95式軽戦車(ハ号)

全長:        4.30m
車体長:       4.30m
全幅:        2.07m
全高:        2.28m
重量:  7.7t(全備重量)
装甲:車体・砲塔前面 12mm
    側面・後面 6〜10mm
乗員数:        3名

(上記データは初期型のものです)
武装:37口径37mm砲×1
    120発搭載
    7.7mm機関銃×2
    3000発搭載
動力:三菱NVD
    120馬力ディーゼル
    直列空冷6気筒
走行性能:最大速度:40km/h
       航続距離:250km
総生産台数:2378両
 昭和6年(1931年)関東軍の板垣征四郎大佐(当時)と石原莞爾(いしはらかんじ)中佐(当時)のコンビは満州事変を画策し見事に成功させた。2年後の昭和8年(1933年)2月には傀儡政権満州国と中華民国の完全分離を目的として熱河省への侵攻「熱河作戦」を実施した。この作戦での特異な点はこの地域に鉄道がなくこれまでの作戦のように兵員輸送や兵站線確保のために鉄道が使えなかったために、自動車(トラック)を大量投入した点にある。この時に第8師団の第17連隊を完全に自動車化し(兵隊を自動車に乗せて移動させる事)89式中戦車5両と92式重装甲車2両を編成した川原挺進隊を参加させた。作戦自体は成功し、特に自動車化された第17連隊は280キロの工程を3日で走破するという当時としては驚異的なスピードで進軍した(通常、歩兵は1日40キロ、騎兵は1日80キロぐらいの速度だった)。この作戦は同年5月31日に停戦協定が現地軍同士で結ばれ、日本側の完全勝利で終わったものの歴史的にはこの作戦が起爆剤となって、有名なリットン調査団の報告書が採択された。他の欧州諸国は(特にイギリスとフランス)日本と同様に中国に権益をもっていたので、この報告書の採択には消極的だったものの、この熱河作戦は消極的姿勢を吹き飛ばしたのだった。満州事変は国際的にも「侵略」と認定されたのだった。いうまでもなく日本は国際連盟を脱退する事になった。
 さて、熱河作戦で華々しい戦果を上げた日本軍だったものの、ある問題が生じていた。トラックと戦車の速度の違いから一緒に運用されなかったという事である。トラックは道路上では戦車より速く戦車は無理についていこうとして結果的に落伍した戦車もあった。95式軽戦車開発にはこのような背景があった。
 95式軽戦車の開発要請は昭和8年7月で、熱河作戦終了が1ヶ月半前だという事を考えるとまさに機動的な戦車を陸軍はよほどに欲したからといえる。設計は9月までには完了し、三菱重工に1両、試作を依頼した。翌昭和9年6月に試作車が完成した。試験は6月19日から24日にかけて行われ、千葉の富津射撃場で主砲発射のテストが行われ、関東平野や碓氷峠で機動テストが行われた。テスト結果はきわめて良好で故障もせず、また最高速度が時速43キロを記録するなど、なかなか上々な成果だった(89式中戦車は時速25キロしか出せず、92式重装甲車は時速40キロを出せたものの耐久力が足りなかった)。ただ唯一要求を満たしていなかったのが重量で、7t以下の指示だったけど重量は7.5tあった。これを軽くする事が課題だったけども、改修につぐ改修で軽量化どころか結果的に量産型は7.7tと重くなってしまった。結果的に性能に甘んじて重量制約を撤廃したという事だろうか。
 この試作軽戦車はいろいろな改修を行った。まず側面の装甲がまっすぐだったためここを曲面とした。ちょうどホッペを膨らますような格好となっている。また、砲塔を車体中心から正面から見て右にズラした。なぜだろか?。そして、砲塔後部に7.7mm機関銃を搭載するなどの改修を行った。
 それまでの呼び名だった「試製6t戦車」は昭和10年12月16日に正式に「95式軽戦車」と命名された。この命名された第13回審議会では95式軽戦車をめぐって、騎兵部隊側と戦車部隊側の意見が対立した。
騎兵部隊側は「機動戦車としては最適」と絶賛したのに対して、
戦車部隊側は「戦車の価値なし」と断言した。
結果から言えば両方の意見は的を当てているといえる。騎兵部隊側の馬場正朗大佐(当時)の意見からすれば、騎兵部隊では機動力を要求するから機銃弾を防げれば十分で武装も装甲も問題ないという意見だった。戦車部隊側の木村民蔵大佐は「機動力は文句ないが装甲が薄い。12mmではなく30mmにしてほしい」といった意見だった。30mmという数字には理由がある。当時の対戦車砲は砲口37mmの大砲が主で、砲身長にもよるけど、だいたい1000mで20〜25mmの装甲を貫通できた。当時の戦車の装甲はそのぐらいだから、それを凌ぐ装甲を戦車部隊は望んだのは至極当然だったと言える。当時の日本の戦車使用論は歩兵の支援で、歩兵進撃の障害物(歩兵砲や機関銃銃座)をつぶす目的だったので、厚い装甲を望んだのだった。ただ、結果論ながら仮に30mmにした所で後述するノモンハン事変では結局負け戦だったろう。ソビエトは37mm砲の上をいく長砲身45mm砲を搭載した戦車を繰り出してきたからである。ともあれ、97式中戦車導入時の戦車部隊側と参謀本部の主張と似ているけども、この95式軽戦車導入にあたっては戦車部隊側の主張は通らなかった。せっかくの機動戦車導入の目的で装甲を厚くしてまで鈍足にするのは本末転倒も甚だしかったからだろうし、何のための軽戦車かという意見もあったのだろう。
 さて、95式軽戦車の初陣は日中戦争勃発直後の昭和12年7月の沙河鎮での戦闘で戦車第4大隊が使用していた。95式軽戦車が壁にぶち当たったのがノモンハン事件だった。それまで、外蒙古と満州国の国境紛争は散発的に続いていたけども、昭和14年5月からは本格的な戦闘に突入し7月からは激烈な戦いとなっていった。95式軽戦車は89式中戦車とともに主力戦車として外蒙古を支援するソビエト軍戦車隊と戦う事になった。しかし95式軽戦車の37mm砲は非力で、当てても当てても弾き返された。
そんな!、牽引砲の94式37粍(ミリ)速射砲は戦果を上げているというのに!。
95式軽戦車に搭載されている37mm砲は正式には「94式37粍戦車砲」だった。頭の名前こそ同じ94式だったけども、「94式37粍戦車砲」は「94式37粍速射砲」と比べて砲身長が40センチ短かった。また装薬(弾を飛ばす火薬)は3割ほど少なかった。無論初速もその分劣ったから(速射砲は700m/sだったけど戦車砲の方は560m/sしかなかった)貫通力もそれに比例していた。当時のソビエト軍戦車(BT戦車やT-26)の装甲は6〜22mm程度だったけど95式軽戦車搭載の37mm砲ではそれでも非力だった。結果、損害を重ねて全滅を恐れて早々と引き上げてしまい日本大敗北の元凶を作ってしまった。しかし95式軽戦車を弁護するとすれば元々が対戦車戦を考慮していない機動戦車だからいたしかたない事なのだろう。この戦訓で新しい37mm砲「98式37粍戦車砲」が搭載された。詳細は分からないが恐らく砲身長を伸ばしたものと思われる。結果からいえば時すでに遅かった。
 敗北は敗北で仕方がない。汚名挽回には他の戦場で活躍するしかなかった。幸いにも95式軽戦車はその活躍の場を与えられた。
 昭和16年12月8日午前1時30分。日本陸軍は、マレー半島のイギリス領コタバルに奇襲上陸。1時間50分後には日本海軍がアメリカ領ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をしかけ太平洋戦争が勃発した。ハワイはさておき、マレー半島戦線では95式軽戦車は縦横無尽な活躍をした。装甲が薄いため、対戦車砲や戦車を装備している敵に不運にも遭遇した部隊は結構な損害を被っているものの、イギリス軍は「マレー半島のジャングルには戦車戦力は役に立たない」として少数の部隊しか配置していないという幸運も重なったのが活躍した理由だといえる。側面の敵など構わず突進し、前に大砲があったら踏み潰し、トラックが前にあったら体当たりで横転させて前に進んだという。また、機械的なトラブルも殆どなく、マレー作戦で何千キロと走らせても故障せず、その後のスマトラ島でも何千キロと走らせても故障しなかったという。
 しかし、95式軽戦車の栄光もここまでで、アメリカ軍のM4シャーマン戦車の敵ではなく、その活躍も極端に少なくなっていった。しかし、歩兵支援用として敵機関銃座を潰したりしていたようだけども、本来の任務とはかけ離れていったのは事実である。不幸な事に敵歩兵もバズーカ砲を持つようになると対歩兵戦でも95式軽戦車は損害を重ねていった。


 95式軽戦車は懸架装置は、コイルスプリングが水平置きになっている。ゴム転輪が2個1組でボギー式にセットされている。これは実戦経験からの裏打ちだという。
 乗員は3名で車長・操縦手・前方銃手だけど、車長は、主砲の装填・射撃・後方機銃射撃および銃弾装填・操縦指示・全周警戒・・・ようは操縦と前方銃射撃以外の全てを行わなければならず大変に忙しかっただろう。特に、95式軽戦車は中戦車の代用として使われていた時期もあり、指揮車は無線機を装備していたけども、指揮車は上記の他に無線操作をしなければならず猛烈に大変だったろう。
 上記で日本で試験した事を書いたけど、日本の兵器の多くは伝統的に寒さの耐久テストのため満州に送ってテストをしていた。俗に北満試験と呼ばれるが、この95式軽戦車の北満試験ではキャタピラ幅と高粱(「こうりゃん」。とうもろこしみたいな食べ物)の畑の畝と偶然一致したため、平行に走ると腹がつっかえてしまい走行不能になった事があった。対策としてキャタピラの間に車輪を入れたりしたけども、結果は思わしくなく少数が改造されたにとどまった。
 バリエーションとして、戦争末期の昭和19年に火力向上を目指して95式軽戦車に97式中戦車の砲塔を乗せた4式軽戦車がある。小さい車体に中戦車の砲塔なんて無理があるようにも思えるがなんとかのっけて完成はした。しかし量産はされなかった。もはや軽戦車ではアメリカ戦車には対抗などできなかったのが理由だろう。


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