃ちぬけた。理屈の上では、M4シャーマン戦車を正面から撃ちぬける貴重な戦車でもあった。無論、あちらは1000m先からでも3式中戦車の正面装甲を撃ちぬけたのだが。生産数は昭和19年に55両、昭和20年に111両が完成し、東京防衛の戦車第4師団や本州に先だってアメリカ軍が上陸すると予想された九州の各独立戦車旅団に配備されていた。無論の事、海を越えた戦場には送りこめなかった。結局、アメリカ軍が上陸してきたのは終戦後だったので3式中戦車は実戦で使用される事はなかった。本土決戦になったら市街地の東京では大戦車戦になったと言われている。市街地での戦車戦は見通しが利かない事もあり3式中戦車の38口径75mm砲でも充分に戦闘が行えたと言われる。そうなっていたら、東京は文字通りの廃墟となっていただろう。
 ともあれ、実戦に使われる事がなかった3式中戦車は大半がスクラップにされ、2両が残った。1両はアメリカにテスト用に送られ、もう1両は日本の防衛庁に移管された。今は土浦の武器学校に保管されており、今の我々でもその勇士を見る事ができる。


 上で述べたように3式中戦車は1式中戦車の車体をそのまま流用しているので、エンジンなどの足回りもそのままで、単純に1式中戦車よりも重くなっているので最高速度も当然落ちた。それでも97式中戦車と同じぐらいの機動力があった。また、特筆すべきは日本戦車で初めて電動モーターによる砲塔旋回を採用していた点にある。ただし、これはアメリカ軍のテスト報告によるもので、日本陸軍の部隊側の証言では今まで通りの手動ハンドル式だったと言われている。砲塔が1式中戦車と比較して1.5t重くなっているのだから、手動ではきつかったのは想像に固くはないけど、なぜこのような食い違いがある理由として考えられるのは、生産途中で砲塔旋回メカニズムを変更した事である。ようは、初めの生産タイプでは電動モーター駆動で、大戦末期になってから省力化のために手動に戻されたか、あるいは、当初は手動式で後から電動モーター式に変えられたという2つが考えられる。当時の状況からしたら、前者の方ではないかと考えられるけども、アメリカ軍のテスト戦車は実戦部隊ではなく、工場に置いてあった(軍に引渡し前の)戦車を使用したとも考えられるため(実戦部隊の戦車はアメリカ軍の接収を恐れて独自に処分した例も多い)後者と私は思うのだけどどうだろうか?。これは後々の研究を待つほかない。
 また、今までの日本戦車には砲塔後ろに機関銃がついていたけども、3式中戦車からは砲塔後方機銃がなくなった。砲塔後方に砲弾を積むためだろう。
 3式中戦車はたしかに戦時急造の戦車ではあったけど、それなりにバランスはとれていた。「どうせM4シャーマン戦車にかなわなかっただろうから、使われなくて幸運だった」と書いてある書籍もあるけども、それはどうだろうか?。実際の所は実戦に投入しないと兵器の性能は分からない所が多い。3式中戦車が戦場に投入されるとしたらそれは日本本土であり、無論それはドイツの例をとるまでもなく、日本史においても大いなる悲劇だったろう。しかしそれは避けられた。そういう意味で「使われなくて幸運だった」と私は思っている。


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