4式15糎自走砲(ホロ)

全長:        5.73m
車体長:       5.73m
全幅:        2.33m
全高:        2.36m
重量:  16.3t(全備重量)
装甲:車体・砲塔前面 25mm
    側面・後面 8〜20mm
乗員数:        6名
武装:12.6口径
       149.1mm砲×1
    28発搭載
動力:SA12200VD
    170馬力ディーゼル
    V型空冷12気筒
走行性能:最大速度:38km/h
       航続距離:200km
総生産台数:12両?
 4式自走砲は97式中戦車の車体に38式15珊(サンチ)榴弾砲をよっこらしょっと乗っけた自走砲。開発時期は昭和19年7月22日に「兵政技機密第16号」という訓令で研究がはじめられた。即日、志水亢技師によって設計がはじめられ翌8月には完成という素早さだった。
 この当時になってくると内地には97式中戦車が余っていた。戦場に送った所で撃破されてしまうからである。それに、すでに車体の生産は溶接構造の1式中戦車に切り替わっていた。大砲の砲の38式15珊榴弾砲は、別に使いがてのない大砲だったというわけではなかった。実際、日中戦争初期の頃の写真には結構この38式15珊榴弾砲が写っている。ただし、この大砲は重いので8頭のお馬さんで引っ張る必要があった(野砲は6頭)。無論牽引棒もその分長く、くねくねした道は通れなかった。そこで、砲身と砲架を分けて6頭づつで牽引させる4年式15珊榴弾砲が開発されたものの、さほどは作られなかったし評判も悪かった。理由は、無論撃つときには砲身と砲架をくっつける必要があったけども、それがやたらと手間がかかるし、マッチョな兵士でも辛い作業だった。射程が短くとも8頭牽引が必要だけども旧式の38式15珊榴弾砲を好んだのだった。ロクな道路もなく、また暑い所でのお馬さんの運用は難しいものがあったものの(馬は暑さに弱い)、昭和16年には38式15珊榴弾砲は3つに分解することによって車3両で運べるように改修されたために運用も容易となったのも使われていた理由だろう。しかしながら6キロにも満たない射程距離では苦戦は免れなかっただろう。なにせ歩兵の連隊砲にも射程は劣ったのだから。砲兵力が日本よりも劣った中国軍相手ならばそんな欠点も見えてこなかったが、火力・射程ともに劣るアメリカ軍相手ならば苦戦どころか一方的にやられるのは目にみえていた。大砲設置後の移動は難しかったし、敵砲撃下の牽引砲の機動など論外である。ただし、自走砲化すれば射程の短さもある程度は解決される。かくして作られたと見るべきだろう。
 ありあわせで作ったため、上記のように短期間で完成された。38式15珊榴弾砲搭載にあたっては直接照準器がつけられた。射程が短いからという理由もあるだろうし、極端に不足していた対戦車戦力としても期待されたからだろう。1.88mの短い砲身では戦車の装甲貫徹は不可能だろうけども、大口径の爆発力で戦車を作動不能にさせる事ぐらいはできるからである。
 総生産台数は不明だけど12両だというのが定説となっている。装甲は1式砲戦車より薄く、また射撃試験などトータル的な試験も行うべきだたったろうけども、そんな時間などなかった。もっとも、車体・大砲ともに実績があるのでさほどの試験をする必要がなかったのかもしれないが、試作車両が完成した頃(昭和19年8月)にはサイパン島は陥落しもうアメリカ軍はフィリピン本土を伺うところまできていたから、もう、レニングラードのソビエト軍のように完成し工場から出たらそのまま敵軍に突進させるしかなかったのだろう。
 4式自走砲は大本営が「決戦!」を力説したフィリピンに投入された。昭和19年12月8日に4式自走砲装備部隊が編成された。名前は「第14方面軍借編自走砲独立鷲見(すみ)文男中隊」と長ったらしい名前だが、名前に「借」があるように臨時の編成だった。要員は野戦砲兵学校・野戦砲兵学校幹部候補生隊・戦車学校・東部72部隊・東部73部隊から、将校・下士官兵を選抜して編成された。品川で4式自走砲3両を受領し門司経由でフィリピンに向かった。12月22日には門司港を出港している。この2ヶ月前には日本陸海軍は台湾沖航空戦で300機以上を失った上に日本海軍はレイテ決戦で大敗北を喫し多くの艦艇が沈没し、生き残った艦艇も殆どが負傷していた。そんな最中の海上輸送だったので、敵潜水艦および航空機を避けながらの海上輸送となった。特にバジー海峡(台湾とフィリピンのルソン島の間の海峡)にはアメリカ潜水艦がゴロゴロいたのでここが鬼門だった。しかし幸いにも潜水艦には遭遇はしなかった。昭和20年1月1日に無事サンドフェルナンド港に到着、しかし、揚陸中にアメリカ海軍機の攻撃を受ける事となった。4式自走砲を輸送していた青葉山丸が沈没したため1両が運命を共にしているものの、なんとか2両は無事に揚陸できた。レイテ島を失った日本軍は目前に迫っていたアメリカ軍のルソン島上陸(1月9日に上陸してきた)に備えて、この4式自走砲を装備する鷲見中隊にはクラークマルコット飛行場の死守任務が与えられた。同地に移動中にアメリカ軍はルソン島に上陸したけども1月20日には守備地域に到着し任務についた。1週間後の1月27日にアメリカ軍の猛砲爆撃の後にM4シャーマン戦車が突入してきた。舞い上がる砂や砲煙で周囲が見にくい状態となり日米両軍とも至近距離での戦闘となった。4式自走砲は200〜300mの距離から榴弾砲で応戦。短砲身での破甲弾(徹甲弾)での戦車攻撃は無意味だし、だいいち大口径砲では榴弾砲射撃は装甲破壊はならずとも戦車を戦闘不能には落としいれられる。1〜2発撃ったら別の陣地に移動してまた射撃してまた移動して・・・の機動戦を4式自走砲は行っている。牽引砲では絶対にできない芸当だった。生き残りの証言では7両のM4シャーマン戦車を戦闘不能にしたという。ただし、4式自走砲と一緒に守備していた97式中戦車改は結構な損害を出している。しかしながら4式自走砲は2両とも脱出に成功している。自走砲だからこそなせる業だった。ただし、4式自走砲の活躍もここまでだった。2月8日には待ち伏せにあって1両が破壊され、残った1両も3月初めにM4シャーマン戦車と交戦し撃破されて(この時に撃破されたと思われる4式自走砲がアメリカ軍の記録写真にあるが、比較的程度がよく、燃料切れで放棄されたのかもしれない)乗員は歩兵となって終戦まで戦った。たった2両なれど、アメリカ軍に一矢報いた自走砲でもあった。あとは沖縄戦にも投入されたというが、数・戦績ともに不明。


 4式自走砲は上でも書いたようにありあわせでできている。97式中戦車の車体に明治時代の骨董品である38式15珊榴弾砲を足したもの。無論、ただ単純に乗せたわけではないけども、純粋に自走砲として考えるならばこれで十分だったとも言える。装甲は1式自走砲の半分しかないし、上部に申し訳ない程度に装甲板をつけて、後ろはガラ空きだったけども、それで充分だったといえる。なぜなら36kgの砲弾を装填するのに、密閉式だと乗員の苦労も並大抵ではないからである。
 あと、装弾数は28発しかなかった(24発説や12発説もある)。しかも車体後部上面の弾薬箱にちょこんと置いてあった。狙われたらひとたまりもないなぁとも思える。いかにもありあわせだけども、なんとか戦場投入に間に合わせるためにしかたのない措置だったのかもしれない。


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