89式中戦車
全長:        5.75m
車体長:       ???
全幅:        2.18m
全高:        2.56m
重量:  12.7t(全備重量)
装甲:
 車体上面      10mm
 車体側面・後面  15mm
 上記以外の装甲 17mm
乗員数:4名
武装:18口径57mm砲×1
     100発搭載
    6.5mm機関銃×2 
     2745発搭載
動力:120馬力ディーゼル
    空冷6気筒直墳
    総排気量:14340cc
走行性能:最大速度:25km/h
       航続距離:140km
総生産台数:404両
日本初の量産型戦車。形状的にはイギリスのビッカースマークCを参考に行っているが、完全に国内での設計・製造となった戦車でもある。
 設計開始は昭和3年(1928年)4月で翌年の4月には試作車が完成している。他国の戦車を真似したとはいえ戦争も行っていないのに(満州事変は昭和6年に勃発)1年で仕上げるとは比較的(当時の日本としては)ハイペースであったと言える。試作段階では重量は9.8tだった。日本陸軍の規定では10t未満は軽戦車と定義していたため、当初は89式戦車と呼ばれていた。しかしながら、いろいろと試験を行った結果、超壕能力(塹壕を超える能力)がやや劣ったため、車体後部を延長したなどの改修で重量は12tを超えてしまい、日本陸軍の規定(10t以上は中戦車)により89式戦車と呼ばれるようになった。昭和6年から量産を開始している。
 89式中戦車の初陣は昭和7年に起こった上海事変だった。国産戦車にまだ自信がなかった日本陸軍であったが、特に故障もなく大活躍をしてみせた。当然、新聞でも大々的に報道され、国産戦車生産に自信をつけた。昭和12年7月には日中戦争が勃発。無論89式中戦車も実線に投入された。当時は航空機による対地攻撃をあまり受けなかったため、砲撃で砲弾が上に当たるか地雷を踏まない限りは89式中戦車は無敵であったといえる。当時は中国も戦車を保有していたものの、数が少なかった上に逐一投入という細切れに戦車を使っていたため、各個撃破されていた。中国戦線では戦車対戦車の戦いは殆ど起こらなかった。当時の日本の戦車は装甲が薄いと言われていた。これは事実だけど、ライフル弾程度なら充分防げたから、対峙した中国軍兵士はさぞ怖かった事だろう。
↑土浦武器学校にある、復元された89式中戦車。ちゃんと可動する。
当然ではあろうがエンジンはオリジナルとは異なる。運転席からの視界はかなりいい。
逆にいえば銃弾等の侵入が起こりやすいといえる。
 しかし、そんな大活躍をしていた89式中戦車にも終焉がやってきた。
 昭和14年5月。国境紛争から端を発した紛争はノモンハンの大平原で大砲撃戦と大戦車戦が展開されていた。この国境紛争はモンゴル(外蒙古)と満州国の競り合いだったけども、それぞれを支援していたソビエトと日本の本格的な戦いとなった。ソビエトはBT-5戦車やBT-7戦車やT26軽戦車を投入。日本も最新鋭の97式中戦車や95式軽戦車。そして無論の事、主力としてこの89式中戦車が投入された。結果は日本の完敗だった。装甲厚は日本とソビエトも対して違わなかったけども決定的に違ったのは主砲だった。日本は18口径という短い砲身の大砲を採用していたがソビエトは45mmながら46口径の長い砲身の大砲を採用していた。無論初速で圧倒的に日本が劣っていたし貫通力もそれに比例していた。日本では戦車対戦車の戦いを想定していなかった弊害であった。
 結局は97式中戦車が量産に入った事もありノモンハン事件と同じ年に89式中戦車の生産は打ち切られた。しかし中国戦線ではしばらく使われていた。対戦車以外の戦いならまだ充分に使えたからでもある。生産数は89式中戦車甲型が298両。ディーゼルエンジン搭載型の乙型が106両であったと伝えられる。

 89式中戦車は高さは他国の戦車と同じぐらいなのに幅が小さい関係もあって背高ノッポな印象をうける。これは、輸送の関係であった。戦車は工場で作っても戦場まで送らなければ意味がない。当時の日本では海外での戦闘しか想定していなかったので、港まで運ぶ必要があった。工場から港までは無論鉄道をつかって運んでいた。日本の鉄道はユーロ軌道(1435mm)ではなくゲージ幅1067mmだったため、鉄道輸送の際は車体幅に制約を受けたためであった。実質的に2.4m以内なら問題なかった。重量も戦車にしては結構軽く、無論装甲も薄かったものの、当時の日本のクレーン能力から(陸から船に、船から陸に移すにはクレーンで吊るす必要がある)戦車の重量が決まってしまっていたため装甲の薄さもやむを得ない所があった。当時のクレーン吊り上げ能力はだいたい18t程だった。89式中戦車は比較的軽く、幅も小さいため、大型発動艇という機材用上陸用舟艇にも搭載して上陸させる事もできた。
 また、89式中戦車は当初はエンジンが115馬力のガソリンエンジンだったものの、日本は石油資源が殆どなく、また安全性のために、ディーゼルエンジンを後に搭載した。幸いにも昭和9年に戦車搭載用ディーゼルエンジンの開発に成功し89式中戦車に搭載された。ガソリンエンジン型は89式中戦車甲型と呼ばれディーゼルエンジン搭載型は89式中戦車乙型と呼ばれた。ディーゼルエンジンは軽油でも動かせたし理屈の上では工業用アルコールでも動かせた。また、軽油はガソリンと違って揮発性があまりないので、発火しづらかった。そのため、密閉された空間で戦闘をする乗員には大変に好評で、元に今でも(一部を除いて)戦車の動力はディーゼルエンジンが主力である。その点を考えれば日本陸軍は大いに先見の明があったといえるだろう。ただし、ディーゼルエンジンは同馬力のガソリンエンジンに比べて大きく重いという欠点があり、太平洋戦争中に日本はついに小さい大馬力のディーゼルエンジンを量産化できず日本の戦車は日本製戦闘機同様にエンジンにないたわけである。
 主砲は18口径という短い砲身の57mm砲で、57mmという口径の砲の採用は第一次世界大戦のイギリスの戦車のマークTの影響だろうけど、なぜ今までの日本の兵器体系にない口径の砲を採用したのかは分からない。余談ながらイギリス戦車のマークT(メイル型)は40口径の57mm砲で、マークW(メイル)からは塹壕に落ちた時の破損を防ぐために23口径の短いのに変えられたけども、なぜそれよりもさらに短い18口径の砲を採用したのかも分からない。もっとも、戦車は歩兵の支援用で、遠くまでの射程が必要なかったし戦車は仰角があまりとれないから18口径でも充分だと判断されたのだろうか。ともあれ対戦車戦は全く考慮されていなかったのである。ただ、これは各国とも同じだったし戦車先進国のドイツでさえも当時はそうだった。また、機関銃は車体前部と砲塔後部に1丁づつ付けられた。砲塔後部装備の機関銃は89式戦車に限らず当時の日本にしか見られない装備体系である。
 上で「量産型戦車」と書いているものの、実際には1台1台手作りと同じ生産体制だった。たしかに当時の日本では自動車産業が殆ど発達しておらず、自動車大国日本の今からは想像もつかないが、昭和初期の日本の自家用車生産台数は年間でも1万台に満たなかった。商用車を含めても年間2万台強だった。これは今の日本の1日の生産台数にも及ばない数である。


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