94式軽装甲車(TK)

全長:        3.08m
車体長:       3.08m
全幅:        1.62m
全高:        1.62m
重量:  3.5t(全備重量)
装甲:     4〜12mm
乗員数:        2名
武装:7.7mm機関銃×1
動力:35馬力ガソリン機関
    空冷直列4気筒
走行性能:最大速度:40km/h
       航続距離:200km
総生産台数:約840両
 TKとは特殊牽引の略である。言うまでもなく94式軽装甲車は戦闘用だけども、こういう名前がついた理由は別に秘匿兵器だからというわけではなく、単純に元々が牽引車だったからである。
 第一次世界大戦以降、厭戦ムードが高まった各国では軍事支出が削られていた。世界大恐慌がそれに拍車をかけたと言える。この時にタンケッティ(豆戦車)が各国で流行った。コストは戦車の5分の1以下だったから安い予算で数が揃えられた。大きさは今の軽自動車程度で装甲も最大10mm程度。重さも今の自動車の2台分とまさに今の戦車からしてみれば豆戦車だった。こんなのが戦場に出たら砲撃で吹き飛ばされるのは目にみえていたけど、当時は戦争がなかったからそれでも良かったのかもしれない。
 94式軽装甲車は結果的に上記の豆戦車となったけども、上で書いたように元々は戦闘用ではなかった。技本(陸軍技術本部)は昭和6年に独自で設計を行なったが、製作設備がなかったので、東京瓦斯電気工業に製作を以来した。翌年には完成し、この時にTK(特殊牽引)と名づけられた。いろいろと試験を行なって、昭和8年に紀元節(昭和8年は紀元2594年)をとって94式装甲牽引車と名づけられた。この名前のように、本来の目的は戦闘目的ではなかった。ただし、陸軍参謀本部が運搬物資を外して単体で豆戦車として使うとされ「94式軽装甲車」と名前が変わった。単なる弾薬輸送にキャタピラ式の車輌を使うなんてもったいない。馬で十分だ。というのが理由ではなかろうか。
 さて、94式軽装甲車はその軽快さを生かして、騎兵部隊に配属された。日中戦争の頃になってくると、「騎兵連隊」は「師団捜索隊」に名称変更しつつある時期で(古い師団では見受けられなかった)、その師団捜索隊の装甲車中隊にに5両の94式軽装甲車があてがわれていた(余談ながら、装甲車だけでなく、師団捜索隊には騎兵中隊もあった)。また、戦車中隊内の1小隊は軽装甲車で編成されていたし、独立軽装甲車中隊もあった。無論、日中戦争では大活躍している。強みはその軽量さで、日本戦車隊やトラック部隊が苦労したのが中国のクリークでようはベニスみたいな運河だけども、無論戦車やトラックでは容易には渡れなかった。ただし、94式軽装甲車は軽いので角材が2本あれば容易に渡れたといわれる。
 昭和12年12月の南京城攻略戦では安徳門を体当たりで破壊して、南京城内で(日本の城郭と違い、中国の城は都市をグルッと覆っていた。ちょうど日本の平安京みたいに)城壁にいた中国兵を機銃掃射で制圧する活躍を見せた。ただし、装甲が薄いのでモーゼルライフルの直撃で貫通した例もいくつかあるし、対戦車砲の待ち伏せでやられた例もある。当時の記録写真で地雷を踏んで見事に180°回転してコロげている94式軽装甲車もあった。それほど軽かった。しかし歩兵師団で唯一配備されていた機動車輌だったので、そののちも結構重宝がられている。その後は後継の97式軽装甲車にバトンタッチされていったものの、結果的に太平洋戦争の太平洋戦域でも使用されている。記録の写真で確認ができるのがクェゼリンと沖縄で、無論撃破された車輌がアメリカ軍によって撮影されている。ただ、クェゼリンでの写真では鹵獲したのか比較的綺麗な状態の94式軽装甲車が写されている。フィリピン戦線では戦車第2師団が投入されているので、師団捜索隊として94式軽装甲車が投入されていると思われるが記録写真にも兵士の手記にも見当たらない。戦車第2師団は昭和19年7月まで満州にいたので、装備もよく、全てが97式軽装甲車にかわっていたのかもしれない。
 94式軽装甲車は日本初の工業量産型装甲車(戦車やら全部ひっくるめて)とも言え、それは南京から沖縄まで8年もの長き戦いを戦いぬいて力尽きた装甲車でもあった。


 94式軽装甲車ははっきりいってちっちゃい(^^;)。上でかいているけども、ほんと今の軽自動車に砲塔をつけた感じな戦車だといえる。ただ、エンジンは35馬力とすごく貧弱なので、3人で前から押さえられたら発進ができないと揶揄された(実際にそうだったのかもしれない)ほどエンジンは非力だった。まぁ、普通乗用車2台分の重さを250cc単車よりも劣る馬力で走らせるのだから、仕方がないといえば仕方がなかった。また、砲塔が軽いからか1人砲塔は普通の戦車のハンドル式ではなく車長(兼銃手兼装填手。ようは運転以外をこなさなければいけない)は肩の力で砲塔を回していた。いくら軽いとはいえ何百キロの重さがあるだろうから、相当に重労働だったろう。ようは大勢でかかってこられたらどうしようもなかった。ただ、そういう欠点が露呈しなく運用されたのは救いといえるかもしれない。


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